1 迷走



 1996年春。

 華やかなりしバブル経済が崩壊し、世紀末を迎えた東京シティは荒廃していた。


 漠然と、世界の中心には自分がいるのだと信じていた私は、その混沌の責任を一身に感じて途方に暮れ、ひとり悶絶していた。


 その年には確かアトランタオリンピックが開催されて、世界は大いに盛り上がっていたのだと思うが、私の記憶にはほとんど何も残っていない。



 大学受験に次々と失敗を重ねた十八歳の新春、生まれて初めて経験する大きな挫折に、私は打ちのめされていたのだ。


 私のプアな、いやピュアな心はその負荷に耐えきれず、魂が半分抜けて泥人形のようになっていた。


 阿呆のようにぽかんと大口を開けたまま脳の機能が一部停止して、そのままの状態で卒業の春を迎えてしまった。


 男と生まれて十八年、向かい来る数々の困難に打ち勝ち果敢に生きてきた自負もあった。


 貧乏という程でもないが、決して裕福ともいえない家庭で育ち、部活や恋愛に青春をかける級友たちを尻目にアルバイトと勉強に打ち込んで、将来の道は自分で決めたつもりになっていた。それが、努力だけでは越えられない壁のあることを初めて思い知らされたのだった。


 それとも、私の見込みが甘すぎて、あと少し、もしくは甚だしく努力が不足していたのだろうか?


 あまり考えたくはないが、努力よりもむしろ、私の能力自体に大きな欠陥があったのではないか。そんな疑惑も深まる。


 何れにせよ、私のちっぽけな自負は木端微塵に打ち砕かれたのである。



 友人と卒業旅行に行く筈の春休みも、家で机に座ったままぼんやりと過ごした。


 多少なりとも働き始めた脳みその指令は非建設的で、机の上に広げた真新しい予備校のテキストにびっしりと書き込んだパラパラ漫画が、心の支えだった。


 挫折、と一言で表すのは簡単だが、もう少しだけ複雑な感情が渦を巻いていた。


 その頃の私の状況を、当時の予備校にいた名物講師風に表現してみれば、孤城落日、因果応報、千辛万苦、青息吐息、自信喪失、茫然自失、疑心暗鬼、凍曹達棒、などといった大いなる混迷の日々であった。


 とりわけ、最後の凍曹達棒には世話になった。


 その頃の私はそれ抜きでは語れない、分身のようなもの。捧げるのは無垢の愛である。それは一人娘を持つ父親のような、他者を顧みぬ、一方的な溺愛であった。


 私は毎日夕方になると近所のコンビニに出かけ、ガリガリ君ソーダ味を購入して齧った。


 雨の日も風の日も、日照りの日にもおろおろと歩きながらガリガリ君を齧った。私の心身の安定には、午後のガリガリ君が欠くべからざるものとして、大きな位置を占めていたのだった。



 予備校には、大金をつぎ込んだ分だけ真面目に通った。既にテキストの四隅はパラパラ漫画で埋め尽くされ、心機一転買い求めた新しいノートの隅にも象を呑み込むウワバミの姿などが新たに仲間として加わっていた。


 ゴールデンウイークという名の特別講習が終わり、じめじめした梅雨の時期になった。それまで大嫌いだった梅雨は、そのとき初めて私の価値観にぴたりとフィットして、その重要性を見出された。


 毎日しとしと降り止まない雨も、これ以上には私の心を濡らす事がない。ただひたすらに明るかった世間を暗雲で覆いながら湿らせていくことに、屈折した快感を味わっていた。



 しかし、そんな背徳的な平和を満喫することも、長くは続かない。


 六月末から変に暑い日が続き、七月初めには晴れると気温が三十度を越した。その後一転して冷たい雨が数日続き、いいぞいいぞと思う間に、雨が上がると突然裏切りの梅雨明け宣言であった。


 私は再び茫然とした。短い春だった。いや梅雨だった。


 例年より十日も早い気象庁による死刑宣告、いや明るい夏の到来を告げられたその日の午後、予備校帰りに凍曹達棒を買い求めるべく、馴染みのコンビニに立ち寄った。


 がらんとした店内で商品整理をしていた筋肉質の中年男に「店長、いつものやつ」と渋く決めた直後、私は打ちのめされることとなった。


「ああ、すまん。今日はもう売り切れ。いきなりこの暑さだからね」

 彼は両手を合わせて、最近急に髪の薄くなった頭を軽く下げる。その一言が、その後続く長い旅の起点になろうとは思いもしなかった。


 店長は、小学校三年のときの同級生である今陣君のお父さんである。もう十年近い常連である私に向かって、あまりにも冷酷な仕打ちではないか。


「まさか、俺のための取り置きもないの?」という言葉を喉に詰まらせたまま、私は絶句した。


 私は、やり場のない怒りの炎が胸中にとぐろを巻き始めたのを感じる。


 ただ深い穴の底に沈み呆然と空を見上げることしかできなかった私に、まだそんな激しい感情が残っていたとは……私はひとり困惑する。



 それでも、半年近く続く無気力状態の私である。胸中に芽生えた炎はすぐに燃え広がることも無い。


 結局店長に恨みごとの一つも言えず、力なく踵を返すと、うなだれたままとぼとぼと別の店へ向かった。


 それから一時間後、私は更なる敗北感を胸に電車に乗り、北へ向かっていた。


 近所のコンビニやスーパー、お菓子屋全てを回って、ガリガリ君ソーダ味が売り切れていることを確認した私は、ついに我慢できず、ガリガリ君を作っている赤木乳業本社工場のある埼玉県深谷市を盲目的に目指していた。


 私の住む二十三区の北端にある街からは、比較的容易にアクセスできるルートだ。私の頭は相変わらず垂れていたが、心の内に突如生じた正体不明の炎が、その出口を求めて私の手足を操り始めていた。



 夕方近い午後の高崎線下り電車は、強烈に効いた冷房で寒かった。


 二十世紀末の日本にはクールビズも新しい生活様式もない。オイルショック以降の省エネ節電の波はあったが、殺人的な通勤電車に省エネはミスマッチだ。


 だがその日、下り電車の車内は閑散として物憂げな雰囲気に満ちており、ビールや缶チューハイを片手に息巻く汗臭いオヤジたちの声だけが、楽し気に響いていた。


 そんな中、私はただ薬の切れたジャンキーのように震えながら、四人がけのボックス席に座り両手で胸を抱えていた。


 ガリガリ君の麻薬的な味に魅入られていた私であるが、極めて個人的な理由による禁断症状である。ガリガリ君には、何の責任もない。

 この辺りは敬愛する赤城乳業の名誉のためにも、明確にしておかねばなるまい。



 大宮駅で、私のいる車両にも数人の客が乗り込んだ。騒々しい酔っ払いの親父どもを避けて、車内をこちら側へ移動する。


「やあ。ここの席、空いてるかな」

 いきなり爽やかな声をかけられて重い頭を上げると、背の高い金髪の若い男がニコニコ笑いながら目の前に立っていた。


 彫りの深い、いかにも西洋人風の顔を見て、私はつい「Of course!」と答えてしまう。


「じゃあ、お邪魔します」

 流暢な日本語で答える彼を見て、私は思わず照れ笑いを浮かべた。彼のほうも慣れていると見えて、揺るがぬ微笑を抱いたまま空いている斜め向かいの席に座る。


「こう見えても、日本生まれの日本育ちでね。実は英語が苦手なんだ」

 彼は小さな声で囁き目を細めて、顔をくしゃくしゃにさせながら私を見た。


「これ、ひとつどうですか?」

 腰を下ろすなり、彼は手に下げた袋の中から棒アイスを二本出して、一本を私に差し出す。その青いパッケージは紛れもないガリガリ君ソーダ味ではないか。



「どうしてこれを?」


 私は震える声で、やっとそれだけを言った。飢饉に苦しむ平安時代の農民の如く、彼の手からアイスをもぎ取りそうになるが、必死にその衝動を押さえた。


「ああ、僕はこれが大好きでつい二本買ってしまったんだけど、すぐ溶けちゃうからね、よかったら一本どうぞ」


 彼は色白の顔をほんのり赤く染めて魅惑的な笑みを浮かべ、私の掌に冷たい袋を乗せた。


「ありがとうございます。じゃあ遠慮なく」

 私は思いもかけぬ幸運にうっすらと涙さえ浮かべて感謝し、卑しき心を悟られぬよう目の前の男性に深くお辞儀をした。


 そして宝物を戴くように貴重なアイスを両手でかざし、細かく震える手でパッケージの袋を破った。



 それから少しの間は夢中でよく覚えていないが、至福の時であったのは間違いない。途中でふと我に返り目前の男を見ると、彼もまた至福の表情でアイスにかぶりついているのだった。


 ちょうど低くなった太陽が彼の顔にスポットライトのような日差しを送り、薄い朱色に輝いている。その姿は神の存在を確信させるに充分な、神気を伴った美に満ちていた。


 これが奇跡というものかと、私は敬虔な気持ちで感謝の言葉を胸に満たす。もちろん、その間も口中は冷たいソーダ味で満たされているのだった。


 その後我々が意気投合し、冷え切った車内で赤木乳業の製品について熱く語り合ったのは当然の成り行きだ。



 彼はさいたま市内に住む大学生で、これから高校時代の友人の家へ遊びに行く途中だという。


 彼の日本語は完璧で、金髪が天然のモノなのか、それとも単に脱色しているだけなのか、深く悩んだ。


 そしてその声も、果して彼の本当の声なのか、それとも神の声が直接私の脳髄に響いているのか。それは、目の前で見ている私にも正確な判断が不可能なほど、神秘的な経験だった。


 凍曹達棒の呪縛から解き放たれた私はすっかり理性を取り戻し、自分がわざわざ深谷まで行く必要のないことを悟る。


 既に私は普通にガリガリ君ソーダ味を販売している神域に足を踏み入れていたのだ。


 私の短い旅はそこで終焉を迎える筈だった。しかしその後、彼の放った一言が、運命をさらに一変させる。



「先週、僕は東北へ旅しましてね、そこで、ガリガリ君よりも美味い極上のアイスに巡り合ってしまったのです」


 その一言が、眠りかけていた心の炎を再点火した。やはり、彼は本当に神だったのかもしれない。今から考えると、彼のその一言が、その後の私の人生までをも変えてしまったのだから。


 家からも予備校からも勉強からも逃げ出したかった私は、あろうことか、ガリガリ君より美味いアイスを求め、そのまま行き先を東北地方の某所に代えて、当てのあるような、無いような旅に出てしまった。


 再び踏出した歩みは、もう誰にも止められない。

 運命の変転は愚者の死角より密やかに忍び寄り、何ひとつ悟られることなく静かに動き始めていた。



  

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