第9話 出航
名前をいまだに思い出せない。
もう調べる手段もない。
昔のドラマで「船乗りが片足を乗っけてポーズを取る奴」と呼んでいた、ワラビのような鉄柱だ。
鉄柱からロープを解き、妻木の漁船「第一次郎丸」に乗り込む。こんな時でも「それは太郎丸じゃないのか」という疑問が脳裏をよぎる。
連中の仲間が乗っていないか船内を急いで見て回るが乗っていない。
操舵室に入り、心拍が跳ね上がる。
エンジンキーがない。
落ち着け。セルモーターをバッテリーと短絡させて直接回すんだ。エンジンルームに潜り込み、以前に修理した時の記憶を最大限に導入して配線をいじる。
どんなに落ち着けと言い聞かせても恐怖で手が震えて手を早く動かす割にやり直しが頻発し、作業が思うように進まない。
エンジンが始動した。操舵室に戻ると桟橋に妻木がいるのが見える。息を呑む。
スロットルレバーを引き急いで離岸しようとするが、少し進んで何かに制止され、エンジンが唸るばかりで動かない。
「みとちゃん!みとちゃん!」
妻木の叫び声が聞こえる。奴があの怪力で船を掴んでるような光景が脳裏によぎる。
「みとちゃん!アンカー上げて!出航できない!」
意味がわからない。なんで奴は桟橋から船泥棒に自分の船を盗む助言を叫んでいるんだ。罠なのか。しかし確かに錨が降りたままだ。
スロットルを最低速度にし、船首に出て錨を巻き上げる。今度こそ出航できる。
「気をつけて!いってらっしゃい!」
私は今、船泥棒をしてるんだよな?
妻木だけではなく大内も手を振って見送っている。他に船がなく、奴らはこれで島を出られないのに。行動の不可解さ、不条理さに今自分は夢でも見てるのかと、知覚している全てから現実味が失われる。どこに向かうでもなく呆然と船を前進させ続けた。
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