9 夏休み



 二日目、三日目と悔しさをバネに、無我夢中で働いた。


 その間に観光客もぐっと増えて、レストランと土産物屋にはシーズン中のアルバイト学生も加わり、賑やかになった。


 訪れる旅人も増えると逆にライダーハウスに長く逗留する者が減り、日々新たな顔ぶれに疲れを感じるようにもなっていた。


 私が仕事を手伝い始めた頃、関東の夏休みより数日遅れ、元ちゃんの学校も夏休みに入ったと聞いた。


 そもそもいつ学校へ行っていたのか、何も変わらず毎日牧場へ来ている元ちゃんではあった。


 体がやっと慣れない労働に適応し始めて、頭の中も仕事の段取りを理解し始めたのは七月下旬の事で、徐々に牛に触らせてもらえるようにもなった。


 子牛の世話をするのも楽しみで、子を産んだばかりの老牛の乳を手で搾る仕事もさせてもらった。不思議と、その頃にはあれ程嫌だった臭いも、別に気にならなくなっていたのだった。


 まったく、慣れというものは恐ろしい。


 船見の親方は慎さんを一回り小型にして二倍の馬力を詰め込んだような極めてパワフルかつエネルギッシュで、しかも妙にイングリッシュな人で、仕事には大変厳しかった。


 私も何度となく怒鳴られたが、一仕事終えると本来の柔和な人柄が現れて、どことなく山形のキャンプ場の爺さんを思い起こされた。


 もちろん年齢的には親方の方がずっと若く、まだ小学生の一人娘がいる位なので老けているように見えても意外と若いのだろうと思っていた。


 何よりも、英語交じりの怪しい話し方までが、あの爺さんに似ている。なんでも、若い頃にオーストラリアやアメリカの牧場へ一人で修業に行っていたらしい。


 それにしても、第一印象のインパクト通り、変な勢いで周囲を引き付ける妙な人である。



 朝の仕事をしていると、畑で野菜の世話をしている婆さんとも毎日顔を合わせた。


「あらあんた、まだここにいたかね」

 最初に牛舎の横にある狭い畑で顔を合わせた時、婆さんが私の事を覚えていてくれたのにも驚いた。四日前、朝の物産センターで少し話をしただけなのに。


 そして、宿の皆で食べなさいと茹でたトウモロコシをたくさんくれたのだった。私はこんなダメ人間なのに、何故ここではこんなに良くしてもらえるのか?


 かえって不審に思う事が多かった。


 仕事に慣れるのとは逆に、体中が痛み始めた。


 最初のうちは普通に筋肉痛だと思っていたが、やがてそれが慢性的な捻挫や関節痛となって私に襲いかかった。


 一番酷かったのは手の指で、竹箒やフォーク、鍬や鎌にネコ車等々、何かを握る作業が多過ぎて、慣れないうちは腱鞘炎になるのが職業病の一つらしかった。


 結局いつまでたっても得体の知れない船見ファームの摩訶不思議ワールドは私の困惑を深めるばかりであったが、追い打ちをかけるように、初日に約束した美佳さんの手料理をふるまってくれる日というのが唐突にやって来た。



 その日は早目に仕事を終えて、近藤さんを始めとするレストラン・土産物屋のアルバイト諸君と嶋さんら常連の旅人が揃って町へ飲みに出かけた。


 私も誘われていたのだがどうしても町へ降りる気になれず、遠慮している隙を見事に突かれて、じゃあ私の手料理をと美佳さんに言われれば断る理由はどこにもない。


 唯一誤算なのは、町へ降りた筈の元ちゃんが素知らぬ顔で船見家の食卓に座っていた事くらいだった。


 その日揃ったのは船見家の親方と婆さん、そして一人娘の咲と、あとはもちろん慎さんと美佳さん。そして何故か元ちゃんがいて、末席の筈の私が、ゲストとしての扱いであった。


 これではどう考えても、私は場違いである。


 あの日、その場の勢いで美佳さんがチーズ料理をふるまってくれると言ったのは覚えている。けれどその見返りは既に充分に受けている。私はただの出来の悪い居候として留まっているに過ぎない。


 そう思うと、元ちゃんがいてくれるのは私にとって心強く、ありがたい。


 まさかこいつはそんな気遣いで町へ降りるのを止めたのではないかと思うと、充分ありそうに思える。そんな元ちゃんの優しさに、私は救われた気持ちになっていた。


 美佳さんの手料理は幾つか微妙な物もあったが総じて美味で、何より親方の娘の咲が喜んでいたのが印象的だった。


 事前に元ちゃんに聞いたところによると、親方の奥様は二年前に病気で他界したばかりだった。


 一人娘の咲にとって美佳さんは姉のように、母親のように、安心して心を寄せる存在になっていたようだ。


 対照的に、親方と婆さんは腫れものに触るように咲を気遣い、大切にしているのが私にも感じられた。


 けれども慎さんや美佳さんがもっと自然に咲と触れ合うのを見ていると、かえってそれが咲の心を閉ざす結果に繋がっているようにも思えた。



 ところで、美佳さんの料理を大袈裟に褒めちぎる元ちゃんの態度を見て、私は認識を新たにせざるを得なかった。


 こいつは私や咲の事を考えて残ったのではなく、ただ単に美佳さんに惚れているだけだな、と。


 そしてそれは図らずとも、私にとってのライバルでもあった。


 結局、私ら馬鹿ガキ二人は、滑稽なまでに美佳さんに気に入られようと、その阿呆面を競っていたのである。



 最後に、新しいアイスクリームの試作品が供された。


 それは濃厚で香り高く、口溶け滑らかで、以前食べた二つの試作品の欠点を見事に払拭していた。


 私は感激してスプーンを口に運んだが、そこには新たな欠点が見てとれた。


「どう?」

 緊張気味の美佳さんの問いに、元ちゃんが絶賛の声をあげる。


 けれど、最初の試食であれだけ駄目出しをした私が、ここで簡単に引き下がる事が出来ようか。


「確かに、この前食べたアイスの欠点は克服しているように感じます。けれど、じゃあこれが今までのアイスに比べて美味しいかというと、別問題」


 試食したアイスについての所見を述べ始めると、私は止まらない。いや、止められない。お願い、誰か止めて!


「口溶けを良くすることには成功しているけれど、その分空気を含み過ぎたのか、せっかくの濃厚さが微妙に減ってしまった。乳臭さを消すためのバニラも強過ぎて、甘さとミルキーさが減って、気の抜けた印象になってしまった。空気が増えた分柔らかく軽くなっているのに、微妙に水分と脂肪分の分離がみられて、これは一度溶けかかったアイスをもう一度凍らせた時のような、嫌な舌触りです。結局、欠点を克服しようとした分だけ無理があって、全体のバランスから言えば今の製品の方が良いとしか言えませんね」


 私は、思った事をそのまま一息に言った。鼻持ちならぬ、クソ生意気なガキである。


「ヘイ、ミスター・アイスマン。君はどこかでアイスクリームを作っていた事があるのか?」

 目を見張る美佳さんをよそに、親方が私を睨む。


「全くありません」

 それだけは自信を持って言える。


 親方は美佳さんと慎さんを見る。


「そう言われれば、その通りです。私も、前の二作の欠点ばかり考えていました。それに、このアイスをここへ運んでくる間にうっかりして、ほんの少しだけ温度が上がってしまい、ここの冷凍庫で冷やし直したの。それで少し氷の粒が大きくなってしまったのかも……」


 美佳さんは頭を振って考えながら、そう言って俯いた。


 元ちゃんは言い過ぎだぞと言わんばかりに私の脇腹を肘でつつくが、もう遅い。

 まだ青い私には、もはやフォローする言葉を何も持たなかった。


「フローズンヨーグルトも食べてもらおうか」

 慎さんが気を取り直して、美佳さんを振り返る。


 美佳さんは慌てて立ち上がった。


 それは、文句なしに美味かった。低温発酵のヨーグルトは濃厚かつ芳醇な香りで、それをアイスクリームメーカーで混ぜながら凍らせただけというにしては、絶妙な味だった。


「多分、砂糖の配分が抜群なんだと思う。それと、この花のような香りがすごい。これは前に食べた牧場のヨーグルトにはなかった香りなので、何か加えましたね」


 私は再び思ったままを口にした。


砂糖シュガー?」また親方の英語が出て、私は苦笑する。


「そう、そうなんです。甘みと酸味、そして温度、このバランスがとても難しいんです。だから、普通の粉砂糖に加えて水飴と蜂蜜で味を調えているの。微妙な花の香りは、多分その蜂蜜だと思います」


 美佳さんが興奮して言う。


「まったく、呆れた奴だな」


 慎さんがため息をつくが、私は根拠のない感想で余計な事を言ってしまった感が強くて、とても喜べる状況ではない。


 元ちゃんがヨーグルトの作り方を美佳さんに細かく質問をし始めたのを機に私は話題の中心から逃れ、ほっと一息ついて食後のコーヒーを飲んでいだ。



 向かいにいる咲がつまらなそうにしているので、私が箸袋で鶴を折ってあげると思いの外喜んでくれた。


 咲が色とりどりの折り紙を持って来たので、私はいい気になり知っている折り紙を幾つか折ってみた。


 遠い記憶を頼りに作った作品はとても出来が良いとは言えず、仕方なくペンでそれらしく顔やら模様やらを描き入れて誤魔化してみると、咲はもっと喜んだ。


 今度はその作業に私が思いの外喜んでしまい、でたらめな折り紙に絵を描き込んで無理矢理それらしく見せる事に熱中していた。


 咲は色白の痩せた女の子で、小学校の高学年にしては幼く見えた。


 普段ほとんど言葉を交わした事がないのでこの機に少し仲良くなれるのかな、とも思ったが、そんなに単純なお子様ではなかった事は後に知る事になる。


 取りあえずその日は二人で好きなマンガの話などをして、仲良く過ごした。



  

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