34 帰路



 車に山のような荷物を積んで、咲が満足そうな笑みを浮かべる。


 何もこんなに慌てて出て行くことも無かろうと人は思うだろうが、さすがに私もそろそろ仕事に戻らねばならない。


 私だけが東京へ帰るという選択肢はなかった。私たちはもう一刻も離れることが出来ない。


 我々二人の心の傷は深い。真偽はともかく、何しろお互い一度死に別れている人間である。


 六年前の被災前夜、私は自信を持って咲を抱きしめる日の来ることを夢見た。しかし今は違う。私の自信など、糞食らえ、である。


 将来も何も、本当に一寸先は闇の人生であった。一緒にいられる時間を少しでも無駄にできない。これが愛という奴なのだ。いいじゃないか、幸福ならば。


 私と咲の他は、土砂崩れの当日辺りからの記憶が曖昧だ。恐らく、本来そこにいなかった筈の咲と私だけが、この妙な記憶を共有しているのだろう。このことは、二人だけの秘密である。


 車に乗り込む前に、集まった人々に挨拶をする。


 本格的な繁忙期に入る直前に離脱する私たちを、どうかお許しください。心の中では色々謝罪の言葉も巡るのだが、いざ別れの時となれば言葉が出て来ない。


 ただただ辛い別れである。



 車で山を降りながら私は寂しさを紛らわせるために、山形のキャンプ場と、山中の池で体験した不思議な出来事を咲に語った。だが、咲の奴はまるで信じちゃいない。漫画用のネタだと思っているらしい。


 私はどうも咲に馬鹿にされているような気がして、心穏やかではない。二人きりになった途端にこれでは、この後威厳を保つことが困難となろう。


 私はここで一発脅かしてやろうかと、咲に言う。


「ほら、その目の前にあるグローブボックスの蓋を開けてみな」


「えっ、これ?」

 咲は言われるまま蓋を開ける。


 その蓋の内側には、世界を熱狂させた有名な漫画のキャラクターが、マジックで描かれている。


「これ、本物?」

「勿論」


「どうして?」

「その人が、この車の前の持ち主さ」

「すごい!」


 私が以前アシスタントをしていた、大先生である。


 こんな姑息な手段でしか自慢できない自分が情けなく恥かしいが、それはそれとして、咲が大感激しているので少し気分が晴れる。


 ただ、マリリンのいた池を思い返してみると気になる部分も残る。少々遠回りだが、もう一度あのキャンプ場を捜してみたい。咲に提案すると、勿論大賛成である。



 爺さんの聴いていた、というかマリリンの歌っていたあの曲を、牧場にいる間にネットで捜してみると、それは実在の歌であった。ダウンロードした曲を、車の中で聞いて気分は盛り上がる。


 その日、一気に山形へ走り、日本海に沿って南下。今度はカーナビでキャンプ場を検索して、それらしき場所へ直行する。


 夕方早い時間に、目的のキャンプ場へ到着した。もうキャンプ場にはぼちぼち客が増える時期になっているようだ。梅雨明けも近い。


 防風林の松林は、狭いながらも残っていた。しかし、私の記憶とは全く別の場所に見える。


 防風林の砂の上に点々とテントを張っていた昔のイメージは程遠く、薄汚れた汲みとり便所などあろう筈もない。


 広いアスファルトの駐車場に、芝生のテントサイトが広がる明るいキャンプ場を、一段高い山側から真新しい管理棟が見下ろしている。


 管理棟前の車寄せに停車し、咲と肩を並べて中へ入った。部屋の隅に山と積まれている乾いた薪の臭いが、鼻の奥を刺激する。我々と入れ替わりに、熟年のカップルが薪の束をぶら下げて出て行った。



 若い健康そうな男が、丁寧に磨かれたガラスのカウンター奥に座っている。こちらをちらりと見て軽く会釈をし、すぐ忙しそうにパソコンのキーを叩き始めた。


 私は壁際のパンフレットを手に取り、キャンプ場の基本情報をざっと眺めた。施設を整えリニューアルオープンしたのが僅か二年前。昨今のアウトドアブームに乗り、清潔なオートキャンプ場に改装されたようだ。今では県内有数の施設らしい。


 どうやら、ここが昔のキャンプ場の生まれ変わった姿である。まるで山猫高原牧場ではないか。私は咲と二人で妙な感慨に浸る。



 やがて私はカウンターに向かい、若い係員に声をかけた。


「ここは公の施設なのですか?」


 PCから顔を上げた男が、真直ぐな瞳を私に向ける。二十代の半ば位だろうか。


「はい、町営の施設です。二年前の夏に改修工事を終えて、今年で三度目の夏を迎えます」


「これだけの施設を造るのは大変だったでしょうね」


 私は窓から見える芝生の広がりを見た。この期に及んで私は、本当にここがあのキャンプ場だった場所だろうかと改めて不安になった。


「ええ、計画から建設まで五年かかりました。途中町長が代わり一度は凍結されかけたんですが、何とか完成にこぎ着けました」


 彼は眉間にしわを寄せ、一瞬苦渋の表情を浮かべる。その顔にはなんだかちょっと見覚えがあるような気がした。


「以前も、キャンプ場でしたよね。まだ広い松林だった頃に来た事があるんですが」

 私がそう切り出すと、彼はカウンターから身を乗り出した。


「そうです、そうです。松林の砂の上にテントを張っていました。私も毎年遊びに来ていましたよ」


「ああ、やっぱり。昔は古くて汚い所でしたよね」


 懐かしさのあまりつい調子に乗って、私も遠慮ない言葉を挟む。


「ええ。私の祖父が管理人をしていましたから、よく遊びに来て、汚い便所の掃除をさせられていました」


「えっ? まさか」


「いや、ホントです。五年前にここが改装のため閉鎖されるまで、祖父が管理人をしていました。その祖父も、昨年他界しましたが……」


 本当なのか。爺さん亡くなったのか。



「もしかして野球好きの爺さんで、君は高校の時に野球部で、甲子園に行ったんじゃない?」


 何故そんな事を知っているのかと、彼は私の顔をじっと見つめる。彼が私の顔に見覚えがある筈はないのだが。


「ええ、僕が一年の時には夏の甲子園に行きました」


 ああ、あの日小さなテレビのブラウン管の中で、彼が伝令としてピッチャーマウンドまで走る姿を見て爺さんが小躍りして喜んだ姿を昨日のように思い出す。


 あの時の坊主頭の少年が、ここにいた。


 私は感極まって彼の顔を見た。陽に焼けた彼の顔はどことなく爺さんの面影があるようなないような、微妙な風貌である。


 当時高校一年だった彼は、私より三つだけ年下であろう。それにしては、悔しいが随分と若々しい。


 先日山中の池で見た若い男は実は彼ではないかと、ふと思う。が、そんな事を聞く訳にもいかぬ。


 それから私は、十二年前の話をゆっくりと話した。彼は懐かしそうに話を聞いていたが、時折寂しそうに下を向いた。


 爺さんは夏だけの非常勤の管理人であったが、彼は正式な町役場の職員で、町内の施設の管理を主に担当している。


 このキャンプ場は県や国の助成金をフルに使って建設された町の中核施設で、幸いにして利用者数も激増して観光誘致の目玉となっている。



 彼もこの場所に愛着があるため、その力の入れようは言葉からもはっきりわかる。こういう繋がりが今も人を動かしている事に感動し、何だか妙に羨ましい。


「今日はここへ泊って行きませんか。今年造った新しいログハウスのコテージが空いていますよ」


 彼がしきりと勧めるが、私にはもう充分に思えた。最後に私はふと思い出し、ひとつだけ質問を加えた。


「良ければ、爺さんの亡くなった頃の事を聞きたいんだけど……」


「どんな事ですか」


「亡くなる前に、山へ行ったりしなかったかい?」


「山ですか?」


 彼は少し考えて、ためらいがちに口を開いた。


「祖父が亡くなった、と言いましたが、本当は行方不明なのです。だから、最後にどこへ行ったのか、誰も知らないんですよ」


 彼は困ったような顔で、打ち明け話をした。実際、あまり話したい事ではないのだろう。


「行方不明だって?」


「ええ。晩年祖父は病で入退院を繰り返し、ついに末期がんで余命僅かと宣告されました。我々は隠していたんですが、聡明な祖父のことですから、きっと気付いていたのでしょう。ある日突然、いなくなりました。きれいに身辺の整理をしていましたから、覚悟の上だったと思います。ただ、不思議と遺書の類は一切ありませんでした」


 爺さんらしい最期だと思った。


「最後は、一人で動けたのかい?」


「ええ、時折痛み止めで苦痛を緩和することもありましたが、比較的しっかりした足取りで最後まで歩いていました」


 わかった、ありがとう。と言って帰ろうとする私を、孫が引き留める。


「祖父の事、何かご存知なんですか?」


「爺さんがもう一度行きたいと言っていた場所があったので、ちょっと気になっただけですよ」


 私は彼に、あの池のあった毛無山付近について説明した。あくまでも、マリリン抜きで、だ。


「祖父は、最後にその池へ行ったのではないかと?」


「いや、それはどうだか」

 私が困ったように目をそらすので、彼もそれ以上は尋ねなかった。


「僕も一度行ってみようかな」

 爺さんの孫は、興味を持ったようだ。だが、かえってそれには危うさを感じる。


「君は、結婚してるの?」


「いえ、まだ独身です」


「じゃあ、恋人と一緒に行くといいよ」


 私が言うと、彼は怪訝な顔をする。「いや、山の神様は女性だって言うからさ、惚れられると厄介だぜ」などと間抜けな言葉を吐こうとして、止めた。


 所詮、確実な事は何もわからない。逆に、山神様の悋気に触れて大騒ぎになっても大変なのだが。


 私たちはそれから名刺交換をして、別れた。



 爺さん、マリリンに会いに行ったな。


 自分の最期を悟るまで池へ行かなかったのは、長年連れ添った奥様に対するけじめだったのだろうか。


 そして、それきり戻らなかったという事は、きっとマリリンに会えたのだろう。私はそう信じた。


 幻の六年前、マリリンは池の水を一口飲めば、私の願いをひとつ叶えてくれると言った。私はその言葉通りにはせずにその場から逃げ出したのだった。


 けれど、良く考えてみれば、ほんの二週間程前にあの池でマリリンと会った時に無理矢理池へ引きずり込まれて、嫌というほど池の水を飲まされている。


 私のどんな願いが叶ったのだろう。


 あの時私が対岸に見たのは、若い頃の爺さんの幻だろうか。


 爺さんもきっとマリリンと会い、あの池の水を飲んだのだろう。


 爺さんの願いは、息子の命を救った事?

 それとも今、願いが叶ってマリリンとどこかで暮らしているのだろうか。


 爺さん、あんたの人生、なかなか面白いじゃないか。



  

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