17 真実
くつろいでいると、部屋の電話が鳴った。フロントからである。残念ながら深雪ちゃんではなく男の声だったので、軽く落胆した。
彼が言うには、社長が会いたがっているのでフロントまで来てほしいとのことである。おお。元ちゃんは、やることが早いではないか。
これはきっと深雪ちゃんがさっそく社長に報告したためと思われる。なかなかやるな、林。すごいぞ林。偉いぞ林。
私は上機嫌でいそいそと下へ降りた。階段を下りきると、そこに元ちゃんがいた。
日焼けした肌には若干皺が増えたが、昔と変わらず若々しい。月並みだが、感動の再会という奴である。我々は昔のように肩を叩き合って喜んだ。
「来てくれたんだ、アイスマン……」
元ちゃんは今でも私の事をアイスマンと呼ぶ。
私の目をじっとを見て、非常に、というか過剰に喜んでいる。感動している彼には悪いが、戸惑うばかりの歓迎ぶりである。
自慢ではないが、私はそんなに歓待されるような優れた存在ではない。それだけは以前からかなり自信がある。
十二年前訪れた時に激しく感じた当惑が、再び私を襲う。とにかく、この場所にはいつも色々な意味で驚かされる。常に私の想像と違う姿を見せてくれるのだった。
そのままラウンジに移動して、アイスコーヒーを飲みながら旧交を温め合った。
「嶋さんはちょうど工場でトラブルがあって手が離せないんだ。来られなくて残念がってたよ」
「元ちゃん、社長だって?」
「うん、成り行きでね」
「親方も、元気なんでしょ」
「もちろん」
「こんなに立派な牧場になっているとは、思わなかったよ」
「ああ……」元ちゃんは自慢をするでもなく、少しだけ顔を曇らせた。
「苦労してるんだね」
「ああ、ここまで来るのは大変だったよ」元ちゃんは否定もせずに薄笑いを浮かべる。
「アイスマンはもう造っていないのかい?」
私の言葉に、元ちゃんが目を丸くする。
「いや、慎さんと美佳さんは元気なのかなって……」
続ける私の言葉で、完全に笑顔が消えた。
多少予期していた部分もあるのだが、その変化はなかなか劇的である。
にこやかに語っていた元ちゃんの顔色が次第に赤黒く変わり、ついには立ち上がって私に罵声を浴びせ始めた。
あまり思い出したい場面ではなく、早く忘れてしまいたいと思っていたので、その後我々がどんな話をしたか詳細には覚えてはいない。
とにかく私は最初から当惑し、彼は初め喜び、後に怒った。そういうことである。
私は何が何やらさっぱりわからず、腕を組んで彼を見上げた。
「あんた本当に何も知らないんだな。今頃何しに来たんだ」
そんな風に言いながら、憮然と去って行く。私は座ったまま振り返り、出口へ向かう後姿を見送る。確かに、私は何も知らないようだ。
昔お世話になって以来、実に十二年もの間、ここを訪れることがなかった。
しかも、ここ数年はお互いに便りも全く途絶えていた。だが、いや、だからこそ、互いに近況を知らないのは当たり前ではないか。
はてさて、私はいったい、何を知らないのだろう。
大股でロッジから出ていく元ちゃんの姿を、入口脇の柱陰から見つめる女性がいた。
彼女の視線がロッジに戻り、一瞬私と目が合うと慌てて踵を返し、元ちゃんの後を追って小走りに出て行った。
その顔は昔、工場でアイスを黙々と造っている時に何度も見た。入口でじっとこちらを窺い、私が振り返り声をかけると、風のように消え去る気まぐれな少女の顔だ。
しかし、そこには心の内を決して見せまいとする強い意思が現れていて、走り去るその後姿は何故か痛々しく、見る者をやるせない気持ちにさせる。
何の事情も知らぬ私であるが、きっと何か大きな問題を抱えて、一人で悩んでいるに違いない。あれは、咲だ。
私は首が痛くなるまでそのまま入口を見ていたが、やがて力なくうなだれて前に向き直り、椅子に全身を預けた。
失意の回復する時間を待っていてはいつまでたっても動けそうになく、さてどうしたものかと思っているうちに小一時間が経過していた。
背後から声をかけられた時も、半分魂が留守になっていてすぐに気がつかなかった。
肩を叩かれて振り返ると、そこに短く刈った白髪に浅く帽子を乗せた初老の男が座っている。その顔にも、見覚えがあった。
「親方!」
私は白髪と皺とシミの増えたその顔を見つめた。これらをまとめて年輪と言うのだろうか。そんなことを思う。
何故こんな場所に座っているのだろう。それはすぐにわかる。彼は車椅子に乗っているのだ。
「やあ、アイスマン。久しぶりだね。元気にしていたか?」
親方は痩せて、多少疲れた顔をしていたが、眼の光は昔と同じだった。結局私は何も言えずに、ただ口を開けたり閉じたりだけしていた。
「ああ、元から聞いたよ。済まなかったね。あいつはちょっと今、普通じゃないんだ。ちょうど悪いところに来てしまったよ」
親方の足は、両足とも膝の辺りから先がないように見える。
「何があったんですか?」
「ああ、君は何も知らないんだってね。じゃあ、話をしよう」
親方はついておいで、とだけ言い先に車椅子を進める。脂肪のない腕に、褐色の筋肉が盛り上がる。
入口のスロープを降り、外へ出る。
「俺がこんなだから、この牧場はオールバリアフリーさ。おかげでこの中なら車椅子でどこへでも行ける。障害者の団体客も大勢来てくれて、評判がいいんだ」
親方はそんなことを言いながらロッジの裏手へまわり、どんどん奥へと進む。それが意外な早さで、あっという間に離されて小走りで後を追う。
幾つかゲートを抜けると、目の前に小さな築山があった。
公園の遊具か、ちょっとした展望台のようにも見える。築山へ登るにも、手摺のついたきれいなスロープが造られていた。
緩やかなスロープをぐるぐる登ると、頂上に大きな石碑があった。石碑の前には、花束が沢山供えられている。似たようなものを、幾度かテレビで見たことがある。
嫌な予感がした。
石碑に近付くと、微かに線香の香りがする。予感が確信に変わる。
裏へ回ると、そこには六年前の七月九日に起きた忌まわしい災害の記録が短い言葉で記されていた。
「昨日はここで慰霊祭が行われた。関係者だけでひっそりとな。あれから六年だ」
親方は、ゆっくりと話し始めた。
「梅雨の長雨が続き、あの山の上でちょっとした崖崩れが起きた。それが、兆候だった。だが、その時は誰も気付かなかったのさ。
崩れた土砂にせき止められた沢が天然のダムになり、やがて崩壊して大きな鉄砲水となって斜面を下り、長雨で緩んだ山肌が森ごとまとめて崩れ落ちた。
昔から馴染んできた山が牙を剥き、優しかった水が木や土や岩を押し流し、ここら一帯を瓦礫の海に変えた。そりゃひどい土砂崩れだった。
ちょうど昼飯時だったが、雨が上がったもんで俺は元と二人で車に乗り牧場を見回りしていた。その最中に、あれに巻き込まれた。
車ごと土砂に呑まれて、二人とも危うく命を落とすところだった。幸い元の奴は軽傷で済んだが、俺は両足を車に挟まれてこの通りさ。咲は学校に行っていて、無事だった」
そこで、もう一度石碑の裏を見る。そこには亡くなった十人の名前が記されている。そのうち八人は、私の知る人だった。
五人は元ちゃんの家族。浅川牧場は元ちゃんを除いて全員が泥に呑まれた。船見牧場では婆さんと、慎さん、美佳さん、そして工場に勤めていた二人の女性。
ライダーハウスとレストランは難を逃れ、近藤さんは無事だった。
嶋さんは牛舎にいて、ぎりぎり難を逃れた。奇跡的に、船見牧場の牛舎は無事だったらしい。もちろん、牛たちも。
ここに名前は載っていないが、もう一人の犠牲者がいると聞き絶句した。
当時慎さんと美佳さんは夫婦となっており、美佳さんのお腹には初めての子供がいたのだという。
この事故は当時大々的に報道され、全国に知れ渡ったと聞く。何故私は今日まで何も知らなかったのだろう。
「まさかこんな事があったなんて……」
気付くと、頬を涙が伝っていた。
「ごめんなさい。本当に、何も知らなかったんです」
私は親方に低く低く頭を下げた。
「ああ、いいんだ、おまえのせいじゃない。それに、元が怒ったのには、別の理由があるんだ」
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