10 アイスマン
大人の世界では、物事について正直に自分の意見を述べる事はなかなかに難しい。
しかしながら、いかに困難な状況下でも、男には言わねばならぬ時がある。
だから私は心を鬼にして、敢えて語った。ということであればどんなに格好が良かったことか。
しかしながら、ただ単に私は図体だけ大きな子供であったが為に、思った事をそのまま素直に口に出してしまったに過ぎない。
それにしても、元ちゃんには後で随分叱られた。
あんたは阿呆か、と。
言いたい事があったとしても、それは後でこっそりと伝えるもんやろ、と。
まず、ああいった場面では、最初にしっかり褒めとけよ、と。
それはそれは、しつこく何度もお説教されたのであった。
そんな訳で、楽しい会食の席で試作品のアイスに思いっきり駄目出ししてしまった私の発言についてはなかなかの反響で、例え子供だからと言い訳しようとも、その発言に対する責任は必然的に付いて回る。
私には私なりの責任の取り方というものがあるので、そこだけは元ちゃんにも何ひとつ言わせないようにせねばなるまい。
翌日から私は暇さえあれば工場へ顔を出して、アイスクリームを作る製造過程を見学した。
それは純粋に私のアイス愛に根差したものであるので、例えそれを作っているのが美佳さん一人の時だけにしか顔を出さない、などと何の根拠もなくほざく元ちゃんの意見になど、全く注意を払う必要もなかった。
牧場の仕事は上手く分担されている。
朝夕の乳搾りの時には美佳さんと元ちゃんが主に乳を搾り、餌については牛の健康状態や搾乳量などを見ながら親方と慎さんが細かく調整する。
嶋さんや私たちライダーハウスの連中は主に糞の始末や子牛の世話などの雑用を担当する。
昼間は、美佳さんとパートのおばちゃんたちが工場で乳製品の製造を担当し、親方と慎さんを中心とした男連中は牛舎の掃除や畑仕事などに精を出す。
私が工場へ行くのはその多忙な仕事の合間を縫っての話なので、それ程長い時間でもない。
しかも、そんな時には慎さんがいることも多く、あまり歓迎されない。否、逆だ。私が慎さんをあまり歓迎しない。もちろんパートのおばちゃんも邪魔なのだが、これは仕方がない。
何とか美佳さんと二人になる時間を作ろうとするのだが、それはなかなか困難だった。
獣医さんが来て牛の種付けをしたり具合の悪い牛の治療をしたりするときには、慎さんと共に、勉強のため必ず嶋さんが立ち会う。その時が工場へアタックするチャンスであった。
幸い元ちゃんについては、朝夕以外は自分の家の仕事をしている事が多く、工場に顔を出すことは滅多にない。
その分、乳搾り時には必ずと言っていい程顔を出し、なるほどこれなら堂々とタダ酒を飲みに来るのも頷ける。
毎日工場へ出没し、商品開発用の機材を借りてイタズラのような事を始めてから、私はアイスクリーム作りの奥の深さに圧倒された。
厳選された材料と、常に一定の品質を得るための繊細な作業。
製造工程一つ一つでの徹底した温度管理。
想像を超える緻密な仕事に感激し、私のアイス愛は暴走を始めた。
それは完全なる理性の敗北。親方風に言うなら、アイス オア ナッシングである。
美佳さんがいようがいまいが関係なく寸暇を惜しんで工場へ入り浸り、しまいにはライダーハウスへ戻る事も忘れて工場に寝泊まりをして、乳製品作りに没頭した。
牧場の人たちはそんな私を放置して、好きなようにさせてくれた。一体何故だろう?
今から考えてみると確かに腑に落ちないが、当時は夢中で疑問にも思わなかった。
夜間誰もいない工場で一人アイスを作っていると、まさにこれが天職ではないかと思われて来る。
昼間も畑へ来ないでいいから工場で好きなようにやれ、と親方も慎さんも無責任な事を言う。
しかしアイス作りは趣味でやらせてもらっているのだから仕事は別と、私は頑なに拒絶して、意地になって昼間は外で汗を流した。
その頃から私の事は、皆にもアイスマンと呼ばれるようになった。
当時一般的にアイスマンという呼び名はヨーロッパアルプスの氷河で発見された男性のミイラを指すようであった。
幾ら私が相当に痩せているとはいえ、ミイラ男と呼ばれて良い気分になるわけがない。
そこに込められたそこはかとない悪意が感じられるようで、もっとマシな呼び名があろうと提案してみても、誰も受け入れてはくれなかった。
私はまず、素材の吟味を始めた。牧場にあるあらゆる材料を試し、味見をする。
毎日試作品を製造する中で、厨房にある複雑な機器の取り扱いも学んだ。
アイスクリームを構成する様々な要素、つまり原料となる牛乳の成分分析から始まり、糖度の調整、香りをつけるフレーバーなど、基礎的な部分を美佳さんから学んだ。
その間、高価なタヒチ産のバニラビーンズを大量に消費して美佳さんに絶句されたり、様々なフレーバーの組み合わせと焦がした水飴の異様な臭いで工場を満たし、周囲をパニックに陥らせたりした。
それはともかく、私のアイス研究は次の段階へ差し掛かりつつあった。
牧場のミルクを使ったアイスは確かに美味しいが、私の求める爽やかさが決定的に欠けている。
ヨーグルトの酸味にその解決を求めたが、それだけではもの足りない。
そこで私が目をつけたのが、フルーツだった。フレッシュフルーツを加えたアイスを色々試作してみたが、どうしても納得できない。果肉をそのまま使ったりジュースにして混ぜたり、ドライフルーツを使ってみたりもした。
岩手県の夏、旬の果物はブルーベリーとイチゴ。そして八月になり桃やブドウが出始めていた。
果汁を扱うにはまた別の新しい技が必要で、様々な製造技術についても美佳さんやパートのおばちゃんにしつこく教わった。
そうして手探りで大量のアイスを作っては、毎日牧場のみんなに味見をさせていた。
というのは表向きで、味見は私一人がすれば充分。他人の意見など聞く耳持たぬので、余った試作品の処分として皆の者に分け与えよう、というのが実は本音であった。
そんな私の邪心を見透かしたかのように、ついに親方の鉄槌が下る。
それとも連日の寝不足でふらふらになった私を見るに見かねてなのか、朝の仕事が終わると親方から母屋に呼び出された。
開口一番、夜寝てないんだろ、いい加減にしろ、と。これはつい調子に乗りすぎる私の欠点が出てしまったと瞬時に反省したのだが、時既に遅し。
「おまえは受験生なんだよな。いつまでここで遊んでるつもりだ?」
親方は渋い顔をしているが、怒りの色は薄い。
「昔、最初に慎が来た時も、ちょうど今のおまえみたいでな。あれはまだハイスクールボーイだったが、受験勉強が嫌で逃げ出して来たのよ」
そういえば、慎さんも元々旅人だったと本人が言っていた。
「その頃まだ咲が生まれて間もなくで、うちも手が足りなくてな。夏休みの間だけ住みこみで仕事をしてもらったのが、始まりだ。それからあいつは毎年夏にやって来て、そのうち秋になっても帰らずに、いつの間にか住みついちまった。その頃はうちも乳牛を飼う普通の
そこで親方は再び顔をあげて私を睨む。
「今も毎年のようにやって来る
親方は神妙な話し方になった。
「実は咲の
朝から晩まで大人に交じって仕事を手伝っている咲の姿を牧場のあちこちで見ている。
夜の工場にも時折顔を出して、私の作業を邪魔しないように黙ってじっと眺めていた。
声をかけると逃げ出すようにいなくなるので、私も黙って作業をしている事が多かった。
「ちょうど今はパートタイマーやアルバイトの人手も
そう言ってもう一度私をぎろりと睨む。これは最早、お願いという名の脅迫、依頼という名の強要である。小心者の私に断る事が出来ようか。
岩手県内の学校では、東京より五日程度夏休みが遅く始まり、十日も早く終わってしまうという。その分冬休みが長いらしいが、なんだか気の毒である。
その日から、私は母屋の二階で咲の勉強を見る事になった。
彼女は小学校六年生の難しい年頃である。先日の会食では少し話をする機会があったが、その後も特に親しくなれたわけではない。
牧場に出入りする若者たちとも積極的に話をすることもなく、どちらかと言えば避けているように見える。
慎さんに言わせると、二年前に母親を亡くしてから余計に人見知りになったとのこと。
今は祖母と美佳さんが一番の話相手であると言う。
元ちゃんは? と聞くと、年齢的に少し離れているために、近所にいても幼馴染という程には近くなく、かといってこれだけ長く出入りしているのでそれなりに話をすることもあって、何とも微妙な距離感があるらしい。
さて、小学校六年生の宿題とはどんなものか。
夏休みが短いので、それほど多くの宿題もあるまいと甘く見ていたのが失敗だった。
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