8 牛舎



 翌朝遅く、二日酔いの頭痛を堪えて何とか起床した。


 旅を続けるために出て行くバイクの二人を見送ると、特に用事もなかった。


 残った暇人でだらだらと昨夜の宴の後始末をして、部屋や風呂、トイレの掃除なども済ませてやれやれと一階で横になっていると、もう昼だった。


 午後から大阪の大学生にバイクのケツへ乗せてもらい、水かきの道を行ったり来たりして過ごした。


 夕方温泉に入り、風呂上がりに冷たい缶ビールを持って峠の展望台へ上がり、沈む夕日を眺めて乾杯した。


 そのまま飲酒運転でのんびり牧場へ帰るとすっかり日は暮れ、また今宵も宴の時となる。


 元ちゃんは忘れずその時間には現れ、ひと騒ぎしてまた自転車でふらふらと帰って行く。


 そんな日々を三日も続けると、さすがに飽きて来た。


 入れ替わりやって来る旅人は変わった連中が多く、話をするのも楽しいが、なにしろ昼間にすることが何もないのが困りものだ。


 バイク乗りはそれぞれに自分の単車で出かけていくが、私には自分の足しかない。



 もちろん、好きなアイスクリームを含めて食べ物飲み物には困らない。


 近藤さんの作る洋食はどれも美味で、日がな一日遊んでいる身にはいささかカロリー過多である。


 暇潰しに牛乳飲み放題メニューに挑戦してライダー四人と競争したがあえなく撃沈し、お腹を壊して酷い目にあった。観光牧場なので乳搾り体験やら子牛にミルクをあげる体験などもできるが、もちろん有料だ。


 有料といえば併設のキャンプ場もあり、バーベキューをして大騒ぎをする団体を諌めるのも近藤さんの仕事であった。


 悪質な連中に対してはライダーハウスの面々が強力なボディーガードとなり、場内の秩序を守るために立ちあがる。逆に喧嘩っ早いライダー連中を止める方が大変のようだったが。


 旅立ち以来あまりにも怠惰な日々を過ごしていたが、私にとってはそれなりに新鮮で刺激のある時間でもあった。


 ところがこの薄暗いライダーハウスの一階は時間が止まったような退屈極まりない空間で、いくら私がのんびりした人間だといってもそこはまだ十代終わりのやんちゃな盛りだ。暇を持て余せばついつい余計な事を考えてしまいがちだ。


 いつまでもこんなところにいても仕方がないなと思い始めた四日目の朝、元ちゃんが古い二トントラックを運転してやって来た。



「あれ、元ちゃん車の免許なんて持ってるんだ?」


 私は完全に無免許運転ではないかと疑っていた。しかし、元ちゃんは自慢げにポケットから免許証を出して、水戸黄門の印籠のように掲げる。それは取ったばかりの普通免許証であった。


「昨日、やっと免許が来たんだわ。ちょっと、ドライブ行くべ」


 それは、ドライブとは名ばかりの、元ちゃんの仕事だった。


 トラックの荷台には牧柵やら有刺鉄線やらが乱暴に投げ入れてあり、それを使って元ちゃんの家の放牧場沿いに走りながら、壊れかけた柵を修理して回るのだった。


 扱いにくい大きなペンチや太くて硬い針金との悪戦苦闘に、午前中いっぱい付き合わされた。



 何となく騙された感が強かったが、お昼には元ちゃんの家で豪華な昼飯をご馳走になった。


 以前二人でスイカを食べた時には牛舎の隅にある事務室のような場所だったが、今回は正式に家の食堂へ招かれた。


 立派な木造の母屋は天井が高く風通しも良くて、まさに威風堂々という構えである。一枚板の分厚い巨大なテーブルに付くと、高級レストランに来ているようだった。


 元ちゃんの両親と祖父母、三歳年上のお兄さんの六人家族に私が加わり、賑やかな昼食となった。


 元ちゃんの所の牧場は、肉牛の飼育が中心である。以前は乳牛をたくさん飼っていたらしいが、最近ではミルクの価格が安くなってしまい、地元ブランドの黒毛和牛の肥育に力を入れているとのことだった。


 そういえば、元ちゃんがいつか語っていた。牧場の仕事は兄貴が継ぐので、自分はどこか外で仕事がしたいのだと。


 しかし来年卒業後の進路はまだ決まっていないらしい。暫くは家の手伝いをしているしかないだろうな、と呟く声の最後は聞き取れないくらい小さかった。



 午後も二人で仕事をしながら、元ちゃんとは自然とそんな話の流れとなる。


「俺は船見のおやっさんのとこで働きたいんだけども、オヤジや兄貴は反対してる。あそこはまだ借金が多くて、観光農場としてやっていけるのかどうか、怪しいもんだと」


 なるほど。そういう事か、と私は納得する。ゲンちゃんは、話を続けた。


「確かに仕事してちゃんと給料貰ってんのは慎さん、美佳さんの二人だけで、近藤さんやアルバイト達も、仕事があるのは夏場だけだ。他はタダ働きの若いもんばっかりで、何とかやってる。俺がそんなとこで仕事しようったって、まだ食っていけねぇしな」


 元ちゃんは酪農の仕事がしたいのだと語る。悩みを抱えた元ちゃんの前で、私は言葉を失う。一体、私はこれから何をしたいのだろう。


「まあ、兄貴が嫁もらうまでは、俺も家から放り出されることもなさそうだから、気楽にやるさ」


「お兄さんには彼女がいるの?」

 それを聞いて元ちゃんは大笑いをしている。


「さっき俺の兄貴を見ただろ。兄貴は女よりも牛の方が好きなんだ。あの堅物に彼女ができるわけがないさ、この嫁不足の世の中でよ。まあその分、当分俺の立場は安泰ってことだな……」


 けれど、元ちゃんの言葉は無理して強がりを言っているようにしか聞こえなかった。


 私も受験の話だとか、予備校の話などをしていたが、結局ここへ来た目的を正確に言う事にはためらいがあった。


 今では神様の言う幻のアイスがここにはなかった事を確信している。けれど、今更それを他へ探しに行こうとも思わない。


 私の旅はここが終着点であると、直感がそう告げていた。というか、そう言い切っておかないと、さすがにこれ以上他へ行く気力がもう残っていなかった。



 翌朝から、私は牧場の仕事に行く事になった。


 夜の宴会で天然パーマの嶋さんに遠慮がちに声をかけ、昼間の仕事くらいは手伝いたいと酔った勢いで言ったのが間違いだった。


 嶋さんは喜んで、それなら朝から来いと半ば無理矢理に話を決められてしまった。


 朝五時になんて起きられませんよと必死に断ったのだが、心配するな、起こしてやるからと一蹴された。


 いや、そういう意味じゃないんですけど。



 その言葉通り翌朝五時、嶋さんとその屈強な仲間に是非も無く叩き起された。


 みんな朝から異常にテンションが高く、極めて朗らかな拉致である。そのまま引きずられるようにして、初日に行った牛舎へ連行された。


 そこには慎さんも美佳さんも、そして元ちゃんも来ていた。仕事を仕切るのは初めて会うここの社長、元ちゃんの言う船見のおやっさんであった。


 取りあえず社長へ挨拶に連れて行かれる。


「社長、よろしくお願いします」

 どうしてよいのかわからず、簡単に言って頭を下げる。


社長プレジデント? 勘弁してくれよ。遥々ここまでアイスを食べに来てくれた人だろ。慎と美佳から噂は聞いてるよ。俺の事は、マスターと呼んでほしいんだが、何故かみんな親方と呼ぶ。」


 私の挨拶に、気さくに応じてくれた。確かに、見るからに社長というよりも、親方である。


「よろしく頼むよ。大したお礼も出来ないけど、貧乏農場プアファームなんで勘弁してくれ。その代わり、飯と酒だけはたっぷり用意できるから。さて、仕事の話は、嶋君に聞いてくれ。もう何年も来ているベテランだからな」


 親方はブロードウェイの舞台俳優や宝塚の男役スター並みの妙に大袈裟な身振りで両腕を広げて近寄り、私の手を取って情熱的な握手をした。


 私の退路は既に断たれている。仕方なく、曖昧な笑顔で握手に答えた。



 そうして私は嶋さんに教えられ、長靴とつなぎの作業服を身につけた。痩せ過ぎの私には既成の作業服がブカブカの宇宙服のようで、どうもしっくりこない。その辺を気にしていると、みんなに宇宙飛行士とからかわれた。


 教えられるままに竹箒を持って牛舎の掃除を始めると、既に仕事を始めていた面々が珍しそうに私の姿を見ていた。


「やっと来たかよ」と慎さんや元ちゃんに口々に言われ、私は戸惑うばかりであった。


 その日、いったい何をしていたのか、はっきり思い出せない。ただひたすら体を動かすことが楽しく、しかし思うように仕事の出来ぬ自分に苛立ち、混乱し、随分と久しぶりに頭と体をフルに使った気がする。


 元ちゃんや美佳さんが手際よく次々と乳を絞ったり餌の用意をしているのを横目で見ながら、感心したり、嫉妬したりした。


 とりわけ汗を拭う美佳さんの横顔などを盗み見た時に束の間の幸福感に酔い痴れたことだけを、鮮明に覚えている。


 後で思えば、まだ十八歳の若造に必要なのは酒など飲んでその日々を誤魔化す事ではなく、繰り返し汗を流す事だという当たり前の事なのだが、それを教えられたのが十八歳になったばかりの高校生だったという事が悔しく、自分が情けなかった。



  

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