29 悪夢



 繰り返す悪夢は際限がない。だがこの日、七月九日の朝、悪夢は覚めることがなかった。



 朝一番、居間で二人きりになった機会を逃さず、親方に咲が東京の大学へ行きたい本当の理由を伝えた。


 親方は自分の不明に恥じ入り、二日酔いの顔を更に青くした。


 私も同じく前夜の酒が残り、頭が重かった。しかし、気分が悪い理由はそれだけではない。長年悩まされた悪夢が、ついに牧場全体を包み込んでいた。


 悪夢の詳細は、ぼんやりとしていて掴みどころがない。


 ただ、そこから止めどない不安が滲み出るのみである。だが、悪夢を補完する映像の断片が私の脳裏に浮かんでは消える。それは今とは全く違う姿の、船見ファームである。


 広い駐車場。新しく清潔な施設。来客者をもてなす若い従業員たち。目の前に浮かぶ、もう一つの現実。


 だが、そこには大きな空白がある。この喪失感は何だ。巨大な虚無の原因を、私は必死で探す。


 そうだ。その牧場には、何かが欠けている。それは一体、何だ。


 私に罵声を浴びせて去る元ちゃんの肩をいからせた後姿。それを陰から見守る咲。車椅子に乗る親方。


 そして……そうだ、築山の上に立つ石碑。災害を記録した石に、小さく刻まれた名前。これは、何の記憶だ。


 何故私がそんなことを知っているのか。混沌とした思いが整理のつかぬまま、更なる混乱を強いる。動かし難い確信が、時間切れが近い事を声高に警告する。



 私は確信を持つ。


 本日七月九日の昼、この地は未曽有の惨事に襲われる。その災厄により、多くの人が命を落とすことになるのだ。それが今、すぐ先に待つ未来。動かしようのない事実、現実。


 私の頭の中は次第にその事のみに支配され、何故自分がここにいるのか、何故自分が知っているのか、そんなことすら考えられない。私は完全に狂っている。


 だが、狂っているのは私だけではない。


 昨夜から強くなった雨は、開き直ったような大雨となり、ひたすら降り続けている。


 見上げる鉛色の天も、猛り狂っていた。この暴力的な雨が上がる時、この世界は地獄と化す。自分は動かねばならない。


 混乱する頭がやっと動き始めたが、残された時間は少ない。



 どうするのだ?

 私の知る未来。無事だったのはどこだ?


 それはライダーハウスとレストラン。それと、船見牧場の牛舎だった。一刻も早く動かねば。


 牛舎にいた元ちゃんを捕まえた。元ちゃんと、元ちゃんの家族全員を、昼食のため近藤さんのレストランに招待する。


 必ず全員で、お昼前に集合と念を押す。親方と、婆さんも一緒だ。私の妙な気迫に、誰も反論は唱えない。元ちゃんは車に乗り、一旦家へ帰った。


 私は工場で慎さんと話をした後、軽トラックを借りて近藤さんのレストランへ向かった。


 近藤さんと昼食会の打ち合わせをしてから、売店の店番も、キャンプ場とバーベキュー場の担当も、まとめて今日は売店から動かぬように、きつく伝える。


 ライダーハウスには、誰も客がいなかった。

 咲は学校に行っているので、心配ない。


 残るは嶋さんと、慎さん、美佳さん、それに工場で働くパートのおばちゃんたちだ。何としても、慎さん、美佳さんとお腹の子供を救わねばならない。



 時が進むに従い、私の意識は不安定さを増す。胸のむかつきはますます重くなり、歩くのも困難だ。それでも私は、重い体を引きずり、工場へ戻る。


 キッチンには思いがけず大勢の人がいて、更に私は混乱する。


「どうして、こんなにたくさんの人が…」

 私の声にみんなが振り返る。


「どうしてって、今日は新製品の試食会だからな」

 慎さんが当然、といったふうにこちらを見て、思わせぶりに片目を閉じる。


「うん。なんだか予定よりも早く完成したからって、今日は製造販売の関係者が集まっているんだよ。まあ、この天気で最近は開店休業状態だったしね。」


 配送と営業を担当している山村さんという三十代の男性社員が、説明する。


 地元の観光協会の人やら広告会社の人やら、見た事の無い顔が多数いた。


 私は必死に冷静さを取り戻そうと、深く息を吸って考えた。


 私の記憶では、ここには慎さん美佳さんと、パートのおばさん二人しかいない筈である。だが、そんな事を言っている場合ではない。



「ねえ、慎さん、ここはちょっと狭いから、牛舎の会議室へ移動しない?」

 私の提案にキッチンの中がざわめく。


「そうだ、あそこならゆっくり座って食えるな」

 嶋さんがそう言うと、美佳さんも「それは私も助かるわ」と言ってくれた。


 慎さんもすぐに同意をしてくれて、それから嶋さんと二人で移動の支度を始めた。


 慎さんは大切そうに美佳さんの肩を抱き、ひと足先に二人で外へ出る。


 私は嶋さんと最後までキッチンに残り、全員が近くの牛舎へ移動するのを見届けた。


 そもそも、嶋さんだってここにいる筈のない人だ。何かが変だ。が、そんな事を考えている時間はない。



 夢の中の世界のように、時間が粘ついている。


 皆が向かったのは牛舎に入ってすぐ左手にある部屋だった。そこは昔使っていた大きなミルクタンクを撤去した後に、折りたたみのテーブルとイスを置いただけのスペースで、便宜的に会議室と呼ばれていた。


 新しい搾乳機を導入した際空いた場所に、ちょっとした機材を置いて製品開発室のサブルームとして使っていた。そこに、人々が集まっている。十人余りの大人数だ。


 傘をさしても、少し外を歩いただけで全身ずぶ濡れの有様であった。


 工場と違い、牛舎の中は屋根を打つ激しい雨の音に満たされていた。皆一様に黙り込み、タオルで顔を拭きながら不安そうにお互いの顔を見つめている。


 私はその場を離れ、一人牛舎の奥へ向かう。窓からは、私が泊めてもらっている母屋が見えた。私の行いが上手く進んでいれば、今そこには誰もいない筈である。


 もはや、現実と非現実の区別が私にはつかない。どこまでが悪夢の続きなのか。これが、本当に現実なのか。


 そして、来るべき時はやって来る。時間は立ち止まらないのか。



 気が付くと、辺りは不思議な静寂に包まれている。大屋根を包んでいた轟音が、突然消えているのだった。


 つい先ほどまで視界を覆いつくしていた激しい雨は、嘘のように止んだ。


 一時はこのまま世界が水没するのではないかと恐れた程の、長い長い吹き降りであった。


 武骨な鉄の窓枠越しに、ちぎれ雲が飛んでゆくのが見える。


 夜明けのような淡い光に満ちた大地には、泥水の流れが幾筋も残っている。何匹もの茶色い巨竜が、草の上を踊るように駆け抜けていた。


 窓の外には人の気配もなく、豪雨が全ての音を流し去ってしまったかのような静けさであった。


 広い屋根の下に避難して息を潜めていた人たちも、ほっと一息つくのが感じられた。しかし、私はこれが始まりに過ぎない事を知っている。


 突然、私の携帯にメールの着信を告げる、不吉な音が鳴る。


 天井に反響する電子音。それに呼応するように、あちこちから動物の荒い呼吸音と鉄の鎖が振れ合うかん高い音が重なる。


 見てはいけないと、頭の中で誰かが叫ぶ。


 しかし着信音に対する条件反射で、電話を取り出す動作は止められない。私の体は自然な動きで着信メールをチェックして、思わぬ事態に顔をしかめる。


 メールは、咲からだった。高校にいる筈の咲が、何故か早く帰って来たのだ。しかも今、山越えのバスで牧場へ向かい、道を下っている。


 私は窓の外を見上げる。その目に映るのは、不気味に揺れ動く雲に蓋をされた、暗緑色の山並み。きっと、あの天蓋の中では今も大雨が続いているのだろう。


 そしてその緑を横に切り裂く、灰色の線が一本。それは、峠の展望台へ至る道筋だ。


 メールの送り主を探して山肌に視線を巡らせる。そして見つけた。山奥から続くアスファルト道路、その白いガードレールの線上遠くに、赤い横線の入った黄色い四角形が動いている。


 スローモーションのように、広がる森が揺らめいた。白い線上の山肌に新たな茶色い線が生じたかと思うと、亀裂がみるみる広がる。


 雨を含んだ土砂は表層の木々を巻き込み、急峻な斜面を滑り落ちた。少しの時間差で、地響きと轟音が一足先にこちらへ到達する。


 突然襲う地鳴りに建物は揺れ、天地は怒号と悲鳴に包まれる。


 地滑りはあっけなく黄色いバスを呑込み、山肌の巨岩に当たる。そしてその凶悪な矛先は二手に分かれた。


 ひとつの大きなうねりは小尾根を越え、土煙を上げながら道の奥へ流れて消えた。


 もう一筋の巨大な流れを正面に見捉えて、私の体は硬直する。


 事態は急転し、私はこの世界の終わりを覚悟した。


 地滑りは速度を上げてこちらへ向かう。茶色い土砂と巨大な岩石が嫌な音声を発して生き物のように身悶えながら近くの家をなぎ倒し、固まる私の目前に迫る。


 泥と岩から逃れようと、本能的に滑る床の上を走った。襲いかかる土砂がついに外壁へ達し、建物は轟音に包まれた。



 意識が戻ると、私は両手と顔だけを泥水から辛うじて出して倒れていた。


 脇腹から左肩にかけて激痛が走るが、不思議と下半身の感覚はなかった。


 何が起こったのかも全く記憶になく、ただ耳元で誰かが話す声が聞こえる。


 耳を澄ますと、それは懐かしい声だった。昔、海辺のキャンプ場で聞いた管理人の爺さんの与太話である。



「よく映画やドラマで頬をつねって夢じゃないかを確かめるってのがあるだろ。ありゃ大嘘だ。夢の中で自分の頬をつねっても、確かに痛い。そんなに簡単に夢かどうかなんて、わかるもんじゃないのさ。


 じゃあどうするかって? さあな。実際、夢か現実かが本当に重要だと思うような場面は滅多にあるもんじゃねえ。ぼんやり暮らしている人間は、毎日が夢の中みたいなもんだ。


 けれど人間、あまりの事に夢であってほしいって願う場面もあるだろ。そんなときに使えるマジナイがある。親父から教わったんだが、おまえも覚えておくといい。


 それは、あまりの出来事に知らず知らず涙が流れているような時にしか使えない。その涙を指に取って、掌に『夢』という字を書く。そしてそれを両手が乾くまで、もみ消すようにこすり続けるのさ。運が良けりゃ、そのうち布団の中で目を覚ますさ。


 俺にもそんな経験があるかって? さあ、ただ一度だけ、嫌な夢を見たな。


 あれは結婚して何年目だったか、ちょうど長男がよちよち歩き始めた頃だったな。その頃俺は鉄砲を手に入れて、猟友会に入れてもらってな、いきがって山鳥やイノシシなどを撃っていたのさ。


 ある日近所の藪で、大きな鹿が潜んでいるのを見つけた。慌てて家へ入り鉄砲を持って来て、ずどんと撃ったのさ。近かったのに弾は外れてな、鹿は大慌てで逃げて行った。


 けれど藪からは血の臭いがする。さては手負いにしたかと藪へ行ってみると、そこに倒れて血を流しているのは、俺の息子だったのさ。


 俺は気が狂いそうになって息子の体を抱き上げたが、もう息をしていなかった。そしてその時、親父から聞いたあの『夢』の字の話を思い出したのよ。そりゃ、もう、必死で両手をこすり合わせたさ。


 それで、はっと気が付くと、布団の中で涙を流してた。ああ、夢だったんだ、良かったと。


 まあ、そんな嫌な夢を見たってだけの話だ。だが目が覚めた後も、それきり二度と鉄砲を握ったことはねぇ。」



 話していた爺さんの顔が脳裏に浮かぶ。


 自分の話が終わると爺さんはハードボイルド映画の主役のように、にやりと笑ったのだった。



 ああ、結局、私の記憶は幻だったのか。


 咲も、美佳さんも、救えなかったではないか。一体、何人が泥に呑まれたのだろう。私は両目から涙が溢れるのを感じた。


 そしてその涙を掌に取り、夢という字を書く。


 その後は力の入らぬ両手を必死にこすり合わせるだけである。


 明るくなった周囲を見ると、視界に入るあらゆるものが、岩と泥に呑まれていた。



  

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