35 最終話 いいじゃないか



 東京へ帰る長い道のり、私は十二年前の旅に出たいきさつなど、今まであまり語った事のないバカバカしい話の詳細を咲に語った。


 大いに馬鹿にされ、笑われたが、消しようのない事実である。若気の至りとしか言いようのない最初の旅路は、しかし今の私と咲を結び付ける運命の、か細い糸の発端である。


 思えばあの日、ガリガリ君が売り切れていなければ、今の私はない。凍曹達棒一本に翻弄された情けない人生である。


 高崎線の神様とも、その後再会する事はなかった。神様は、牧場のアイスマンを食べてくれただろうか。


 私の住むマンションに帰り着くと、先ずは咲と二人で凍曹達棒を食べて旅の終わりを祝した。


 これで足掛け十二年、都合三度(?)に及ぶ私の長い旅も終いである。人生を旅に例えるならば、私の旅はまだまだ続く(と、思いたい)。


 しかし、十八の夏唐突に始まった私の旅路は三十路を迎えた今、東京へ戻り一応の区切りがついた。


 とはいえ、十二年前に若さの勢いだけで始めた旅が、ここまで続くとは意外であった。


 まだまだこの先も、密かにどこやらへ続く可能性がないとも言えぬが、取りあえず、思えば長くも短い十二年であった。



 私が何とか暮らして来られたのは、あの朝霧を始め様々な人々の支援によるところが大きい。


 これまでの人生において、自分には胸を張って語れるような教訓は呆れるほど何もない。一途に、今のある幸運を感謝するのみ。咲との出会いもまた偶然、実に同じ運の内である。


 私にとっては辛く苦しかった東京での年月も、船見ファームの辿った苦難を考えれば尚お笑いの範疇だ。


 類稀なる幸運に恵まれて、私は今ここにいる。それはあくまでも私の幸運であり、咲の人生を顧みるならば、とてもそうとは言いかねる。そのギャップはそのうちどこかで埋め合わせねばなるまいと、とりあえず心に刻んでおこう。


 何れにしても、不可解な縁により交わった我々の旅は、ひとまずここに帰着した。


 旅の終わりは宴の後に似て、幾分感傷的な気分になりがちだ。


 今回の旅は十八の頃とは違い短いものであったが、その最中にはずいぶんと色々な事を考えさせられた。


 こうして東京へ戻ってみれば、夏の終わりのような切ない思いが湧く。しかしそれが今年の梅雨明け、夏の始まりでもあった。


 そんな不思議な気分を引きずりながら、私たちは新生活へと踏み出した。



 すぐに、再び多忙な日々が待っていた。大ヒットとは相変わらず無縁の貧乏漫画家であるが、仕事のあるうちが華である。


 何れ大ヒットを記録した暁には、仕事量を減らして山猫高原へ帰ろうと、咲と二人で夢見ている。


 咲は期待通り優秀なアシスタントで、教えた仕事を淡々と、実に効率的にこなしてくれた。

 おかげで、以前のように締め切りに追われて苦しむことは少なくなった。その分、我が家の生活費は増え、苦しい台所事情はあまり変化がない。


 仕事に関しては、なかなかに順調なのである。以前より進めて来たイラスト集の出版も間近となった。


 ここ数年の間に描いたゲームのポスターや小説の挿絵など、様々な媒体に描き散らしたイラストをまとめる作業が実を結びつつある。ここでも咲は優秀なマネジメント能力を示してくれた。さすが元専務様である。


 夏の終わり、上京した親方が、遂に復活したアイスマンの試作品を手土産に持ってきてくれた。


 懐かしい一号と二号、そして幻の三号、どれも文句なしの味である。私の試食が最終試験なのだそうだ。やれやれ、である。


 ここまでレシピ通りに再現されたアイスやヨーグルトなど、何度試食させられただろうか。


 こちらの都合も気にせず一方的に送られて来る乳製品の数々を試食し、腹立ち紛れに細かい駄目出しを続けて来た成果がこれだった。


 とにかくこれでアイスマンは完全復活だと、親方は意気込む。


 慌てて東京へやって来た咲ではあるが、冬までに幾度か牧場を行き来する事になった。そのうちの何度かは親方同伴である。それには理由がある。


 親方は、以前より度々牧場を来訪している障害者団体の方に東京の医師を紹介してもらった。


 そこで新しい義足を作り、歩行訓練を受けている。杖を上手に使って歩く親方の姿は、皆の心を照らす新しい希望である。



 咲とは、その年の冬に入籍して、山猫高原でささやかな披露宴を催した。


 牧場にいた頃にはずいぶんと痩せ細っていた咲だが、上京以来少し体重が増え、いたって健康である。時折喧嘩をすることもあるが、概ね仲良く暮らしている。


 私も実は、幾らか体重が増えた。人はこれを幸せ太りと言う。いいじゃないか、幸せならば。



 これで良かったんだよね、慎さん。


 私は折に触れ、虚空を睨んで話しかけるのが癖になった。


 今のところ、慎さんからの確たる回答は無い。


 でも、いいじゃないか、爺さん。


 そうだよね、美佳さん。


 こんな時はどうすればいいんだろう、婆さん。



 色々と、問いかけずにはいられない時もある。


 だが、残念ながらやはり、虚空からの返事はない。


 時折過ぎゆく季節の風音が、いいじゃないかと優しく囁くのを耳にするばかりである。



 完


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつかどこかの旅の空で アカホシマルオ @yurinchi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ