15 極上のアイス再び



 車の電装系にトラブルがあり、部品の交換に三日を費やした。その間に汚れた服を洗い、周辺の山々の事など調べたりしてみたが、何の収穫もなかった。


 まさかマリリン・モンローの出没する池があるかとも人に聞けない。それとなく色々尋ねたり、地元の民話や伝説など当たってみたが、何もない。


 例え真実の話としても、さすがにそんな奇想天外でアホな話を他人が信じるわけもなく、一笑に付されて人の噂に残る事もないのだろう。


 こうして有史以来数多くの有用な情報が、人々の前から姿を消してきたに違いない。マリリンとの出会いが、どの程度有用な情報であるかは知らぬが。


 暇にまかせて峠で出会ったカモシカのそっくりさんが誰であったのか考えるうちに、ようやく思い当たる顔が頭に浮かんだ。



 その人物は朝霧広美という女優のように美しい名を持つ悪鬼羅刹の如き中年男で、数年前まで一緒に仕事をしていた。


 その頃、彼の所業により私は度々窮地に陥り、幾度か死ぬような目にあった。


 まさに人の生血を啜る吸血鬼のような男で、言葉巧みに私に近付き甘い声で煽てた揚句、こちらがその気になれば次に人並以下の獣と罵られた。


 様々な教えを頂戴することも多かったが、概ね一度力強く励まされると次の九回は徹底的に罵倒されることが常だった。


 その怪しい風貌とは裏腹、朝霧は仕事においては甚だ優秀な男で、悔しいが今の私があるのは彼のおかげとも言える人生の恩人であった。


 そんな重要な人物を何故すぐに思い浮かべる事が出来なかったのかというと、最近は滅多に会う機会がなかったためである。


 数年前に会社を辞めて独立した彼とは、その後幸か不幸か一緒に仕事をする機会を失っていた。思い起こしてみれば、彼の姿はまさにあのニホンカモシカそのままである。


 色黒の丸顔に中年太りのずんぐりとした体つき。好奇心旺盛な黒い瞳を見開いて、意外に細い足でフットワーク軽くあちらこちらへと動き回る。


 昼間の露天風呂に浸かりながら、私は懐かしい思いを噛みしめていた。



 湯あがりに自販機で買った缶ビールを飲み、部屋の窓際に座り思い出の余韻に浸る。


 更に記憶を遡るうちに、どうしても十二年前のあの無茶苦茶だった旅の記憶が蘇る。


 思えば、今の私があるのはまさにあの旅のおかげである。それは、かの朝霧広美の存在など軽く消し飛ぶような重要で貴重な経験であった。


 さすがにここ数年は多忙に紛れて、旅の記憶が表層へ昇りくることも滅多にない。しかし何かのきっかけであの頃の事を思い出すと、思春期の少女にように胸がざわめき、苦しくなるのを感じる。


 まあ、私が思春期の少女であった時代は記憶にないので、そう感じる心の内はきっと前世からの何か因縁であろう。


 車の修理待ちの三日間、そんな事を考えて小さな胸を痛めていると、無性にあの頃の旅路を辿ってみたくなった。


 今度の出発にあたり、その事を全く考えなかった訳ではないが、それではあまりに芸のない話である。


 久しぶりの長期休暇なのだから、未知なる土地に未知なる出会いを求めて旅立つのが男のロマンではないか。


 まあしかし、三日間の停滞で、未知なる土地にもいささか飽きた。


 観光の季節を外れた温泉で、胸のときめくような素敵な出会いがあるわけでもなく、ただ湯に浸かって酒杯を傾けるだけの日々である。



 あの旅で出会った人たちとは何年か手紙のやり取りなどしていたのだが、結局再訪は叶わなかった。


 悪い事に、数年前に暮らしていたアパートが隣家からの延焼で火事になり、家財道具一切が丸焼けになってしまった。


 留守中の出来事で私自身には何の被害もなかったのだが、古くからの写真や友人のアドレスなど、大切なものを数多く失くしてしまった。


 私は元々家の中に大切なものを数多く保管したがる習性があったので、そのショックは計り知れなかった。一時はかなり絶望的な気持ちになったものである。


 ただ、私の精神は幾らか打たれ強くなっていたもので、以前大学受験に失敗した時のような自暴自棄に陥ることもなかった。


 カモシカのような中年男、朝霧広美の助力で何とか生活を立て直し、更に尻を叩かれまくり、ただひたすら仕事に追われて多忙な日々を過ごすうちに失った多くの物と、多くの夢を忘れた。



 大切なものが家から溢れる度に引っ越しを繰り返し、多忙を言い訳に知人との連絡も途切れがちで、学生時代の友人にも連絡先のわからぬ者が多数いる。


 旅先で出会った人々との連絡が滞るのは当然と言えば当然。あれだけ御世話になった方々に対し甚だ礼節を欠く結果となったことはとても心苦しく、小さな胸を痛めるのも当然の帰結である。


 結局当時の記憶を頼りに十二年前の足跡を追う旅になりそうだった。


 十二年の歳月は多くの物を変えてしまっている事だろう。そう思うと、恐ろしい。


 私自身も多くの物を失い、幾ばくかの糧を得た。恐らくは私自身が多くの美点を喪失し、一番醜く変わってしまったのだろうと、自虐的な考えが身に着いていた。



 ひと山越えて日本海に出れば、キャンプ場は近い筈だ。


 防風林の松林を探してゆっくり車を走らせるが、それらしき場所が見当たらない。海辺の松林は幾つか見かけたが、キャンプ場は目に入らなかった。いつの間にやら車は県境を越え、山形から秋田に入っていた。


 あの時の旅を忠実に辿る必要はどこにもないのだけれど、私はそのまま車を日本海沿いに北上させ、男鹿半島の先端、入道崎に来ていた。


 午後になり、空はどんよりと暗い。再び雨雲が背後に迫り、出来る事ならこのまま北海道までひとっ走りしたいところである。


 せっかく来たのだからと岬の灯台を眺め、昔を懐かしむ。が、あの辛かった夜を偲ぶには、昼間の観光地はあまりにも変貌が激しかった。


 あの時私が一夜を過ごした自販機前のベンチは一体どの辺りであったのか、見当もつかない。ここでも一抹の寂しさを感じ、私は先を急ぐ。


 その日私は夜まで一気に走り、盛岡市内の安ホテルへチェックインした。

 十二年前の敵討ちをすべく、私の胃袋はピンポイントでわんこそばにターゲットを絞っていた。


 ところが、いざ店で対峙してみれば、三十路の腹には蕎麦ですらそう入るものではない。完全に返り討ちに会い意気消沈した私は、帰り道で憂さ晴らしにと無理矢理ガリガリ君ソーダ味を買い求めた。しかしそれも裏目に出る。


 深夜に目が覚めると、嫌な胸やけがして甘いおくびを繰り返し、心底閉口した。



 翌朝、針のような雨が街を静かに濡らしていた。事前情報を敢えて求めず、私は牧場を目指す。


 昔バスで走った細く曲がりくねった山道は驚く程広くなり、滑らかな舗装へと改修されていた。小雨の煙る中を快適に飛ばしていると、やがて路線バスを先頭に数台の車が連なる車列に追いついてしまった。


 いかに良き道が続こうと、こればかりはどうにもならぬ。芋虫の行列は次第に長さを増し細長いロープのように連なり、やっとの思いで懐かしい道の駅へ辿り着いた。


 道の駅周辺は建物が増えて、観光基地の中核を担うに足る町並みに変貌している。しかしその中心にある建物は昔と変わらぬ佇まいで、そのまま年月の経過を思わせる痛み具合である。


 生憎の天候だが地元ナンバーの車で駐車場は混み合っていた。なるべく建物の入口に近い場所を見つけて車を停めると、傘を持たずに小走りで建物へ向かった。


 そのままの勢いで入口を通り抜けようとするが、外側の自動ドアが開くのが一瞬遅く、ガラスドアに顔を突っ込みそうになり慌てた。


 軋みつつ、嫌々開く扉には施設の老朽化を痛切に感じる。再び微かな悲哀の感情が生まれる。



 心を落ち着かせて、そこから速度を緩め内側のもう一枚の自動ドアを抜ける。昔と同じ観光案内所のカウンターに、相変わらず退屈そうな表情の若い受付嬢がこちらを興味なさそうにちらりと見た。


 私はそこを素通りして、奥の売店へ向かう。建物の外観は昔のままであったが、内部は随分とその様相を変えている事に気付いた。


 以前婆さんたちが店を出していた一角は外部に開いた大きなテラスが繋がり、地物の野菜や名産品のコーナーとなって生まれ変わっていた。


 買い物客で賑わう市場の一角には私の気になるアイスクリームのコーナーがあり、昔懐かしいラ・フランスの棒アイスが売られていた。


 私は十二年ぶりに極上のアイスを買い求め、テラスの隅に置かれた木のベンチに腰を下ろした。


 薄い天幕の下、湿った木材の感触を尻に感じながらも、私の心はアイス一筋に向かって集中する。期待を込めて袋を破り、その味を確かめる。


 なるほど。記憶と変わらぬその舌触りと芳香に夢中になり、我に返るとすっかり食べ尽くしていた。


 こんなに夢中でアイスを食べたのは何年振りだろう。右手に残った平たく薄い木の棒を見つめて、私は不思議な感覚に襲われる。



 あの頃、私は何かに取り憑かれたようにアイスのことばかり考えていた。当時は現実逃避以外の何物でもないと理解していたのだが、それでも異常なのめり込み方であった。


 あの時の全精力を傾けた現実逃避が、皮肉にもその後の進路を切り開くきっかけとなろうとは。


 ところで私は、いつからアイスへの情熱を失ったのだろう。あの夏牧場を出たその時か、ここで極上のアイスを食べた後なのか。


 東京へ帰った後はどうだったのだろう。残暑の厳しい夏だった。受験勉強を再開して、やはりアイスを毎日食べていただろうか。


 無事に大学へ合格した春、私はまだガリガリ君を食べていただろうか。


 全てが曖昧で、記憶は陽炎のように揺らめく。新たな生活に一歩踏み出したあの頃の思い出は、真夏のアスファルトに浮かぶ逃げ水のように儚く、捉えきれない。


 あの旅の後、新しく芽生えた情熱は形を変えてはいるが、常に私の中核に残っている。その原型が、あの時夢中になったアイス造りだった。何故今まで忘れていたのだろう。


 この調子で、あの懐かしいアイスマン一号と二号に巡り合えるのだろうか。


 逸る心を抑えて、席を立った。



  

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