28 進路



 月曜日、少し弱くなった雨がまだしとしと降り続けている。相変わらず良く眠れない。夜中に何度も悪夢にうなされ目が覚める。牧場へ来て以来、更に悪化している。


 連日止まぬ雨に何もかも湿気を帯びて、牧場全体がふやけているような気になる。


 せっかくバイクで来たのに、悪天候続きで周囲を走る暇もない。このままでは私自身もぶくぶくの水膨れになってしまいそうで、居てもたっても居られなくなった。耐えきれず、親方に借りた四駆に飛び乗り町へ出た。


 以前はバスで通り過ぎただけの、小さな町の中心部である。咲の学校があるので先日初めて訪ねて以来だ。


 秋田新幹線の開業で駅の周辺は多少賑わっているが、全体には昔と変わらぬ古い町並みである。


 高校の近くにある立派な書店に立ち寄り、久しぶりに漫画雑誌などを手に取ってみた。



 子供の頃から漫画を読むのも描くのも好きではあったが、まさか自分の職業となるなど夢にも思っていなかった。


 そういう意味では、私は根っからの漫画マニアではない。そもそも、漫画やアニメーションの世界にはあまり詳しくない。


 ただ、学生時代からこの業界の端っこに身を置き何年か経つもので、そこの住人との交流は増えた。必然、様々な作家の作品を読む機会も多くなっている。


 何日かぶりに書店に並ぶ本を眺めていると、あれもこれもと結構な量の本を買ってしまう。さらに自分の仕事の参考資料となりそうな本を多数買い求め、大荷物を抱えたままファミリーレストランに入り、新しい本を開いた。



 私の作品は、主に日本の伝統的な風景や民俗に根付いた架空世界での与太話である。


 ストーリー性は希薄で他愛のないホラ話が中心だが、図柄は精一杯に凝って、作品世界のオリジナリティを精一杯主張している。


 元々が、デザイン方面の仕事を目指していたもので、一つ一つの絵に対する構図や描き込みに全力を投入する。そのためアシスタントの手伝いを得られる部分が少なく、作画はほぼ一人で長時間の作業となる。



 半年前に編集部から月刊誌での連載を匂わされてから、必死の思いで休みなく描き続け、幾つかの作品を描き上げた。


 そのうち四本がシリーズ化されて雑誌に掲載され、三本が今後の連載用にストックされている。短編の一本は関連の週刊誌に掲載され、もう一本は単行本用の描き下ろしとなった。


 その間に、単行本の表紙を描いたりカラー原稿を描き加えたり、多忙な半年であった。おかげで今こうして遊んでいられるわけだ。


 レストランで知人の新作を楽しく読みながら、久しぶりに一人の時を楽しんだ。


 飽きると、仕事の参考になるかと買い求めた岩手県の民話や伝説の本、古い民家の写真集、マタギの生活を描いたイラスト本など、どれも興味深く眺めた。



 昼食の後、民俗資料館で実際の古民家を見て回り、遠野物語に出て来るような異質の世界に触れた。これはいつか絵にしなければ、と強く感じる。


 とはいえ寝不足により頭はぼんやりして、真剣に資料として捉えたのではない。写真を撮ることも忘れてただ寝惚け顔で眺めていただけの話である。


 一日ボーっと過ごした夕方、船見ファームへ戻る前に咲の携帯へメールを送るともう帰るところだというので、高校の近くで拾って帰った。


 咲は学校の出来事をあれこれ話してくれて、おかげで居眠りせずに無事運転が出来た。


 私は咲の進学についてもう一度詳しく話を聞こうとしたのだが、うまくはぐらかされてしまった。


 山道を登ると再び正体不明の不安が湧きあがり、胸の鼓動が落ち着かない。私の心身は、一体どうなってしまったのだろうか。



 夕方、いつものように工場へ顔を出し、試食をした。二人の情熱は次々と新しい味を生み出している。最早私の出る幕などないことは明白である。


 お世辞を抜きに、素晴らしいとしか言いようがない。それでも二人を納得させることは難しい。本当に困ったものである。もう後は二人で仲良く勝手にやってくれ、と言いたい。


 その夜、組合の会合で親方と慎さんは町まで降りて、家には婆さんと咲だけになった。婆さんは早々と寝てしまい、咲は二階の部屋で勉強をしている。


 私は昼間の延長のように居間で一人ぼんやりとテレビを見ながら、町で買って来た一升瓶の地酒をちびちびと飲んでいた。


 暇なので今日見た茅葺屋根の家や農具などを思いつくままノートに描いて、気ままに過ごした。


 時折睡魔に襲われうとうとするが、部屋で横になると再び悪夢に呑まれる気がして、動きたくない。



 二階から咲の降りて来る小さな足音を聞いて、我に帰る。


 咲は冷蔵庫から出した冷たい牛乳をグラスに注ぎ、私の隣に座る。つまみにしていた殻付きの落花生に手を伸ばすと、ものすごい勢いで食べ始めた。


「これおいしいね」と言いながら、夢中で殻を剥く。


「おまえさあ、ちゃんと親方と進学の話をしないといかんぞ」


「うん」

 咲の生返事が室内の濃い湿気に吸い込まれる。


「お兄ちゃん、何書いてるの?」

 私のノートを目ざとく見つけ、覗きこむ。


「ああ、今日見た古い家を思い出してたんだ」


「これ、民俗資料館だね」

 咲はそう言いながら鉛筆を取り上げ、私の絵の下に違った家を描いた。これがなかなか上手なのである。


「これは、昔私たちが住んでた家」

 そして次に古い牛舎とレンガ造りのサイロを描く。


「サイロは今でも残っているけど、古い牛舎は小さい木造だったわ」


「おまえ、やけに上手いな」

 私が感心すると、咲は照れて顔を赤らめる。


「絵だけは、好きで毎日描いてるからね」


「毎日?」

「いや、勉強の息抜き程度にね」


「本当かよ?」

「お兄ちゃんより上手いかな?」


「馬鹿言え、これでもプロだぞ」

 そして私は負けずに、座っている居間の中を精密に描写した。


「おお、さすが」

「まいったか」


「ねえ、お兄ちゃんの本、おばあちゃんに取られちゃったから、私にももう一冊頂戴」

「ああ。じゃあサインをしてやろう」


「やった。ありがとう」

 すると咲は負けずに目の前の落花生を描き始める。これも不思議な味があって、上手である。しかも、何故か私の絵のタッチに似ている。


「お兄ちゃんの真似」

 と言って咲は笑う。私も笑うしかなかった。そうして二人で次々と絵を描いているうちに、時を忘れた。



 夜十時を過ぎて、親方が帰って来た。再び強くなった雨がこれでもかと屋根を叩いている。それでも親方は上機嫌である。顔が赤いので、一杯やって来たのだろう。


 テーブルの地酒を見つけると、俺にも一杯よこせと言ってソファに腰を降ろした。


 咲が台所へ行き、まず冷たい水を一杯手渡す。それから酒杯をひとつ追加した。手慣れたものである。


 最初は機嫌よく飲んでいたのだが、親方は咲とどうしても進学の問題に決着をつけたいようで、何度も同じ話を繰り返す。咲は例の如くのらりくらりと逃げているのだが、やがて親方のからみ方が少々強引になり、感情的な言葉のやり取りが始まる。


 これからどうする、の部分は比較的穏やかに話が進んだ。しかし親方が最後まで納得しないのは、それ以前の、何故、の部分であった。何故大学へ行くのか。何故東京へ行きたいのか。何故他の場所では駄目なのか。私も咲の話を聞いてどうにもよくわからない部分である。


「そんなに東京がいいのなら、もう帰って来るな」


 ついにはそんなことを言い出す始末だ。間に入ってなだめる私に、「よし、おまえに咲をくれてやるから、嫁にしろ。それなら俺も安心だ」などと乱暴な事を言い始めた。


 咲はさすがに気色ばみ、「お父さんの馬鹿!」と叫んで二階へ駆け上がってしまう。



「言い過ぎちゃいましたね。どうするんです?」

 私が言うよりも、親方自身が充分気付いている。


 冷酒杯を煽り、大きなため息をつく。


「女の子は難しいな」

「ええ」


 私は何も言えず、ただ黙って酒を飲む親方に付き合うことしかできなかった。やがて親方は酩酊し、よろめくように自分の部屋へ戻った。


 私もため息をひとつ漏らしてから居間を片付けると、二階へ上がった。



 咲の部屋の前まで行くと、まだ廊下に明かりが漏れていた。私は一度自分の部屋へ戻り、持参した単行本を一冊取り出す。


 表紙を開いて少し考えてから、シンプルに自分のサインだけを書いた。それから隣の部屋へ行き、遠慮がちに扉をノックして、「咲」と小さな声を掛ける。


 少しの間をおいて、「開いてる」とくぐもった声が聞こえた。


 私はゆっくり扉を開け、部屋の中へ入った。昔、一緒に夏休みの宿題をした部屋は、あまり変わっていないようだ。


 咲は奥のベッドの上から、横の机に上半身を預けている。泣いていたのか、目の周りが腫れていた。


「お兄ちゃん、ごめん。うちのお父さん、馬鹿だから」

「そんなことない。咲のことが心配なんだよ」


 私は机の上に、漫画本を置いた。


「ほら、サインして来たぞ」

「ありがとう!」


 咲は喜んで本のページをめくっている。

 私はその足元近くの床に腰を降ろし、咲を見上げる。



 咲は、机の上にある古いノートを取り、私の前で広げた。


「これ、覚えてる?」

 それは、昔一緒に描いた牧場の絵である。


「ほら、この牛」

 それは、亡くなった咲の母親が可愛がっていたというジャージー牛の絵である。咲の下手な字で、ダフネと書いてある。そうだ、思い出した。


「お母さんが可愛がっていた牛だよね」


「うん。私は母さんが大好きだった。母さんの事、もっともっと知りたかった。私が行きたい学校は、東京で母さんが通っていた大学なの」


 咲は下を向く。


「でも、お父さんはその事に気付きもしない」

 その時の咲は、六年前の孤独な少女に戻ったかのようだった。


「東京へ行った後のことはわからない。四年でここへ戻って来るかも知れないし、もうずっと戻らないかも知れない。私は母さんのいた東京の学校を、この目で見てみたい。できる事なら、私もそこで学びたい。本当に、ただそれだけなのに……」


 咲がベッドからずり落ちて、私の隣に腰を降ろし膝を抱える。私はその耳元で囁く。


「大丈夫、俺が親方に上手く言っておくから。咲は心配しないで、勉強だけしていればいいさ。大丈夫。心配するな」



 咲が、私を見上げる。


「ねえ、お兄ちゃん。私が東京の大学に合格したら、本当にお嫁さんにしてくれる?」

 私は先程の親方の言葉を思い出して、赤面する。


「うーん、それまで待てるかなぁ」


 それまでは思い出の中の子供だった咲の存在が、親方の一言を機に急に生々しい実在の女性として意識させられた。いつの間にか、心臓が早鐘を打っている。まだまだ私も若いのだ。


「こら、待ってろよ」

 咲は拳骨で私の脇腹を乱暴に押す。


 咲はまだ入学試験すら受けていない。大学を卒業するまでには、この先五度目の春を迎えねばならない。その頃にも、私は漫画を描いて暮らしているのだろうか。


 将来への不安など感じる間もなく走り続けた今、漫画家として私の未来はやっと明るく輝き始めたばかりである。


 ただ、そこに五年という具体的な歳月を重ねてみると、茫洋とした将来に続く道は実に儚く、目を凝らしてみてもただ濃霧の中である。


 自分ひとりの将来も見えない私に、咲の未来など重ねられる筈もない。



 先行きの見通しなど全く立たぬ自らの将来を、私はどう捉え、どう説明すればよいのだろう。


 自らの能力や努力、そして積み上げた実績や自信、そんなものがいつまでも通用しない世界であることを、嫌というほど見て来た。


 努力と才能だけで生き抜ける程、甘い業界ではない。ただ振り返り見た時のみ、運が良かったとしか言いようのない過去が細々と横たわるのみである。そこに、未来への視界はない。


 一寸先は常に闇。出るはため息ばかりなのだ。



「ねえ、本当に待っててよ」

 咲の体が更に接近する。


 私は答える言葉を持たない。


 ただ立ち込める霧の向こうが見えず、頭の中は真っ白で、困り果てているのだった。

 私は仕方なく黙って咲の頭を撫で、抱きしめる。


 しかし、咲を抱きしめる私の両腕に力はなく、頼りない。何と情けない男であろう。


 できる事ならば、もっともっと強く抱きしめたい。しかしどうしても、それ以上は体が動かなかった。


 いつか、この手で、自信を持って咲を抱きしめる日が来るのだろうか?


 そしてただずっとそうして咲の体温を感じていたいという欲望と、早くそこから逃げ出したいという不安が、心の中で渦を巻いていた。



  

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