第30話 世捨て人

「名前は妻木...トモなんとか。多分、というか間違いなく漁師さあ。歳はわからなくなったけど、60は超えちゃってたんだろうねえ。トモ、トモってお母ちゃんに言われてたから...トモユキ...だったかな。ごめんね、せっかく起こしてくれたのに」

「忘れちゃう人がほとんどですからお気になさらず」

「ユミっていうのは死んだ女房さ。妊娠してた。火事になって。目の前で。ああ、可哀想に。ユミがどんな人生だったかも俺は忘れちまってる。助けられなかった上にこんな...」

「やめておきますか?」

「いやいい。大丈夫だ。答えるよ」

「最後にどこにいたか覚えてますか?」

「千島列島の沖合にいたはずなんだよ。ここベーリング海なんだって?ずいぶん来ちゃったな」

「妻木さんが覚えておられる範囲で、若い生存者がいたという記憶はありますか?」

「北海道も全然ダメ...若いっていうと50行ってないくらいでも若いに入るかい?」

「有り体にいうと女性なら閉経前の方が望ましいですね。もちろん強制する権限などないし、あっても推奨さえする気も毛頭ないんですが、人口再生産が起きる可能性だけは知りたいんです」

「いやまあ男だからその辺は大丈夫だと思うが。….まあかなり難しいね」

「そうなんですか?」

「諸尾種子保管庫って知ってるかい?」

「いや、存じ上げませんね」

「誰かが覚えてくれてるだけでも、外に連れ出せる希望があったんだがなあ。人形病禍が来てからずっとそこに引きこもってる世捨て人がいるんだ。誰も来ない。誰もここを覚えてないって。怒って泣いて塞ぎ込んでる。自分より施設が忘れられたことが許せないんだな」

「種子保管庫があっても、もう土がないと」

「そうなんだよな。可哀想な奴なんだよ。このままじゃ、あそこに用のある奴は現れない。だからさ、今の本当の状況を聞いてもあいつの心は絶対に良い方向にはいかないだろう。もう少しマシな....ゾンビ禍なんだって伝えてる。ゾンビがいなくなればって。何か光明が見えるまで、あそこで種子と一緒にあいつは保管されて欲しいんだ」

「その方のこと、すごいよく覚えてられるんですね」

「ああ。これだけは死んでも覚えてたんだな。ユミの腹の中にいた子がもし育ってたら....あいつくらいの歳なんだよ。生きて欲しいんだ。生きて土を踏んで欲しい。あいつの孤独には意味があったんだって」

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