2 日本海



 東北へ向かう筈の私は、なぜか新潟にいた。


 ちょうどその頃の東北地方は関東と違い、梅雨の長雨の真っ最中であった。各県内のあちこちで集中豪雨があり、河川の氾濫による洪水が起きて大きな被害が出ていた。


 そんな中を北へ急ぐ気になれず、中途半端な気持ちで上越線に乗り、新潟でこの先の旅支度を整えることにした。


 新潟駅の公衆電話で家へ電話をして、しばらく帰らない旨を一方的に告げてすぐに電話を切った。


 携帯電話は世に普及しつつあったが、まだ私のような若造が気軽に持つような時代ではない。通信手段としては、公衆電話用のテレホンカードがまだ最強を誇っていた。


 おかげで、東京との繋がりも簡単に切れる。



 駅のベンチで一夜を明かし今後の計画を練ったが、大していい考えも浮かばない。


 幸い、財布には銀行のキャッシュカードが入っている。三月に卒業旅行へ行くつもりで貯めていた資金が、そのまま手付かずで残っていた。


 もちろん、これで当分旅ができると思ったからこそ、こんな無茶な行動に出たのだ。私は本来慎重で用意周到、堅実に生きる人間なのだ。


 ……と、大学受験に失敗するまでは思っていたのだが。


 その頃の私は透明で傷つきやすい、ガラス細工のような心を持つ純真な若者であったのだ。多分。


 新潟駅構内の立ち喰いそばで腹を満たしてから、早朝の町へ出た。新潟の空は、梅雨の只中らしくどんよりと曇っていた。


 まだ目の覚めやらぬ繁華街やオフィス街を歩きながら、せっかく来たのだから、海が見たいと思った。



 市内を歩いてやっと到達した日本海は、沖に並んだテトラポッドの消波ブロックが台無しにしていた。


 考えてみれば、ぶらりと家を出て気の向くまま汽車に乗り、生まれて初めて目にした日本海に涙する、という感動的なシーンであってもいい。


 だが目の前の海岸には、あばら家の如き海の家が建ち並び、足元には花火の残骸が散らばっている。


 これで夕方ならば足元も暗くなり、日本海に沈む夕日に向かってバカヤローと叫んで落涙することも不可能ではなかっただろう。


 しかし早朝の海岸は犬を連れて散歩する地元の人々で満ちており、あちらこちらでその犬がしゃがんで用を足しているのを見ていると、別の意味で涙が出そうになる。

 バカヤロー。



 海水浴場は、週末に海開きを迎えるという。すっかりその準備が出来上がっているのだが、厚い雲に覆われた海はまだまだ海水浴客を拒絶するように暗く、荒く、うねっている。


 吹きつける潮風も肌に冷たく、昨夜からTシャツ一枚の私は寒くてたまらない。

 仕方なく街へ戻り、店が開くのを待って長袖のシャツを買った。


 新潟で揃えた旅支度は、小さなリュックと着替えが少々。期待を込めて、水着も買った。あとは洗面道具と、護身用も兼ねて購入したニセモノのアーミーナイフに小さなライトくらいだ。


 朝のうちに買物を済ませると、特にもう用事も無い。すぐに新潟を後にするのも勿体ないような気がして、駅の近くをあてもなく歩いていた。


 それでも初めて訪れた街は物珍しく、一日ぼんやりうろついて飽きることがなかった。日が暮れてからは駅前のサウナに入り、結局そこで二夜目を過ごした。



 新潟で過ごした二晩は、東京からずっと絡み付いていた鎖を断ち切った気にさせるのに充分な、自由気ままな時間だった。


 私はあまりの開放感に浮かれ、有頂天になり、自分が何でもできるような大きな気持ちになっていた。


 子供というものは成長に応じて行動半径が広がり、新たな世界が開ける。その時の私は、その延長線上に自分がいるだけのことと判っていた。


 けれど、新潟での怠惰そのものともいうべき喜びに脳の快楽中枢を直撃され、春からずっと燻って鰹節のように硬化した私の心は、既に抗い難い潤いに抵抗しようもなかった。



 翌日、私は列車に乗って北へ向かった。気温はまだ高くないが良く晴れた日で、車窓から時折見える青い海の誘惑に私は魅入られてしまった。

 山形県に入るともうたまらず、海岸近くの見知らぬ駅で下車した。


 海を目指して西へ歩くと、強い陽射しに汗をかく。ふらふらと誘われるように防風林の中へ踏み入ると、木陰が心地よい。


 やがて、海岸沿いの広いキャンプ場に出た。土曜日であったが夏休み前なので閑散とした場内だが、既にぽつぽつと派手な色の丼を伏せたようなドーム型のテントが張られている。


 テントも寝袋も持たない私だが、この天気なら松林の木の間にブルーシートでも敷いて寝られそうな気がする。地面は砂地で、余程の大雨でも降らなければ問題なさそうだ。


 実際、そのブルーシートすら持っていないというのに、だ。



 そんな気楽な気持ちでキャンプ場の管理室に行き、暇そうな管理人の爺さんと話をしてみると、大いに笑われてしまった。


「いまどき珍しい奴が来たな。夏休み前で暇だから、その辺のテントをタダで貸してやる。好きなのを持って行きな」


 そう言ってから、その前に中に入って涼んで行きなよ、と手招きをする。


 私は招かれるまま、狭いプレハブの管理小屋へと足を踏み入れた。爺さんは古いスチール製事務机の前に座っている。私はその横にある木の椅子へ腰を下ろした。


 くすんだ椅子は、どこかの古家で使われていた食卓の五脚セット最後の生き残り、といった雰囲気で、固いのに気持ちの和む不思議な座り心地だった。


 古いが清潔な室内は、冷房が程よく効いて気持ちよい。冷たい麦茶をグラスに注いで持ってきた爺さんは、傍らの小さなテレビに夢中である。



「なんですか?」

 と尋ねると、「ベースボールよ」と言う。そんなことは、見ればわかる。


 黙って待っていると、投球の合間に短い呟きのような意味不明の言葉が挟まる。


「ローカルラウンド」「グランドサン」など部分的に聞き取れた英単語を総合すると、どうやら高校野球の地区大会のようだった。チェンジの際に聞いてみれば、この試合には彼の孫がベンチ入りしているらしい。


 私はぼんやりと試合を見ながら、時折思い出したように話す爺さんの言葉を聞き逃さない程度に、緊張を保っていた。


 試合が終盤に差し掛かり、興奮した爺さんが詳しい話を始めると、山形訛りとカタカナ英語の混合で何を言っているのか半分もわからない。


 もしかしたらこの爺さんは日系二世か何かなのだろうか? それにしては下手な英語だが。



 私が辛うじて理解したところでは、彼の孫は一年生ながらベンチ入りしたものの、まだ出場機会なく出番を待っているらしい。


 孫のチームは後攻めで、1点を追い八回裏の攻撃中。緊迫したゲームに爺さんは益々ヒートアップして、応援に夢中になる。


 私も最初は爺さんの機嫌が良くなればと投げやりな応援をしていたのだが、九回裏に孫の学校が猛攻を仕掛け遂に同点とし、更に2アウト満塁から四番の一打でサヨナラ勝利を挙げたときには、爺さんと抱き合って喜んでいた。


 結局孫の出場は叶わなかったものの、これで甲子園に一歩近づいたと鼻息荒く語る爺さんの誇らしげな顔には、清々しい喜びが溢れていた。



 結局私は借りたテントを苦労して設営し、その中で寝た。


 炊事道具も何も持たぬ私に地元山形のキャンパーたちは異常に親切で、夕食のカレーライスを恵んでくれたり、ビールや焼酎のおすそ分けに預かったりしながら数日を生きながらえた。


 休日には小学生のいる家族連れが何組か来て、平日は幼児を連れた家族が来たり来なかったりした。その合間に大学生の団体が何組か来て、酒を飲んで大騒ぎをして周囲の顰蹙を買っていた。


 当然のことながら、その頃の私は大学生という存在に対してやや特別な負の感情を抱いていたもので、決して彼らに近寄ることはなかった。


 山形の海は青く澄んで、東京湾周辺の濁った海水しか知らなかった私には、まるで南国のリゾートにいるような気持ちであった。


 夕食は帰宅するファミリーからもらった固形燃料で暖めたレトルトご飯とインスタント味噌汁であったりしたが、松林の砂の上で食う味噌汁ぶっかけご飯は大量に投入した一味唐辛子のせいか妙にエスニックな香りがして、決して芋煮会の気分にはならない。



 昼飯は管理人の爺さんが弁当を二つ作ってきてくれて、管理室でテレビを見て笑いながら一緒に食べた。


 雨の日にはすることもなく、一日中管理室で爺さんと無駄話をしながらテレビを見て過ごした。


 気のいい爺さんは私のプライベートな事情を根掘り葉掘り問いただすような真似は決してせず、説教臭いことも何も言わず、自慢話すら滅多にしないで、淡々とエロ話やホラ話をして笑わせてくれる。


 例えばこんな感じだ。



 爺さんが生まれたのは、海から随分離れた山奥にある小さな村だった。


 次男坊だが、親父さんと兄貴は戦争に行ったきり結局帰らなかった。戦後は母親と年の離れた二人の妹と暮らしていた。


 周囲はどこも険しい沢沿いの斜面にへばりつくような土地で、狭い段々畑を大切に耕し、山へワナを仕掛けて獲った小獣を食べ毛皮を売り、猟師の真似ごとなどもしながら何とか生活していた。


 やがて結婚して子供が出来てからも食って行くのは大変で、手っ取り早く現金を稼ぐために、鉄砲を担いで山へ入ることが多くなった。


 何日も山へ入ると、時々おかしなことに出会うという。



 昔はこのキャンプ場の辺りでも、河童などが普通に見られていたらしい。しかし爺さんが山へ猟に行っていた頃には、もう人知れぬ山奥のような場所にしかいなかったという。


 例えば河童のいる池を通る時などには、好物の芋を置いて来るのが習わしだった。


「胡瓜じゃねえよ。河童が胡瓜を食うってのは、ありゃ迷信だ」

 爺さんはこんな調子でホラ話を進める。


 猟師の仲間は夏の間、沢で岩魚や山女など獲っては、時々池に放していた。秋から冬には池の近くへ仮小屋を建て、そこで池の魚を食べながら何日も狩猟をしたという。



 晩秋の満月の頃だった。仮小屋に泊まり月見酒に酔って寝た深夜、小便に起きた爺さんは、池の中で大きな生き物が泳ぐ気配を感じた。


 河童が出たかと、森の間から差す月明かりではっきり見ようと身を乗り出した。遠く冷たい水面に飛沫をあげていた気配が俄かに近寄り、目の前の大きな倒木の上へ跳ね上がったかと思うと、全身を現した。


 それは、若い娘だった。


 一糸身に纏わぬ若い娘の姿に驚き、爺さんは思わず目をそむけた。


 すぐに思い浮かぶのは、天女の羽衣伝説だった。爺さんは振り返り木の枝に羽衣を探したが、何も見当たらない。意を決して再び倒木の上に目をやると、若い女が横座りになってこちらを見ている。


 女の下半身は魚、つまり人魚だった。しかも、白く透けるような肌に、カールした金髪のグラマーな人魚だったという。


 金髪の人魚は真っ赤な唇をすぼめて爺さんにウインクをし、とどめに投げキッスを送ったらしい。



「間違いねえ。あれは、マリリン・モンローだった」

 そう言って、爺さんは真顔で私を見る。


 こんな話を信じろという方が無理だった。


 その時爺さんは半分腰を抜かしながら、「ハロー」と声をかけたらしい。


 金髪の美女はそれに答えて何か言ったようなのだが、その時には英語など全く知らない爺さんはさっぱりわからなかったという。


 やがてマリリンは再び水に飛び込み、池の対岸方面へと泳いで姿を消した。



 山形の人魚が本当に英語を話していたのかどうか怪しいものだが、とにかくその時の経験から爺さんは独学で英会話の勉強を始め、若い頃はかなり熱心に勉強したという。


 おかげで今でも興奮すると、若い頃に学んだ英語がつい出てしまうのだと。


 おそらくその時代、マリリン・モンローはまだ存命で人気絶頂の女優だったのだろう。日本人には金髪の美女が皆マリリンに見えたとしても、不思議はない。


 それにしても、何故山形の山中に金髪の美女が?


 嘘か真かはともかく、私も年老いたらこんな楽しい老人になりたいと思い、尊敬の眼差しを向けていたことに彼は気付いていただろうか。



 数日経つと、このまま夏休みを管理人の手伝いをして終わるのも有りか、という思いが頭の中に生まれた。


 そうこうするうちに七月中盤、そろそろ海水浴シーズンに向け周辺が慌ただしくなっていた。


 場内の草刈を手伝い、管理室の留守番をし、トイレ掃除なども積極的にではないが、した。さすがに、このままではいけないという思いが強くなる。


 そういえば、私には神に導かれし偉大なる目標があった。ぼちぼち潮時と考えて、キャンプ場を出ることにした。


 私は世話になった爺さんに別れを告げ、更に北を目指すために駅へ向かった。



  

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