13 外れの世界
2008年。
この年は、北京でオリンピックが開催された。
人生のターニングポイントとなった十八歳の一人旅から実に、十二年の歳月が過ぎている。
では、次のターニングポイントが今年じゃなければ、一体いつなのだろうか?
もしかしたら、時空というのは私たちが漠然と信じている程、連続したものではないのかもしれない。
何気なく過ごしている日常生活の中でたまたま見逃しているだけで、実は非連続的な時空はあちらこちらで頻繁に現れては消えているのではなかろうか。
例えば私の寝室の片隅には、雑然と積み上げられた雑誌の山がある。昨夜までそこに埋もれていた筈の本が、ある日ふと何かの目的で探してみると、忽然と姿を消している。
捨てようと思ってなかなか捨てられなかった筈の物が、必要とした瞬間に行方不明となり、発見できない。これはもう、どこか違う時空の彼方へ消え去ったとしか言いようがないではないか。
例えば泥酔して家に帰った翌朝、熟睡から目覚めた時に感じる当惑。
いつもと同じ部屋で同じように目覚めた筈なのに、時折感じてしまうあの違和感の正体とは。
昨夜どうやって家に帰ったのかも記憶にない程痛飲した後に、一体何があったのだろうか。帰巣本能のみに頼り帰着したこの家は、本当に昨日まで自分の暮らしていた家と全く同じだろうか。
部屋の中を細かく観察してみよう。
吊るした覚えのないカレンダーが、壁に掛かっていたりしないだろうか。
コンピュータを立ち上げ、メールをチェックしよう。記憶にない人物からの、やけに親しげな私信が紛れこんでいないだろうか。あるいは、覚えのない受注確認メールが、ショッピングサイトから届いていないだろうか。
本当に、何も異常は見つからないだろうか?
さて、では他の部屋も見てみよう。
浴室に、自分の物ではない長い髪の毛が落ちてはいないだろうか。洗面所には、いる筈のない彼女の残して行った歯ブラシが、密かに置かれていたりしないだろうか。
そんな妄想をしながらどこかに落ちている幸運を探す程、私は悪趣味ではない。
しかし、昨夜の帰宅は本当にいつもと同じルートで帰って来たのだろうか。
深夜の最終電車からホームに降り立った時、もしくはこの部屋の鍵を開けた時、私は時空の裂け目を通過して、別の世界へ足を踏み入れてしまったのではなかろうか。
人間の注意力が極端に低下した時にのみ開かれる、異次元への通路。
それは、心の隙間と呼んでもいい。昨夜私の心には巨大な空隙が生じ、ついには時空の扉を開けてしまったのかもしれない。
目の前にあるドリームジャンボ宝くじの外れ券数十枚を前にして、私は考える。
来る日も来る日も朝から晩まで仕事に明け暮れて、なお且つ変わらぬ貧乏暮らしに甘んじているのは、きっとこの時空が本来私のいるべき世界ではないからであろう。
昨夜当選を勝手に確信し前祝いにと飲んだ酒の後、自分が本来一等賞を獲るべき次元からスリップアウトして、この外れの世界へ追いやられてしまったのだ。
私の受け取るべき当選金は、きっとどこか別の時空の私、もしくは幸運なる赤の他人が手にしているに違いない。
そう考えないと、今のこの報われない境遇の説明が、どうしてもつかない。
宝くじが当選したら世界一周旅行へ出かけるつもりで用意していたパスポートを箪笥の奥へ片付け、私は愛車に日本地図を積み直した。
数年前に車好きの知人から譲り受けた小型車は、久々の始動にも関わらず機嫌良く目覚めてくれた。
では、長期休暇を楽しむとしよう。
ついに三十路に足を踏み入れた記念の、十二年ぶりの一人旅である。
宝くじの抽選から一週間後、やっと仕事がひと段落して休暇が取れた。
その間敢えて番号を見ず、仕事に追われながらも当選金の使い道をあれこれと夢想しては、一人ニヤついていた。その結果がこれである。
パスポートを用意していたのは多忙な中にも夢を忘れず持ちたい、という気持ちの拙い表現方法の一つで、車で旅する準備にも怠りはなかった。
車についてはひと月程前に車検を通して以来、一度も乗っていない。その時ついでにカーナビの地図を最新版にアップデートした程度が旅支度と言えるかどうか。
自動車マニアで有名な知人が乗っていた車なので普通の車ではないらしいが、私にはよくわからない。
ヨーロッパの小型車だが右ハンドル仕様で、運転には特別なスキルを要求されることも無かった。ひとつだけ困るとすれば、コンパクトにまとまったボディには似合わぬ強力なパワーを持ち、意外なじゃじゃ馬娘である。
とはいえいわゆるスーパーカーではないので、それほど神経をすり減らさずに運転できるレベルでの話であるが。
無闇と一人旅を憧れる年齢ではないので、車で目的のない旅を続ければ何れ孤独感に耐えかね、人恋しくなるであろうことは容易に想像できる。
それでも最初の二・三日はただただ疲れを癒し、四・五日目には解放感を喜び、その後さらに二・三日は黙して思索にふけることだろう。
要するに、一週間程度なら何事も無く気楽に過ごせるだろうと思っていた。
旅に出てその一週間がいとも簡単に過ぎ去り、平和で静かな時は過ぎていく。
梅雨時のぐずついた天候にもかかわらず人も車も快調で、何となく雨雲を避けながら移動する旅路は当初西へ向いていたのだが、梅雨前線に追われるうちに迷走し、いつの間にやら北へ北へと進路を変えていた。
温泉から温泉へと渡り歩くのを基本としているので、一日の移動距離は多かったり少なかったり、いい加減な旅である。高速道路を使ったのは初日だけで、他は一般道をうろうろしながら、土地土地の美味い物など探して歩いた。
観光客の少ない時期で、営業している限りは何れの宿でもお店でも、なかなかの歓迎を受ける。その分、行く先々で店が閉じていて寂しい思いをすることも多いのは仕方がない。
のんびりとした店内では、普段は食べられないような珍しい物が給仕されたり、店主の楽しい話が聞けたりと、サービスには期待が持てる。
孤独感に浸っている暇は、実はあまりなかったりした。
そうした毎日の僅かな触れ合いが、荒んだ心を少しずつ和らげてくれる。これぞ旅の醍醐味である、などと旅番組のレポーターになったような気分である。
二泊した海辺の民宿を出て狭い国道を山に向かい、途中の町で遅い昼食を食べた。
食後の眠い目をこすり、気合を入れて次の町へ向かう。車は町外れで国道から逸れ、舗装の真新しい県道を登り始めた。
なだらかなワインディングロードの先に、堆積する埃のような雲が低く垂れこめている。
道行きには雨が予想されるが、本日予約した温泉宿は行く手の山を越えた先にあるのだ。
峠の向こうは晴れている事を祈り、慎重に進む。オーディオの音量を少し上げて眠気を吹き飛ばし、気持ちを鼓舞する。
徐々に傾斜の強くなる山道を進むうち空が暗くなり、予想通り雨が落ちて来た。
ほぼ同時に道幅が狭くなり、舗装が荒れて来る。日が暮れるにはまだまだ早い時間だが、夜のように暗い森の中、ライトを点けて走った。
峠まで、視界の悪く狭い山道を一時間ばかり走っただろうか。急に明るく開けた広場に、自販機と公衆トイレがあった。
ペンキの剥げかけた大きな観光案内板の前に車を止め、外に出る。いつの間にか雨も上がっていた。峠の向こう側は明るい。この先、天候は回復するのだろうか。
飲料の自販機が置いてあるのだから、こんな山の中にも電気が来ているのだ。
動いているのか心配になるような薄汚れた自販機にコインを入れると、ちゃんと冷たい緑茶が出て来た。さすがに治安の良い日本である。海外旅行じゃこうはいかないだろう。
満足げに背伸びをして腰を伸ばし、峠を一人占めするティーブレイクである。
上空を霧が流れ、真っ白な空がぼんやりと明るい。雨に濡れて余計にみすぼらしい案内板の周辺地図を見上げる。
出羽三山に近い無名の峠道だが、元々は古くからの街道であったらしい。すり減った石碑や石仏の類が幾つか、駐車場の隅に密やかに鎮座している。
パワースポットと呼ぶのだろうか。
何やら神秘的な力を感じるような気がしなくもない。無信心な私がそんな風に感じるのは、恐らく山の斜面から這い降りて来る霧のせいなのだろう。
登って来た時よりも霧が濃くなっているような気がして、不安が少しだけ胸をよぎる。交通量のないこの道なら、霧の中でも対向車にさほど気を使わずに降りられるだろう。そういえば、ここまで登る道すがら、すれ違った車は一台もなかった。
早くこの山を下りてしまいたいという弱気な思いが芽生えるが、それに抗い私は敢えてのんびりとお茶を飲み、駐車場をぶらぶら歩いた。その間も、通過する車は全くいない。
後方で急にガサガサと音がして振り向くと、道路の反対側の崖を降りて来る黒い影が見えた。息を呑んで身構えると、その影も路上で動きを止めた。
若い牛程の褐色の毛並みに埋もれた黒い瞳が、こちらを真直ぐ見ている。
カモシカだった。
特別天然記念物のニホンカモシカの丸くもっさりとした胴体は実はふっくらとした毛並みで、中には強靭な筋肉を隠し持つ事を私は知っている。
しかし目の前にいる生き物は足だけが異様に細く見え、そのバランスの悪さが際立っている。まるで出来の悪い子供の絵を見ているようで、冗談みたいな姿である。
私はそっと後ずさりして車のドアを開け、カメラを取り出した。ドアの開く小さな音にカモシカは飛び上がって横に二、三歩移動したが、まだこちらを見ている。
私はカメラを腰の高さで構えたままモニターだけを上に向けた。そっとレンズを向けてズームする。連写で数枚撮ると、その小さな音にまた飛び上がり、数歩分横へ逃げる。
その距離を詰めるべく私も数歩前に出る。すると再び数歩横へ逃げて、それでも首だけを曲げてこちらを見ている。私もまた数歩前へ出てシャッターを切る。
以前一度だけ信州の山中でニホンカモシカを見たことがあったが、それは目の前を走って横切っただけの一瞬の出来事だった。
こんなに間近でじっくりと見るのは初めてだ。
カモシカを追い道に出て、そのまま夢中でモニター画面を覗きながら少しずつ坂道を下る。二、三分もそうした緊張感が続いたろうか。
やがて追いかけっこに飽きたのか、カモシカは私を嘲るように身を翻し、信じられないような角度で落ち込む崖下へと消えた。人間であればほとんど自殺行為。落ちれば即死間違いなしと思われる、岩だらけの急斜面であった。
細かい岩の欠片が散らばるアスファルト道路を登り返しながら、今まで見ていた動物が知り合いの誰かに似ている気がして考え込んでいた。
車の場所まで戻っても心中のモヤモヤは晴れず、運転席のシートを倒して横になり、車の天井にある窓を開けて空を見上げた。
霧の流れる白い空にカモシカの姿を思い描く。ずんぐりとした背の低い体に細い足。色黒の顔に好奇心いっぱいの黒い瞳。なかなかユニークな人物像が想像されるが、しかしどうしてもそれがどんな人物のイメージと重なるのか、思い出せない。
私は目を閉じて、思い出したくもない過去にうっかり辿りつかぬ程度に、考えてみた。
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