第8話 真夜中×ふたり×初めての接触
*
長かった一日が終わろうとしていた。
いや、そもそもミアさんと出会ったのは、わずか数時間まえのことなのだが。
それなのにもかかわらず、とてもなく長く感じられる濃密な時間だった。
テーブルを部屋の片隅に立てかけたあと、押し入れから布団を取りだして敷く。
オレは自分の布団を。
ミアさんには未使用の父親の布団を用意した。
定期的に干していたので、問題はないはずだ。
「ユウイチさん、どうしてそんなにお布団を離すんですか?」
「お願いです、聞かないでください」
オレはもう疲れて切っていた。
今日はもうこれ以上ドキドキなんてしたくない。
苦しいんだ、心臓が。
こんなに心臓を酷使したのははじめての経験だった。
「お布団なんてひとつでいいのに」
「…………」
不満そうなミアさんのつぶやきに、オレはとっさになんですって!?
と、ツッコミを入れそうになってしまう。
でもやめておいた。
申し訳ないがここは、聞こえないフリをしてやりすごそう。
「オレ、明日も学校があるので、もう寝ます」
「はい、学生さんなんですよね。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい……」
蛍光灯の紐を引っ張り、電気を消す。
オレンジ色のナツメ球だけが室内を薄ぼんやりと照らした。
「ユウイチさん」
「はい?」
「わたし、地球に来て、ユウイチさんと家族になれてよかったです」
「え――」
ドキっとした。でもそれは最初だけで、あとは何故か胸の奥がキューッとしめつけられた。
「それだけです、おやすみなさい」
ミアさんは布団をかぶってこちらに背を向けた。
オレはその背中をしばし見つめたあと、自分もまた布団をかぶって身体をらくにした。
「…………」
見上げる天井。いつもと変わらない風景。
でも今日は明確にちがう。
この狭い部屋に、もうひとりぶん、確かな体温と息づかいを感じる。
そして自分以外の誰かの香りも……。
不思議だ。先ほどまではドキドキする香りだと思っていたのに、いまはとてもリラックスする香りだ
いつもは勉強に疲れて、気を失うよう、唐突にやってくるはずの眠りが、今夜だけはゆっくりと、少しずつ意識を溶かしていく。
ああ、もうすぐオレは眠りにつくんだ。
まどろみの淵で、オレの脳裏に浮かんだのはミアさんの眩しい笑顔だった。
*
目が覚めた。部屋はまだ暗い。
朝は遠いようだ。
「う、うう……」
なにか、聞こえる。これは、誰かの声?
「はうぅ、うあっ」
泣いているような、苦しんでいるような。そんな声がする。
「はあ、はあ、はああっ」
って、この部屋でいまオレ以外に声を出すヒトなんてひとりしか――
「ミアさんっ!?」
慌てて跳ね起きる、そのとたん、「うっ」となってしまった。
なんだこの濃密な香りは。
寝るまえに心地よさを感じていた香りとはちがう。
まるでチョコレートを沸騰させて、その蒸気で部屋中が満たされたような、そんな甘ったるい匂いが漂っている。
「ぐぅぅ、はうう……!」
そうだ、いまはそれどころじゃなかった。
「ミアさん、大丈夫ですか、どこか具合が悪いんですか?」
相手は異世界人。来たばかりの慣れない環境で体調が悪くなったのかも。
もしくは地球の病気にでも罹ってしまったのだろうか。
「ユ、ユウイチさん……?」
掛け布団の隙間から、ミアさんがこちらを見てくる。
その瞳は潤んでいて、薄暗くてよくわからないが、額には汗もかいているように見えた。
「気分がすぐれないんですか? いまなにか冷たい飲み物を――」
「ち、ちが、ちがうんです、大丈夫ですから」
立ち上がろうとするオレの腕を、ミアさんはつかんできた。
触れた彼女の手は、尋常ではないほどの熱をもっている。
そして、持ちあがった布団からは、さらにむせ返るほどの甘ったるい匂いがした。
「お、起こしてしまってごめんなさい。病気とか、そういうのではないんです」
「そうなんですか? でも、そのわりには苦しそうにしていたような……」
なんて濃い香りだ。鼻で呼吸していると、粘膜がピリピリするほどだ。
ずっと嗅いでいると、もしかしたら鼻血が出るかもしれない。
「すみません。原因はわかっているんです。でも、ちょっと自分ひとりではどうしようもなくて」
「はあ……」
ダメだ、この香り……こっちがクラクラしてきてしまう。
頭がボーッとしてきたぞ。
「あの、それで、こんなことをユウイチさんにお願いするのは大変恐縮なのですが……」
「……オレでお役に立てることがあれば、協力しますけど……」
などとオレは、茹であがりつつある脳みそで、反射的にそう応えてしまっていた。
「本当ですか! ああ、よかった……!」
ミアさんは一旦オレの腕を離し、今度は手をギュウっと握ってきた。
「わたし、こんなこと誰にもお願いできなくて……ユウイチさんに断られたらもうどうしようかと」
彼女は安心しきった顔をしていた。
いままで見つけられなかった心のよりどころを見つけたような、大げさでもなんでもなく、そんな表情だった。
「それじゃあ、ユウイチさん」
「は、はい」
オレの手を握るミアさんの手にチカラがこもった。
その力強さは尋常ではなく。
あとで考えればそれは、獲物を決して逃さないという、捕食者のようでもあった。
「じ、じつはわたし、その、お乳が……」
「はい……はい?」
いま、なんて言った?
「ごめんなさい、何故か急に、母乳があふれてしまって……」
「…………」
完全に布団を取り払うミアさん。
オレが貸したシャツは、薄闇のなかでもハッキリわかるほど、胸の部分にシミ……濡れいてた。
「切ないんです。なんだか気持ちが悶々としてしまって……」
「あ……う……あ……」
言葉がでない。身を起こしたミアさんの乳房が、水平方向から垂直方向へと向きを変え、重力と戦う姿勢をみせた。
その際、薄闇のなかであっても、オレの目には「ユサ」っとした重質量物特有の胎動がみてとれた。
「ユウイチさん、こっちにきて」
「…………」
オレの意識はここから曖昧になる。
なぜなら、手を引かれ、抱きしめられたからだ。
抱きしめられた瞬間、あたたかくて大きなものに包まれ、すごくいい匂いがした。
なんという心地よさだろう。そうだ、これは紛れもなく、おかあさんのぬくもりだ。
かつてオレはこのぬくもりに包まれていた。
でも、永遠に失ってしまった。
まさか再び手に入れることができるだなんて。
「ユウイチ……」
白濁に塗りつぶされる意識の淵で、オレはどこまでも優しい、おかあさんの声を聞いた。
*
「ん、う……」
苦しい。なんだ、どうしたオレ……。
思うように息ができない。
「は、は、ぷはっ」
くびを振ってなんとか息を吸う。
甘い香り。昨夜よりずっと濃い――
「おはようございます、ユウイチさん」
「え」
視線をあげるとそこには、蕩けそうな笑みを浮かべたミアさんが。
そして眼のまえには褐色の――谷間。
深い深い渓谷のクレバスがそこにはあった。
まさかオレは、いままでこの谷間に鼻先を突っこんで!?
「よく、眠れましたか?」
「……はい」
本当によく眠れた。
いつもは夜中に何度か目を覚まし、浅い眠りを明け方まで繰り返すのに、今日は朝までぐっすりと。
こんなことは久しぶりだった。
「昨夜は、その、ありがとうございました」
「え? えっと……?」
お礼を言われて戸惑う。
むしろそれはこちらのセリフ……というかオレのほうこそ謝罪しなければならないのでは?
「まさかあんなことになってしまうだなんて……ユウイチさんがシてくださらなかったら大変なことになっていました」
ちょっと待って。
シて、って、オレ何を……ナニかしました?
「あんなに強く、激しくシてくれるだなんて」
「えッ、あ、あの、オレ――」
「でも、少し痛かったです」
痛かった!? ま、まさかオレ、あわわわわわ!
「次からはもっとやさしく吸ってください……おっぱい」
「――――」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに目を伏せるミアさん。
オレは声にならない声で叫び、朝っぱらから再び意識を手放した。
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