30 現実



 悪夢のような光景に私は絶叫し、汗びっしょりで眼を見開く。



 薄暗い部屋で眼を覚まし上体を起こそうとするが、全身を覆う強い倦怠感と鈍い痛みが走り、動きを止めた。背筋を凍らせる恐怖と、絶望的な喪失感が心に深い穴を穿っている。


 ここはどこだろう。見慣れぬ部屋で、私は暫く震えていた。


 やっとの思いで上体を起し、周囲を見る。どうやら病室のようだ。酷い頭痛がする。やがて病室の扉が開き、白衣の看護師が入って来た。


 彼女は小さな叫び声を上げると、私に駆け寄り動いては駄目だと強く言う。私はその剣幕に押されて再び横になるが、頭の中は船見牧場のことでいっぱいである。


 続けざまに牧場の人々の安否を尋ねるが、彼女は相手にしてくれない。


 やがて初老の医師がやって来て、穏やかな声で私に話しかけた。彼と言葉を交わしているうちに、私は再び意識を失った。



 次に目覚めると、体は幾分楽になっていた。頭は霞がかかったようで、覚醒状態を保つのに苦労する。だが、全身を包む痛みはなかった。


 そうして切れ切れに目覚める度に私の意識は明確となり、何もない病室で両親や朝霧や仕事仲間が見舞に来てくれているのがわかった。


 病室で数日過ごし、私は朝霧から何が起きたのかを知らされた。


 休暇で旅行に行こうというまさにその当日、私は高熱を発してタクシーで病院へ向かった。どうにか病院へ到着したものの意識は朦朧とし、そのまま入院。


 結局十日余りも意識不明のままベッドにいたのだという。その辺の経緯については、全く記憶になかった。


 目覚めた時意識は混濁し、当時テレビのニュースで盛んに報道されていた岩手県で起きた土砂崩れについて、自分の事のように色々話したという。


 どうやら病室で母が見ていたテレビのニュースを、目覚める前の私は聞いていたようだ。


 覚醒と共にその内容を無意識に刷り込み、私は現実と混同していたのだろう。


 医者は心身の安定の為、当分の間外部からの影響を遮断することにした。



 それから退院まで、テレビも新聞も無い部屋で静かに過ごした。


 私は鎮静剤を投与され、世間から隔絶された環境の中で、本来の落ち着きを取り戻した。


 精密検査を含めて覚醒からさらに一週間入院をしたが、特に異常も無く、無事に退院した。


 だが、私の入院中にアパートは火事となり、家財はすっかり灰になっていた。手元に残ったのは薄い財布と携帯電話一台だけである。


 帰るべき家を失った私は、朝霧の手配したウイークリーマンションで暮らし、編集部の机で漫画を描いた。


 そうして何カ月かただ漫画を描くだけの生活を経て、やっと新しいマンションを借りて暮らす事になった。


 朝霧はそれから一年程後に出版社を辞めて独立し、今ではフリーのエディター兼評論家として活躍している。


 時折テレビに出演している姿を見かけると、私は瞬時にチャンネルを変える。恩人ではあるが、今更奴の顔など見たくはない。


 当然である。



  

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