第四章 いいじゃないか、幸福ならば

31 開いた扉



 2008年7月。

 ここは本当に、以前私のいた2008年7月なのだろうか?



 咲の部屋のベッドで私たちは抱き合ったまま硬直していた。とてもいけない場面に思えるが、それどころではない。


 一瞬の間に六年前の記憶が噴出し、私は混乱の極みにある。だが、それは私だけではなかった。


「お兄ちゃん、ここへ来ていたんだね……」


 咲が潤んだ瞳で私を見つめる。こらこら、そんな目で見つめられたらその気になってしまうではないか。だが、勿論そんな事を口に出す余裕はない。


「いや、そんな筈はないぞ。俺は、何も知らなかったんだ」


 だが、今では全て知っている。私と咲の二重の記憶は、二つの違う過去の記憶だ。


「やっぱり、この本はお兄ちゃんがくれたんだ」


 しかし、その本を持っている咲は……


 私は咲の乗ったバスが崖崩れに呑まれる瞬間を明確に覚えている。そしてあの時の絶望感を。だが、その咲は今、目の前にいる。咲の目から涙が溢れる。


「おまえ、学校にいたんじゃないのか。何故あのバスに乗っていたんだ?」


 咲は、首を横に振る。だが、涙と共にその口が開く。


「……お兄ちゃんがいたから。だから学校サボって、早く帰って来たんだ……」


 私の混乱した頭に、複雑な思いが渦巻く。知らぬうちに、私の頬にも涙が落ちていた。



「馬鹿だな……」

 私は泣きながら咲を強く抱きしめた。そもそも、ここの現実では、路線バスが災害に巻き込まれた記録はないのだ。


 私も、咲も、この現実を知っている。どんなに泣いても、今ここには、婆さんも慎さんも美佳さんも、そして元ちゃんの家族もいない。結局、失ったものは何も戻らない。


 目の前にいる咲を抱きしめて、それでも私は咲を失った時の喪失感から逃れられずにいた。身を引き裂かれる程の、という形容が、今なら理解できる。


 私は咲から離れることが出来ない。固く抱き合ったままその存在を確かめていたい。ここで離れたら、再び咲を失いそうに思えた。


 だが、そんな状態もそれ程長く続かずに済んだ。


 混乱した記憶と心が次第に落ち着くと、疲労の極に達した咲が私の腕の中で安らかな寝息を立て始める。


 限界まで活動した後に、突然スイッチが切れたように意識を失うこの感覚は、私もよく知っている。


 私はその隣からそっと抜け出た。


 咲を起こさぬよう静かにドアを閉め、部屋を後にする。咲の傍から離れるのも辛いが、私にはやるべきことがあった。



 最初に向かったのは、あの築山だった。


 私は不安と一縷の望みを持って、築山を登る。築山の上には一昨日に見た時と変わらぬ、花束と線香に囲まれた慰霊碑があった。


 私は落胆したが、なお僅かな光を胸を抱き、碑の裏側へ回った。しかし、そこに記されている名前には、何の変化もない。当然のことなのだ。


 では、私のしたことは一体何だったのか。突如蘇った偽りの記憶は、単なる時空の気まぐれ、神の悪ふざけだと言うのか。


 次に、私は元ちゃんを探して工場へ向かった。


 先日親方に案内してもらった時に見た顔を発見し、「社長いる?」と聞いてみると、多分工場長と一緒にキッチンにいるべ、と言う。工場長は嶋さんだが、キッチンとは?


 問えば、テストキッチン、つまり商品開発室である。何てことはない、咲の寝ている部屋の下であった。



 建物の正面にある入口に、カードリーダーがある。親方から貰ったカードをかざすと、カチャリと軽い音がして電気錠はあっさり開いた。


 空き巣に入るような気分で、恐る恐る中へ侵入する。


 昔と同様、中にもう一つの扉があった。そちらには鍵がかかっていない。私はその場にある白い長靴を適当に選んで足を入れ、キッチンへと踏み込む。


 キッチンは例によって発酵した乳製品の甘酸っぱい臭いに満ちていた。昔より広くて大きなステンレスの厨房に圧倒されるが、そこに人の気配はない。


 仕方なく奥へ足を進めると、巨大なステンレスタンクの前に二人の男が放心したように向かい合って座っていた。


 私が先に嶋さんと元ちゃんの姿を認めて歩み寄ると、二人が同時に顔を上げ、こちらを向いた。


「やあ」

 私は曖昧な笑顔を浮かべながら片手を上げ、挨拶をする。


 二人の顔に、戸惑いと驚きが広がる。そこに怒りの色は見えなかった。


「アイスマン……」


 安心する間もなく二人がいきなり立ち上がり、手前にいた元ちゃんが勢い良く私に掴みかかって来た。何だか、やはり、これはマズイ。



 だが、元ちゃんは私の肩を抱き寄せると、言葉にならない声を上げて幾度も叩く。


「アイスマン、来てくれたんだ」

 やっと、私の耳元で、小さな声を出した。


「ああ。その、思い出したことがあって……」

 私が気後れしながら言うと、二人が口を揃えて続ける。


「ああ、俺たちも思い出したぞ。アイスマン、あの時何をしていたんだ?」

「何故気付かなかったのかわからん。どうして今まで忘れていたんだ?」


 まさか、彼らもこの意味不明な二重の記憶を共有しているのか?


 それから二人は口々に不思議な体験を語る。私にも勿論理由はわからない。だが、確かに彼らもほんの少し前、六年前の出来事を突然思い出したのだという。


 二人で試作品のアイスを前に相談をしている時、急に、以前慎さんと美佳さんが私に無理矢理試食をさせていた事を思い出した。


 どう考えてもそれは六年前、あの大雨の頃である。そうして話していると、芋づる式に次々と具体的な出来事が思い出される。


 なんだ、これは。アイスマンはここへ来ていたではないか。何故忘れていたんだろうか。おかしい。そう二人が話している最中に、私が現れたのである。


 一体何がどうなったのだろうか。



 一時間後、私は彼らと三人で、昔のライダーハウスへ来ていた。


 旧ライダーハウスの一階は畳が取り払われて、古い農具や草刈機の燃料などが乱雑に置かれた倉庫になっている。


 二階は昔のままの畳敷きであった。作業用の休憩所として時折使われていると嶋さんは言うが、今はカビ臭い埃まみれの部屋である。


 二階に上がってすぐ左、昔は私も寝起きしていた八畳間へ入り、奥の押し入れの前まで行く。


 天袋を開けてその奥を手探りすると、私の目指すものが見つかった。錆の浮いた、クッキーの空き缶である。


 その古い箱が、そこに本当にあるのかどうか、半信半疑であった。しかし、少なくとも缶はそこにあった。


 厳重にテープで密閉されたブリキの箱は、私の記憶通りである。


 その場でテープを剥がし、べとつく缶の蓋を開ける。中には手書きのノートをコピーした紙の束が、二つ入っていた。私は胸を撫で下ろす。


 一冊は、私が十二年前にアイスマンを造っていた時のレシピノートである。加えて、量産化のための試行錯誤の模様が慎さんと美佳さんの字でびっしり埋められている。


 もう一冊はもっと分厚い慎さんと美佳さんの手によるオリジナルレシピノートで、几帳面な字で当時作っていたアイスクリームやチーズ、ヨーグルト等の詳細な製造ノウハウが描きこまれている。


 この缶は、六年前のあの朝、ここへ隠したものである。万が一の場合、私に何ができるか。思いつめた挙句に辿りついた、ギリギリの行動であった。


 ページをめくる元ちゃんの手が、震えている。慎さんと美佳さんの小さな字を追いながら、元ちゃんの目から涙が落ちる。


 嶋さんが元ちゃんの肩に腕を回した。その腕も、細かく震えている。三人は声を殺して泣いた。



 私は、二冊目のレシピノートの最後の部分を元ちゃんと嶋さんに見せた。そこには、誰も知らないアイスマン三号の完成されたレシピが記されていた。


 私が十二年前に考案したレシピの中に、未完成のアイスマン三号があった。


 幻の六年前、慎さんと美佳さんはそのレシピを完成させるべく、私に何度も試食をさせた。そしてそれがついに完成したのは、あの土砂崩れの前日である。


 それはアイスマンの集大成、完璧なアイスマン三号であった。私はその味に感動した。あの日、あんなに大勢の人間が工場へ集まっていたのは、その試食会のために慎さんが関係者を招集したためであった。


 アイスマン三号は、コスト面での配慮もされている。既に単品として牧場で売られている製品の絶妙な組み合わせを中心として、製造が可能なのだ。


 当然、慎さんと美佳さんは、そこまで配慮した製品開発をずっと続けていたのだ。


 そしてその日の朝、私は工場に置いてあるコピーではなく、原本のノートを借り受け全てコピーした。そして、そのコピーを空き缶に密閉し、この場所へ隠したのだ。


 万が一にもこれを失わないように、という私の意図が慎さんに伝わったかどうかは不明だ。


 ちょっとしたタイムカプセルの気分だったかもしれない。それでも、情報の流出を恐れることなく私を信じて、二人は喜んで協力してくれた。


「これで作れそうかい?」

 熱心にノートを読み始めた二人に私は尋ねる。


「ああ、いけそうな気がする。いや、間違いない、大丈夫だ」

 元ちゃんは自信を取り戻し、胸を張る。


「それどころか、今の設備ならオリジナルの棒アイスだって作れるぞ」

 嶋さんも、希望に目を輝かせる。


「ありがとう、アイスマン」


 私は二人と握手をして、階下へ向かった。階段の途中から、一階を懐かしげに見下ろす。


 ここで元ちゃん、嶋さんを含めた大勢の旅人達と酒を飲み、人生を語り合った。



 今では草刈り用具や牧場内で使われる様々な立て看板、交通整理用のカラーコーンなどが積み上げられている。その一角に、あり得ない物を発見した。


「これ、どうしてここに……」

 私の指差す先には、埃を被った灰色のオートバイがあった。


「ああ、これ。まだここにあったのか。あの事故以来ずっとだな。持ち主不明なんで、他に事故に巻き込まれた人がいるんじゃないかと警察で調べたっけ。そう言えばその後どうなったんだろう?」


 元ちゃんが嶋さんを振り返る。


「さあ、覚えてないな」


「これ、俺のバイクだ」

 私はバイクに近寄り、積もった埃を祓う。


「なんだ。アイスマンのバイクだったか」


 二人は簡単に納得するが、私はそうはいかない。


 今、二階で本来ここにある筈のない物を見つけたばかりだが、それでもこのバイクについては納得がいかない。こいつはアパートの火災に巻き込まれて、六年前に東京で廃車にされた筈だ。


 だが、それは事実だろうか。あの時、私は本当に焼け焦げたバイクを見たのか。


 入院と火災の混乱の中で、廃車の手続きを実際にしたのか。そう考えてみると、実に何も思い出せない。


 二人はノートのコピーを再び缶に入れ、大事に抱えてキッチンへ戻る。スキップするような二人の後姿を見送り、私は深い疲労感に襲われた。



 足を引きずるようにロッジへ帰ると、フロントの深雪ちゃんが身を乗り出して私を覗きこむ。


「やあ、仕事が終わったら一緒に飲まないか?」

 だが私の軽口をまるで無視して、眉間に軽く皺を寄せた深雪ちゃんが言う。


「あなた、本当は何者なんですか?」

 その話は前にもした筈だ。


「言わなかったっけ。通りすがりの、ただの売れない漫画家さ」

 今度は若干のアレンジを加えて答えた。


「知っています。高校生の頃、アルバイトでここに来ていた時にあなたを見かけたことがあります。さっき急に思い出したの」


 おお、深雪ちゃん、あんたもか。


 だが残念ながら、それはここにいる私ではないんだよ。あの時、六年前にここへ来ていた私は、多分土石流に呑まれてくたばったのさ。他の大勢の人たちと一緒にね。


「で、どうだい、今夜は?」

「残念ながら、今夜は遅番です」


「ああ、そいつは残念だ。じゃあ後で夕飯を食いに来るよ」

 私は片手を上げて挨拶すると、ゆっくり階段を上がり二階の部屋へ戻った。



 



  

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