32 咲


 

 三階の展望風呂にたっぷり浸かり、頭の中を整理する。どう考えても、牧場の皆で私をからかっているとしか思えない。だが、そんなことをする理由が思い当たらない。


 それに、何よりも、どうやったら私にこの不思議な記憶を植え付けられるのだろう。


 納得はいかぬが、やはりこれは時空の非連続性がもたらす奇跡なのか。


 一階のレストランへ降りた時にはフロントに深雪ちゃんの姿はなく、何となくホッとして私は席に着いた。


 テーブルのメニューを手に取った時、ポケットの携帯が鳴る。咲からの電話だった。


「お兄ちゃん、今どこ?」

「ロッジのレストランでこれから夕食だ」


「わお、ちょうどいい。私もすぐ行くから待ってて」

 電話が切れてから、私はおかしな事に気付く。


 何故咲は携帯の番号を知っていたのだろう。


 不思議に思って自分の携帯を調べる。そこには、ある筈のない咲の電話番号とメールアドレスが、しっかり登録されているではないか。


 何やらこの現実とあの現実は、妙な具合に混ざり合っている。まあ、だからこそレシピノートもあそこに残っていたのであろうが、どちらも容易に受け入れられる話ではない。


 そこまで運命が揺れ動くのなら、いっそのこと親方の両足がちゃんと残っていたりしないものか。



 シャンプーだかコンディショナーだかの香りを派手に振りまきながら咲がやって来て、取りあえずビールだわ、と生ビールを二つ注文する。


 少しの疑念を咲にぶつけるが、大きな現実は何も変わっていやしない。ただ、些細な部分がほんの少しだけ違っているに過ぎないのだった。


 私たちは遠慮がちにビールのジョッキを合わせた。

 まさか咲と二人で酒を飲む日が来るとは。


 咲のお勧め料理は美佳さんの得意だったイタリアンで、どれも懐かしい味だった。


 あの夜に親方と飲んだ地酒が置いてあるのを知り、それを注文してみる。記憶通りのすっきりとした味わいで、初めて飲む酒とは思えず、かえって薄気味が悪い。


 咲は一時間程で食事を終えると、まだ仕事があるからと慌ただしく出て行った。


 残った四合瓶を部屋へ持ち帰りちびちびと飲んでいるうちに、長かった一日が終わった。


 一晩寝て起きると、霞が晴れたように頭がすっきりとしていた。長年悩まされていた悪夢から解放され、久方ぶりの熟睡であった。


 異物のような第二の記憶も、頭の中で馴染んできたような気がする。なるようになれという、開き直った爽快感があった。



 トイレから戻り薄暗い部屋のカーテンを開けると、窓から淡い陽光が差す。目を細めて体いっぱいに光を浴びた。


 唐突に、部屋の隅から人の声がして驚かされる。

「ああ、お兄ちゃん、おはよう」



 振り返ると、咲が隣のベッドで眠そうな目をこすっている。


 せっかくすっきりした目覚めだったのに、また何が何やらわからなくなった。


「どうしておまえがこの部屋にいるんだ?」


「えっ、覚えていないの? ひどい」


 咲が意味ありげに私を睨む。私は後ずさりして自分のベッドに戻り、そのまま背後の壁に背中が当たるまで退避する。そんな馬鹿な。



 ベッドの上で体を小さくしている私を見て、咲が笑い転げる。なんだ、これは。


「おまえ、こんなところ元ちゃんに見られたら、大変だろうが」


 この山猫高原へ足を踏み入れて以来、驚きと困惑の連続だ。サバンナに暮らす草食動物のような心持である。私の動揺は容易に収まらない。


「元ちゃん?」

 咲が笑いを止めて、目を見開く。


「だっておまえ、元ちゃんと結婚するって聞いたぞ」


 そう言う私の心の奥に、鋭利な棘が刺さっている事を感じる。


 咲は再び火がついたように、腹を抱えて笑い転げる。

「嫌だ、それお父さんでしょ。困るな」


「はっ?」


 咲はシーツを剥いで上体を起す。薄いシャツから細い体のラインが見えてドキリとした。


「あのね、私も元ちゃんも、結婚なんてする気がないからね。お父さんが勝手に望んでいるだけ。面倒だから私はお父さんから離れて、あんなところで一人暮らしを始めたの」


 そうなのか。私は安堵して咲を許す気になっているが、何か変だ。


「それで、だからどうしておまえが隣に寝ているんだよ?」


「さあ」

 咲は首を傾げてにこりと笑う。


 私はまたもや、それで許しそうになる。我ながら、弱い心である。


「だって、お兄ちゃん昨日私が寝ている間に消えちゃうんだもの」

「で?」


「あれから私、夕方に起きて、また夜中まで仕事をしてたんだから」

「だから、その後電話があって、夕食につき合っただろ」


「あ、そうだった」

 私は咲に翻弄されていた。


「なんじゃそりゃ、飲みすぎたな?」

「いえ、ちょっと疲れてるだけ」


 昨日の消え入りそうに泣いていた咲とは、まるで別人である。もちろん、これが本来の咲の姿である事は充分に知っている。それにしても、堂々とし過ぎだろう。ここは私の部屋である。


「それはいいけど、鍵がかかっていた筈だぞ。どうやってこの部屋へ忍び込んだ? 全く物騒な宿だな。けしからん」


 私は自分を少し取り戻し、憤慨した。


「私を誰だと思っているの、専務取締役よ。部屋の合鍵なんて使い放題、私の入れない場所なんてこの牧場にはないんだから」


 それは、そんなに威張って言える事か?


 呆れて何も言えないでいると、咲は小さな声で続ける。

「ねえ、もう私を一人にしないで」


 咲はじれったそうに起き上がり、私のベッドにもぐりこんで来る。


「おい、貧乏漫画家をからかうな。俺はすぐに東京へ帰るぞ」

 私は狼狽したまま辛うじて咲の攻撃を受け止める。


「私も連れてってくれるんでしょ」

「東京に帰ったら忙しいんだ」


「そんなことは慣れてるもん」

「狭い家での貧乏暮らしだぞ」


「知ってる。あんまり売れてないもんね」

「こら、はっきり言い過ぎだ」


「もう、威張っちゃって」

「そうだ、俺は短気だぞ」


「いいの。完璧な人間なんていないわ」

 咲がますます密着する。


 最早私に、それ以上拒む理由など何もなかった。



 咲の頬に手を当てた途端に電撃が走ったような、不思議な感覚に襲われる。

 どうやら、咲も同じようだ。


 至近距離で、目と目が合う。


「あのさ、これって初めてじゃないよね」

「おかしいな。俺もそんな気がする」


「……女子高生に手を出した、スケベオヤジめ!」

「おまえが無理やり迫って来たんだろ?」


「だって、新刊には予約が必要だと思ったから……」

「予約は受け付けていなかったんだけどなぁ」


「六年も待たせたくせに。もう遅いですよーだ」



  

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