18 六年前



 私の危惧したとおり、牧場の経営は決して楽ではない。


 元々施設にこれ程投資するつもりもなく、通販で乳製品やハムなどの加工品を売る業務を優先して牧場を復興させた。


 ネット販売が順調に伸びるのと時を同じくして、事故の復興事業として投下される補助金を巡り、町を二分する騒動が起きる。


 結局今の山猫高原再開発案が採択されて、町ぐるみの一大観光事業が立ち上がった。


 以来、船見ファームも復興の先頭を担う事業者として、実際に観光客の誘致に向けて力を入れざるを得ない立場になってしまったというわけだ。


 そこから先は、ロッジの部屋にあった山猫高原牧場としての歩みの通り。


 ただ、当初の勢いがいつまでも続く訳ではなく、今年の観光の目玉とされている案件も暗礁に乗り上げていた。それが私に関わって来るのだった。


 ネットで好調の乳製品販売であるが、常連客からの書き込みに端を発した騒動に揺れていた。



『以前、船見ファーム時代に食べたアイスマン一号と二号が忘れられない。ぜひもう一度食べたい。復活を望む』


 それが最初の書き込みだった。それからネット上で幻のアイス待望論が渦を巻き、牧場側でも無視できなくなっていた。


 それでは何とか今年の夏までに復活させましょうと、牧場の若いスタッフが軽い気持ちで書いてしまったのが運のつき。すっかりそれでネット世論は盛り上がってしまった。


 ところが現実には工場もレシピも全てが土砂に埋まり、気楽に考えていたアイスの復活がどうしてもできない。何より、製造の中核にいた慎さんと美佳さんがいない。


 それを手伝っていたパートのおばちゃんたちもいっしょに亡くなっていた。



 冬から何度試作を重ねても、昔のあの味が出せずに行き詰まっていた。


 夏が近くなり、ネット上でも不満の声が上がり始めている。それと共に、乳製品の売り上げも落ち始めていた。実際にお中元商戦の売り上げは、目標を下回っている。


 このままでは、一年で一番の観光シーズンに間に合わない。


 夏の集客に大きな影響が出れば、ネットの通販も苦戦することは確実。いよいよ追い込まれてしまった。


 そんなときに私が現れたのだから、彼らとしては救世主の登場に思えたのだろう。

 だが実際、私は役立たずの能天気な木偶の坊だった。


 いくら私が昔アイス造りに熱中したと言っても、それは十二年前のほんのひと時の話である。


 以後そんな世界とは無縁に暮らして来た私にできることなど、ほとんどない。


 今私が協力するには、あまりに無力過ぎた。残された休暇もさすがに残り少ない。その間に一体、何をどこまでできるというのか。



 東京へ戻ればまた多忙な生活へ投げ出される。歯痒いが、どうにもならぬ。


 長い間、私はそこにいた。やがて親方に促され、私は築山を降りた。


 親方はゆっくりと車椅子を動かして先を行く。そこには今でも使われている古い牛舎があった。


 その近くにあった筈の昔の工場と母屋については、何の痕跡もない。


 ただその一帯だけ土手のように盛り上がった土地に巨大な岩石が転がり、草に埋もれているだけだった。


 胸が締め付けられる思いだった。あそこで、婆さんと、慎さんと、美佳さん、そして二人のパート従業員の方が亡くなった。たった六年前の出来事である。



「俺が両足をやられて入院している間、元と嶋、それに近藤さんや大勢の仲間が俺たちを助けてくれた。

 大学受験を控えていた咲も諦めて、高校を出るとすぐに牧場の仕事を手伝った。浅川牧場の土地と、俺のところの土地と、合わせて新しい会社を作ったのはそれからすぐだ。

 あとは夢中で、あっという間だった。やっと俺も、こうして少し遊ぶ時間ができたよ」


 私は親方に掛ける言葉が見つからず、黙って盛り上がった土砂の塊を見ていた。遠くから、牛の鳴き声が聞こえる。夕方の搾乳の時間が近い。


「おまえ、いつまで居られるんだ?」

 突然親方が口を開いた。


「ええ。二、三日なら」


 実際、休暇はまだ残り一週間以上ある。しかし私はどうしてよいのか迷っていた。


「そうか。じゃあ、明日は牧場を案内してやるからゆっくりして行け」


 親方はそう言って、まだ薄い霧が流れる中を滑るように来た道を戻る。


 その後を追って私もとぼとぼと歩く。無言で親方を追ううちに、ひとつの疑問が頭に浮かぶ。


 何故、私はこの事を今日まで知らなかったのだろうか?



 ロッジの部屋へ帰ると、私は携帯電話を取り出した。


 メモリーから暫く使っていない番号をひとつ呼び出し、電話を掛けた。

 程なく相手が電話に出る。


「よう、久しぶりだな」

「ご無沙汰しています。急なことなんですが、ひとつ教えて欲しくて」


「なんだ、相変わらずマイペースな奴だ」

「すみません。でもどうしても気になることがあって」


「まあいい。いつものことだ。で、今日は何だ?」

「六年前の七月九日。その頃のスケジュールを知りたくて。俺、何してたんですかね」


「六年前ねぇ? わかった。調べて折り返すから、少し待ってろ」

 そうして相手は電話を切った。話が早くて助かる。


 窓際のソファに座り、電話を待つ。


 心を落ち着かせようと、音楽プレーヤーからホルストの惑星を選び再生した。


 突然、スピーカーから不安を煽るような火星が不気味に流れ始め、私は選曲ミスを悔やんだが、諦めてそのままソファに身を沈めた。


 極力何も考えないように目を閉じて、音楽に集中していた。


 やがて退屈な水星が終わり勇壮な木星の導入部が始まった頃、テーブルの上に置いた電話がぶるぶると震え始めた。



 画面には相手の名前が表示されている。朝霧広美というその文字を見て、カモシカの瞳を思い出しながら電話に出た。


「待たせたな。でも意外と早くわかったぜ。六年前の七月だな。おまえが覚えていないのも無理はないさ。ほら、あの火事騒ぎの頃だ。七月九日っていうのは、ちょうどおまえが昏睡状態から目覚めた日だよ」


 そうだったのか。


「今、休暇中なんだってな。何をしてるんだ?」


 朝霧とはこれ以上あまり話を続けたくはなかったが、仕方がない。簡単に今の状況を告げる。


「そうか、旅行ね。いいご身分だこと」

「はいはい、そのうち土産を持ってご挨拶に伺いますから、待っていてください」


 私はそんな気は更々ないのだが、電話を切るための方便としてそう言った。


 これ以上話をしているとどんな嫌味を言われることか。しかしそんな気分を敏感に察知するのもこの男の秀でた能力である。


「わかった。期待しないで待ってるぜ」

 そう言って朝霧は電話を切る。



 六年前の梅雨。私は仕事に一区切りをつけて、ちょうど今回のようなまとまった休暇を取ることが出来た。


 あの時も一人で旅に出るつもりで準備をしていたのだ。


 ところが、休暇に入った途端に原因不明の高熱を出して入院した。


 そのまま意識不明で十日程も昏睡状態が続き、目を覚ましてからも軽い意識の混濁に悩まされた。


 更に一週間入院して精密検査をしたが、結局原因不明のまま全快し、医者には過労だろうと切って捨てられた。


 私の労働条件はその後もあまり改善されていない。


 その入院の間に、当時住んでいたアパートが火事となり、何もかも失くしてしまったのである。


 入院前後の記憶は甚だ曖昧で、雲の中で綿菓子を探しているような状況だった。重要な手掛かりとなるべき家財も、ほぼ全てを失っていた。


 だが、貧乏人にはいつまでも遊んでいる余裕がない。


 退院後暫くは、朝霧の手配で住む場所をどうにか確保してもらい、仕事を続けた。確かにあの頃は、新聞もテレビのニュースも、じっくり見ている暇などなかった。


 私は深いため息とともに、窓の外へ目をやる。


 客室からは見えないが、今でも親方に教えてもらった山の斜面は剥げ山となり、地滑りの巨大な爪痕を残していた。その周辺は要塞のように巨大なコンクリートの構築物で固められ、下界の安全を確保している。


 とんでもないことが、当たり前に起きている。しかし、それがこの現実であった。



  

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