3 内陸へ



 北へ行けば涼しくなるという地理上の大原則は、この異境では通用しないらしい。


 途中で路線バスに乗り換えて男鹿半島の先端へ着いたときには、フェーン現象とやらで体温を超える気温になり、生き延びるためには好きな棒アイスだけでなく、不本意ながらカキ氷やソフトクリームなどを一日中食べているしかなかった。


 男鹿半島の北端入道崎には、テレビのコマーシャルに出て来るような一面緑の大草原と、白黒ストライプの灯台があった。


 岬の先端で缶ビール片手に日本海に沈む夕日を眺めて人知れず涙した私は、小声でバカヤローと毒づいてから一旦バス停のある土産物屋の前に戻り、ベンチでポテトチップをつまみながらまだビールを飲んでいた。


 まあ、二十世紀というのは未成年の飲酒に比較的に寛大だった時代であると、そう理解してほしい。


 賑わっていた観光地も、日が暮れると静かな佇まいを見せる。


 最終バスが行ってしまうと、もう人影もない。



 日焼けとビールの飲み過ぎで重い体を引きずり、眠るために緑の絨毯の中へ分け入った。


 柔らかく気持ちのよさそうに見える深い草の中は、虫にとっても快適な住み家のようだ。草の中に入った途端、猛烈な藪蚊の群れに襲われた。


 北国の藪蚊は強靭かつ貪欲で、ジーンズの上、Tシャツの上からでも容赦なく体を刺しまくる。結局一分程の突入行の間に全身数十か所を喰われて失血死するかと思い、気が狂ったように両手を振り回して逃げ出した。


 世の中、かように見た目と現実には大きなギャップがある。そんな事を思い知らされてばかりの十八歳であった。



 仕方なく土産物屋のベンチに戻り、横になると耳元にプーンと蚊の羽音がする。


 道路を隔てた草原から、吸血の悪魔が大挙して飛来しているようだ。

 くそ、尾行されたか。


 既に全身にアルコールは回り、藪蚊の毒も回り、痒くて痒くてじっとしていられない。


 しばらく一人で暴れていたが、どうにもならない。暑いのを我慢してウインドブレーカを羽織り、両足をバタバタさせながらベンチに座って、自販機の明かりで文庫本を読んで眠れぬ夜を過ごした。


 山形のキャンプ場の爺さんから餞別代りに貰った西村京太郎のミステリーが、こんなところで役に立つとは。


 普段は推理小説など興味のない私だが、旅先で読むトラベルミステリーは格別だった。


 男鹿の長い夜、肉体は小さな吸血鬼に追い詰められていたが、心は寝台特急に乗り大阪と九州佐世保を旅して、殺人者を追い詰めていた。


 日の出と共に、吸血鬼は去った。事件も無事に解決した。寝不足で、体調はあまり良くない。


 でも始発のバスまで、ひと眠りくらいはできそうだった。荷物を枕に、木のベンチに横になった。



 高崎線の神様が教えてくれた情報は甚だ曖昧で、しかし彼は行けばわかると自信たっぷりに語ったのだった。


 神様のお言葉にそれ以上疑問を挟む余地はなく、ただ私は岩手県の山中にあるというその町の名を念仏のように唱えて、旅を続けた。


 長らく共にした日本海と別れ、奥羽本線で内陸へ向かう。十和田湖の南を抜け随分な遠回りをして盛岡へ出た。駅の近くのビジネスホテルに部屋を取り、二日ぶりで熱いシャワーを浴びた。


 キャンプ場にいた頃は近くに町営の温泉があって、毎日歩いて通っていた。ただ、山形最後の夜は面倒になり、キャンプ場の水シャワーで済ませている。


 ホテルで熱い湯を浴びるのは格別だった。秋田で蚊に喰われた全身のあちこちが、ひりひりと沁みて痛い。が、それもある種の快感だった。


 久しぶりの柔らかいベッドに顔を埋めて、思わずそのまま意識不明になりそうであったが、気を取り直して荷物の中から汚れものを引っ張り出して洗濯をした。


 風呂場に広げて干してからもう一度冷たいシャワーをざっと浴び、まだ明るい街に出た。


 さっぱりした体で歩く繁華街は新鮮で、変に堂々と胸を張って歩いていた。ここも初めての土地なので、景色が新鮮なのは当然だったが、私の気持ちが何か変わっていた。


 それは一人旅の経験で少し大人になったとかの恥かしい理由ではなく、単に身づくろいを整えて浮浪者から旅行者へと意識がシフトしたせいだと思う。いや、是非そう思いたい。


 だがよく考えてみると、自分が旅行者であるとは全く思っていなかった。

 一番しっくりくる呼び名は、逃亡者、であろうか。

 ほんの少しだけ、探索者寄りの。



 盛岡名物については何も知らなかったが、駅前の観光案内所で貰った冊子を読んで今夜の食事を考えた。


 東京を出て以来あまりに酷い食生活を送っていたため、精神的な飢餓感は頂点に達していた。ここは名物のわんこそばでも思いっきり食べて、一気に解消したいところである。


 ちょうど今後の予定も含めてもう少し情報を得たいと思い、コンビニの雑誌コーナーで地元の情報誌を読んで行き先への移動方法を検討していた。


 文具コーナーでノートとペンを選び、今夜はここまでの行動と今後の計画を少し整理しておこうなどと、珍しくまともな事も考えた。


 そうこうしているうちに陽も傾き、いよいよ目指す店へ突入しようとしたその時、あの青い天使を発見してしまった。いや、私にとっては既に青い悪魔だったのかもしれないが。


 私をここまで駆り立てる原因を作った、クリアブルーの冷たい罠。そう、ガリガリ君ソーダ味がコンビニエンスストアの冷凍庫で私を誘っているのだった。


 その誘惑には簡単に敗北を喫し、私は神様の思し召し通りに二本のガリガリ君を購入し、新たな出会いを求めて熱気渦巻く夕方の街へ出た。


 そこから先は私の転落人生そのままに、目も当てられない結果となる。


 高崎線の神様のように新たな出会いも何事もなく二本のアイスを食した後、全ての飢餓感はアイスへの熱き思いにすり替わり、ご当地アイスを求めて暗い盛り場をさまよう事になった。


 結局東北限定ずんだアイスやら盛岡ファーム濃厚バニラなどを食べ歩き、気が付けば腹は満ちてまともな食事の入る余地はなかった。ああ、私はやはり大馬鹿者だ。


 苦いため息と、役にも立たない甘い吐息を撒き散らしながら宿に帰り、ベッドに倒れこむとすぐに眠ってしまった。



 気持ち良く冷えた風が頬をくすぐる。寝返りを打つとベッドに体が沈んで、腰に軽い痛みが走る。糊の効いた堅いシーツが体にからみついて、少し窮屈だった。


 目を開くと、自分がどこにいるのか、しばらく考え込んだ。

 状況を理解するまでの数秒間、私は受験の失敗からこの盛岡に至るまでの数カ月に亘る情けない記憶を再体験して、新たな衝撃に打ちのめされた。


 私は自分の行動が現実逃避以外の何物でもない事を充分承知している。いや、本当に。


 だから普段は巧妙に隠蔽された深い後悔や罪悪感を、表に出すことはなかった。


 しかし起床直後の一瞬の隙をついて、そいつは私の喉元に刃を突き付ける。


 思いもかけぬ奇襲攻撃にたじろいでいると、覚醒した胃袋が抗議の声を上げた。


 昨夜は結局アイスの類しか食わずに寝てしまった。ここは朝からきちんとした固形物を胃袋に収めねば、奴も納得すまい。



 私は顔を洗って服を着ると、朝日に眩しい街へ出た。まだ朝早く、駅前通りも眠ったままだ。こんな時間から開いている店は少ない。結局コンビニで盛岡冷麺とおにぎりを買って、部屋へ戻った。


 さて今日は、いよいよ目的の町に到着する予定だ。敢えてその町の観光情報は見ないように努めて来た。


 昨夜コンビニで交通路を調べたところ、ここから鉄道と路線バスを乗り継いで半日あれば到着できそうだ。さて、そこで何が待っているのか。


 神様の言うガリガリ君以上のアイスとはどんなものか。期待は最高潮に達している。


 私は旅の終わりが近い事を感じてホッとしたような寂しいような、複雑な気持ちでゴム紐のような冷麺をすすった。



  

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