第9話 やってきた朝、母と息子は…

 * * *



 ヒソヒソとした話し声がそこかしこで聞こえる。


 四方から視線を感じる。

 わかっている。


 注目を集めているのはオレ自身だ。

 ヒソヒソ話をしているのはクラスメイトたちだ。


 なぜならオレはいま、とてもわかりやすい形で、自分の席で頭を抱えていた。

 いつもならこの時間、授業前の自習をしているにもはずなのに、今日は朝からずっと机に突っ伏しているのだ。


 何かあったのでは、と思われているのだろう。


「よーっす、どうした、今日はずいぶん辛気臭いなおい」


 ぺちーん、と背中を叩かれた。

 こんな軽いノリをオレに仕掛けてくる人物はひとりしかいない。


「痛いぞコウタ」


「撫でたくらいだろ。スキンシップだよ」


 まあたしかに。言うほど痛くはなかったが。


「それよりどうした、いつもはガリガリ勉強してる秀才くんが。今日は気分でも悪いのか?」


「いや、そうではないが……」


「だったらシャンとしろよ。おまえがうんうん唸ってるとみんな不安がるんだ」


「唸ってたか?」


「ああ、結構ヤバい声量で」


 それはすまないことをした。

 というか自分で声を出していたことにも気づかないとは。

 かなりの重症と言える。


「おまえ、なんかあったか?」


 コウタの質問にドキっとする。


「べ、別に、なにもないが。すこぶるいつもどおりだ」


「いつもどおりじゃないから唸ってたんだろうが」


「お、オレだってたまには唸りたいときもある」


「どんなときだよそりゃ」


 あ、危ない。なんて鋭いんだコウタのやつ。

 普段は恋愛などしない、などと、コウタに対しては宣言すらしているオレが、まさか女性のことで悩んでいるなど、口が裂けても言えない。



 *



 ――朝方、ミアさんの衝撃発言により気を失ったオレだったが、再び目覚めると、隣にミアさんはいなかった。


 そのかわり、ものすごく焦げくさい臭いがして、大急ぎで跳ね起きることになる。


「ミアさん!? なにしてるんですか!」


「ユ、ユウイチさん、ご、ごめんなさい。このかまどの使い方がよくわからなくて……」


 見てみれば、フライパンの上で、昨夜オレが買っておいた食パンが真っ黒焦げになっていた。


「わ、わたし、お母さんだから、ユウイチさんにごはん作ってあげようと思って……」


「いや、気持ちはありがたいですけど」


 それは無茶というものである。

 昨夜、買い物にでかけたときから思っていたが、ミアさんに地球の常識はほとんどない。


 そんなあなたがよくもまあガスコンロの火をつけられたものだ。


「それは、昨夜ユウイチさんが使っているのを見て……」


 たった一回、オレがチャーハンを作っていたのを見ただけで、覚えてしまったのか。


 どうやら学習能力は高いようだ。


「でもダメです。きちんと使い方を知らないうちに、火を扱ったりしちゃあ。オレがちゃんと教えるまで、これは触っちゃダメです。いいですか?」


「はい、ごめんなさい……」


 シュン、とミアさんはうなだれた。

 形がよく、長い銀色のまつげがハの字を描いている。


 ちなみにいまの彼女はエプロン姿である。

 いつもオレがつけているエプロンも、女性が着用するとどうしてこうも違って見えるのだろうか。不思議だ。


「あっと、こうしちゃいられない!」


 久しぶりに二度寝(気絶)をしてしまったので、時間がない。

 したがって、いまからミアさんに地球の常識をレクチャーしている余裕はない。


「ええと、とりあえず――」


 オレは余っていた食パンの表面にパターを塗り、冷蔵庫から取り出した適当な具材――昨日買っておいた、ハムやらチーズやら、ツナやらを挟んでサンドイッチにしていく。


 鍋に水を張り、それを沸騰させている間に、これまた適当に野菜を刻み、煮立ち始めたら投入。味付けはガラスーの素と、軽く塩・こしょう。うん、悪くない。


「とりあえずミアさんのメシです。朝と昼が同じになって申し訳ないですけど、オレはもう学校に行かないとなので」


「え、そうなんですか!?」


 ミアさんが目を丸くして、大げさすぎるくらい驚いている。

 そんな彼女を尻目に、オレは脱衣所にこもり、制服に着替え、歯磨きと洗顔を終える。


「夕方前には帰ってきますから――」


 通学カバンに教科書とノートを詰めていると、ふと背後に気配を感じた。

 振り返るとそこには、思いっきり至近距離にミアさんの顔があった。


「ユ、ユウイチさん」


「な、な、なんです、か……?」


 彼女はいまにも泣きそうな顔だった。

 オレよりも年上のはずなのに、妙に幼く見えてしまう。


 これはアレだ、仕事にでかける父親に行ってほしくない子どものような感じ……と言えば伝わるだろうか。


「……学生さんなんですよね。行かないわけにはいかないんですよね」


「それは、そうです、けど」


「ごめんなさい、わたしユウイチさんのお母さんなのに、朝ごはんも作れないで、お弁当だって作ってあげられなくて……」


「そ、それは、地球に来たばかりなんですから、仕方ないかと」


「わたし、一刻も早くユウイチさんのお母さんになりますから、だから、その、えっと……」


 ミアさんの蒼い瞳がさまよう。チラチラとオレを見つつ、うろうろとあらぬ方を向いている。


 柔らかそうな口元が、何事かを言いかけては閉じてを繰り返す。


 だがやがて、決心するように、彼女は口を開いた。


「は、早く、できるだけ早く、帰ってきて、くださいね……約束してください」


 そっと、彼女は左手の薬指を立ててきた。

 ほっそりとしていて、長くて、しなやかな指だ。

 桜貝のようなピンク色の形のいい爪が乗っている。


(異世界でも指切りってあるんだな)


 そう思いつつ指を差し出すと、ミアさんは小指を絡めるだけにとどまらず、空いていた右手でもオレの手を握りしめ、ギュっと胸元に寄せた。


「ミ、ミアさん!?」


 エプロンの胸元を押し上げる大きなふたつのお山のなかに、オレの手が埋められていく。


 うおお、す、すごい落差だ。ズブズブと埋まっていくぞ。

 トクントクン、と、やや早めの鼓動を直に感じる。


「わ、わかりました、授業が終わったら、すぐ帰宅しますので」


「本当ですか。嬉しいです」


 ハグされた。もう両手でガバっと抱きしめられた。

 スリスリと頬ずりされる。

 頭のかたちを確かめるように、指先で頭皮をなでなでされた。


「オ、オレ、もう行かないと、遅刻しちゃうから……!」


「あ、ごめんなさい。じゃあ、わたしは、ユウイチさんが作ってくれたごはん、食べてますね」


「え、ええ……」


 ミアさんのぬくもりが離れる。

 オレは「後ろ髪が引かれる」ってこういうことなのか、と思いながら玄関へと向かった。


「ユウイチさん」


「は、はい?」


 呼ばれて振り返る。

 再びすぐそばまで来ていたミアさんが、ニッコリと笑顔をくれる。


「いってらっしゃい」


「……いって、きます」


 部屋を出る。歩く。立ち止まる。

 心臓が痛い。痛いくらいドキドキいっている。


「はああ……」


 オレは胸を抑えながら駅へと歩き始める。

 そして未練がましくアパートの方を振り返る。


 一階の一番奥、六号室のベランダ側が目に入る。


「げっ」


 そこには掛け布団が干してあった。

 一発でミアさんの布団だとわかってしまう。


 なぜなら布団には、大きくふたつのシミ……おっぱいのシミができていたからだ。

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