19 専務



 翌朝一階のレストランで朝食をとっていると、食事の終わるころを見計らって深雪ちゃんが私の席にやって来た。


「会長が十時頃にまいりますので、ロビーでお待ちくださるようにとのことです」


 深雪ちゃんは極めて事務的にそれだけ伝えて、さっさと帰ろうとする。が、せっかくの機会なのでそれだけで終わらせるのはもったいないではないか。


「君はいつからここで働いてるの?」


 深雪ちゃんは素早く振り返り、私の顔を真直ぐに見る。


「入社は四年前で、主にレストランで働いていました。昨年から、新しく出来たこのロッジに配属されています」


 社長や会長の古くからの知り合いという私の事に、満更興味がないというわけでもないようだ。


 多少は話を続けようとする気もあるように思えるが、口調がまだ固い。これではまだ少し足りない。


「じゃあ、まだ二十二歳か」


 大学出の二十六歳には見えなかった。私は一気にその懐へ潜る。彼女はその奇襲に可愛い顔を赤くして、小さな声で「はい」と答える。


「あの……あなたが、幻のアイスを作った人なんですか?」

 おっと、意外にも反撃が早い。



「ああ、随分昔の話だよ」


 私は変な期待を持たれぬよう、そっけなく返す。しかしなかなか深雪ちゃんも手強い。


「私も高校生の時に、食べました。とってもおいしかった。あれを、もう一度作れませんか?」


 なかなかの切り込みである。


「ああ、それで大変な事になっているらしいね。でもそんなに簡単なことじゃないんだ。

 確かに元になるレシピは俺が作ったけど、ほとんど手作りだったからね。製品化には安定した味を作るために沢山のデータが必要なんだ。

 あの時は既にある程度出来ていたマシンの設定やアイスクリームの味、ヨーグルトの風味などを基準にしてそれを作った。

 けれど、昨日食べたここのアイスやヨーグルトは、確かにとてもおいしいんだけれど、それは当時とは全くの別物だった。

 そこから昔の味を再現するなんて、簡単に出来ることじゃないさ。それなら完全に新しく作るしかない。古いものに拘らずにね。元ちゃんも嶋さんも、そこはわかっているんだろ?」


 深雪ちゃんは哀しげな顔をして、首を傾げる。肩の上で、真直ぐな黒髪が揺れた。


「さあ、私にはそこまで……」


 他の客が見ているので、この辺で終わりにしよう。私はご馳走様と言って席を立つ。深雪ちゃんも自分の仕事に戻った。



 十時頃、という微妙な時間設定であったが、そこは親方のこと、十時きっかりに車椅子がロビーへ滑り込んで来た。


 それから場内を隅から隅まで歩くツアーが始まった。昨日とは打って変わって、青空が見えて良い天気である。


 その分歩いているだけで額に汗が滲む。痩せて見えるが親方はとにかくタフである。ぼやぼやしていると、一人でどんどん先へ行ってしまう。


 そんなところも昔のままのような気がする。


 もっとも、以前この役目は慎さんがしてくれたため、親方とこんな風に二人で歩いた記憶はあまりない。


 親方の変わったことと言えば、話し言葉に昔程英語が混じらなくなった事くらいか。それについては、おかげで随分と話しやすくなった。


 観光客の入れるエリアは後でゆっくり見ろと言われて、主にバックヤードを案内された。驚く事に、バックヤードもほぼバリアフリー化されていて、親方の移動に困ることはない。



 チーズ工場を見学中に、部屋の奥で元ちゃんと嶋さんが深刻な顔で話しているのを見かけた。


 ここで作られた食肉加工品や乳製品は、直接全国へ発送されている。そのうちの幾つかは昨日の食事で口にしていたが、実際に見るとこんなにも多くの製品を手掛けているのかと驚かされる。


 この位多様な製品群があれば、今更アイスマンなどに拘る必要などないのではと思うが、違うのだろうか。


 場内を巡るうちに、親方から色々な話を聞いた。


 嶋さんは結局大学卒業後そのままここで仕事を続け、六年前の事故からの復興には重要な役割を果たして来た。二年前に牧場で働く女性と結婚し、昨年子供も生まれたらしい。


 元ちゃんはまだ独身だが、今年の観光シーズン終了後にはいよいよ咲と結婚することになったらしい。


 親方はその事をひときわ嬉しそうに語る。


 早く孫の顔が見たいんでしょうねと、私は親方の言葉に頷く。この人たちにはもっと早くそういった人並の幸福を享受する権利がある。



 あの痩せて小さかった咲が、もうそんな年齢になったかと不思議に思う。


 元ちゃんは学年では私より一つ下だが、この夏で私と同じ三十歳になる筈だ。


 そろそろ身を固めてもいい。私は自分のことはさておき、心よりそう思う。


 近藤さんは今では独立して、町で小さなレストランを営業している。別居していた奥様と、一人娘が手伝っているらしい。


 昼食は、工場の二階にある社員食堂でご馳走になった。本当は元や咲や嶋たち全員で歓迎の宴を持ちたいところだが、今はどうもそんな雰囲気じゃなくてな、と申し訳なさそうに親方は言う。


 だが、私も今の状況では元ちゃんに合わす顔などないというのが正直なところ。


 変に気を遣われてもかえって困る。私も昨日朝霧に聞いたことを簡単に説明したが、言い訳がましいので多くを語る気にはなれなかった。



 午後になってからロッジへ帰ると、フロントで深雪ちゃんが興味深々で待ち構えていた。


「いかがでしたか、場内見学は?」

 いたずらっぽい目が笑っている。


「ああ、社員食堂の飯が美味くてびっくりした。とんでもなく贅沢なもんを毎日食べているんだな、君たちは。許せん」

 私は敢えて厳しい目をして言った。


「それならいっそのこと、ここで働きませんか? 毎日美味しいご飯が食べられますよ」


「うーん、それが出来れば苦労はないんだが、貧乏暇なしでね」

 私は帰ってからの仕事を思うと、うんざりした気分になる。


「社長のことを、元ちゃんと呼んでいましたよね」

 深雪ちゃんが話題を変える。


「うん。みんなそうじゃないの?」


「いえ、そんなこと言えませんよ。社長は社長です」


「へえ、元ちゃんも偉くなったもんだ」


「今では社長のことを元ちゃんと呼ぶのは、会長と専務だけです」


「へえ、嶋さんは専務なんだ」


 私は急に声を潜めて話し始めた深雪ちゃんに引き込まれて、身を乗り出す。


「違いますよ。専務は、咲さんです」



 驚きである。咲が、専務取締役だと?


「じゃあ、嶋さんは?」


「嶋さんは、加工品の工場長です。嶋さんも私が入社した頃は元ちゃんと呼んでいましたが、最近は若い従業員も増えたので人前では決してそう呼びません。その頃は工場の人たちもまだみんな、普通に元ちゃんて呼んでいたのに」


 ほう、嶋さんも苦労しているんだ。


「でも、私はみんなが元ちゃんと呼んでいた頃の社長が好きだった。今の社長は、何か変。だからあなたが来た時、ちょっと期待してしまったんです」


 なるほど。そのくらい、今は会社組織の規律を守ることが重要ってことね。


「つまり、深雪ちゃんは元ちゃんが好きだってことね」

 私はあっけらかんと言い放つ。


「社長のことを嫌いな人なんていません」

 予想通り、深雪ちゃんは顔を赤らめて私を睨む。


「あれ、社長は好きじゃないけど元ちゃんは好きだったってことじゃないの?」


「そういう意味じゃなくて、前の方が牧場の雰囲気が良かったという話です」


 またまた、なるほど。


「嶋さんは子供も生まれて新しい家族ができたけれど、社長には家族がいません。今では元ちゃんと呼んでくれる会長と専務だけが、唯一家族と呼べる存在なのかもしれません。

 でも、以前は違ったんです。ここで働くみんなが親しげに元ちゃんと呼んで、家族みたいに思っていたんです。今でも私たちは元ちゃんと呼びたい。だって私たちは社長のことを家族みたいに思っているのだから」


 深雪ちゃんの熱弁には感じる物があった。


「じゃあ、みんなが元ちゃんて呼べるようにすればいいじゃないか?」


 深雪ちゃんは馬鹿にしたような目で私を睨むが、気にせず私はちょっと待っててと言い残して部屋に帰った。



 軽い気持ちで、少し深雪ちゃんをからかってやろうかと思っただけだ。私は荷物の中から筆入れと一番大きなスケッチブックを掴み、フロントへ戻る。


 スケッチブックを広げると、目の前で油性ペンを取り出す。そこに昔、咲の宿題を手伝いながら描いたように農夫の姿をした元ちゃんの似顔絵を大きく描いて、吹き出しをつけた。


 久しぶりに描いたにしては、我ながら良い出来だ。間抜け顔の農夫は昔よりちょっぴり歳をくったが、相変わらず愛嬌のある憎めないキャラクターに仕上がった。


『みんな、山猫高原牧場の、元ちゃんと呼んでね!』と適当なセリフを入れてその絵を仕上げる。


 すぐ次の紙に、もう少し小さな元ちゃんと牧場の建物や動物たちを描いて、山猫高原牧場のポスター風の絵を仕上げた。


 三枚目には、昔懐かしのアイスマンを、思い出しながら描いてみた。


 ほんの数分で絵を仕上げ、三枚の紙を引きちぎって深雪ちゃんに手渡す。


「ほら、牧場のマスコットキャラクターができたぞ。これを宣伝に使って人気者になれば、みんなが普通に元ちゃんと呼ぶようになる」


 深雪ちゃんは、目を丸くして紙を受け取る。



「あなた、一体何者ですか?」


「通りすがりの、ただのアイスマンさ」


 昔、咲の勉強を見ていた時に描いた一枚の絵が、私の人生を変えた。あの気難しかった咲が、あれをきっかけに本来の明るい少女に戻った。


 あの時、アイスマンのパッケージをデザインしながら、そんな奇跡のような力に私は魅了された。


 あれから東京へ帰り、私はグラフィックデザインを志した。結局、大学のデザイン科へ進み、そこでデザイン全般を学ぶことになるのだが。


 その私の原点が、ここにあるのだ。


「ちょっと、宣伝部へ掛けあってきます」

 深雪ちゃんは胸を張り力強く宣言すると、フロントの留守番を頼むために、受話器を取り上げた。


 急展開に、私はやや慌てる。


「大丈夫? 元ちゃんの妨害が入るんじゃないの?」

 冗談のつもりで描いた私が逆に不安になり、冷や汗をかく羽目になった。



 深雪ちゃんは、私が怖気づく程の気合いである。


「平気です。宣伝部は例のネットでの失態後、この春から専務の直轄部署になっています」


「専務直轄? それは頼もしい」


 そう、咲である。確かに、あの頑固で強情な咲なら、元ちゃんを押し切れるかもしれない。


 そう考えながらも、昨日ちらっと見た咲の思いつめたような表情を思い出し、私の不安は増大する。


 それでも、最早私に深雪ちゃんを止める力は無い。ただ黙って為す術も無く、大股で歩き去る美女を見送った。


 私はそのまま部屋へ帰り、車のキーを持って外出した。午後の時間は山猫高原の全体像を確かめるべく、周辺のドライブに時間を費やした。



  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る