27 根性なし
その日、予備校の授業がなく、咲が思ったより早く帰って来た。
咲は今朝車の中で交わした入試の話を早く親方にしたくて、仕方ないようだった。
さっさと試食を切り上げて、夜の仕事を終わらせようと我々を工場から追いたてる。
美佳さんも慎さんも苦笑して咲に従う。昔と変わらず皆さん仲が良くて何よりである。
晩御飯の席で、咲は父親に朝の話をしたが、あまり芳しい返事は聞けなかった。二人は微妙にすれ違う話題に苛立ちながらも、あくまで事務的な話しぶりで終始する。
私はほとんど何も言えずに、黙って聞いているしかなかった。
その夜、私は親方と二人で話し合った。そして、色々な事を親方の口から聞いた。
咲の進学については、親方には本当にわからないようだ。
彼女が何故東京へ行きたいのか。目指す学校がどんな所で、そこで何をしたいのか。本当に入れる学力があるのか。東京でどうやって暮らすのか。その前に、受験をどうするのか。
私は車の中で咲と話した事を伝えた。そして、ここにいる間にもう少し咲をよく見て、そして話を聞き、親方の答えに近づきたいと答えた。
それからもっと色々な話を聞いた。亡くなった奥さんのこと。母親であるアサさんのこと。この牧場を始めた父親のこと。
慎さんと美佳さんが来たばかりの若い頃の話。元ちゃんや浅川牧場の家族のこと。嶋さんや毎年夏に来るオートバイ乗りたちのこと。そして親方自身のこと。
私も、自分自身のことを話した。
希有な幸運に恵まれて今の自分があること。好きな絵を描いて暮らしていける喜びと将来への大きな不安。そして仕事を通じて知り合った愉快な仲間たちについて。
土曜日、悪天候は続く。横殴りの雨に負けぬようスタッフはバーベキュー場の風上にビニールシートを張る作業に忙しい。
昼前に観光バスの団体が来るころには大荒れの天気になっていたが、寒くはないのでそれなりに野性的な食事に満足してもらえたようだった。
雨の日サービスとして特別に提供したチーズケーキが好評で、土産にも良く売れて美佳さんは満足そうであった。
こんな日でも土曜日なので、ライダーハウスへ来るバイクも何台かいて、賑わっていた。中には牧場の仕事を手伝う常連客もいて、元ちゃんは張り切っている。
私は結局咲の勉強を見ながら折々で仕事も手伝い、午後には例によって恐怖の試食タイムが待っていた。
この日、私が食べたのはソーセージ五種類とソフトクリーム五種類、焼き菓子二種類。みんな少しずつだが、単に美味い、という感想は無視されるので何か言わねばならない。
グルメレポーターになった気分だ。いい加減にしてほしい。スタッフたちもみんな食べているんでしょ。
もういいではないか、と何度も言った。だが、二人は納得しない。恐ろしい人たちである。
休日にはアルバイトの高校生も何人か手伝いに来ていて、売店やレストランで働いている。
その中にとびきり可愛い女の子がいて、元ちゃんと私は一目見てから気になって仕方がない。
昔、二人揃って美佳さんに熱を上げていた事を思い出して笑うが、心の中では穏やかではない。
翌日の日曜もやはり雨だった。午後に団体客が帰ると暇で、嶋さんと元ちゃんと三人で連れ立ち、近藤さんのレストランで遅い昼食をとることにした。
レストランに入ると、隣の売店では件の美少女が一人で店番をしているのが見えた。
これはチャンスである。
私はいたずら心が抑えられず、「ちょっと声掛けて来る」と言って売店へ行こうとすると、元ちゃんが腕を掴んで引き戻す。
「駄目だよ、俺が行く」そう言う元ちゃんから腕を振り払い、「俺が先だ」と踏み出す。
「行かせないぜ。俺が行くんだ」と、更に元ちゃんが私の肩に手を掛ける。全くなんて馬鹿力だ。
そうして二人で押し問答をしていると、嶋さんが間に入り、では勝負をしろ、という事になった。
勝負に勝った方が、売店のレジにいる彼女に声をかける権利を得るというのだ。アホらしいが、暇潰しにはちょうどいい。
勝負といっても、他愛の無いものである。
近藤さんのレストランで一番量の多い、『ジャンボチーズオムカレー』を、どちらが早く食べ切るか、である。
近藤さんも暇なので、いつもより多くしておいたからと、とんでもない量のオムライスを皿に盛り、濃厚なビーフカレーをたっぷりとかけた。
大汗をかいて、熱いカレーを掻き込み、涙を流しながら米粒をスプーンで口へ運ぶ。水はコップに一杯しか飲めない。前半は私がリードしていたが、コップの水を先に飲み干した時点で明暗が分かれ、逆転された。
勝負は非情なもので、顔中カレーまみれにして必死に追いすがるも、健闘空しく私は敗れた。
腹は苦しいし、溶けたチーズで口の中を火傷するし、ロクなことがない。
追い打ちをかけるように、近藤さんが負けた私に二人分の代金を払えと迫る。
元ちゃんは派手にガッツポーズをして、スキップで売店へ向かった。
売店へ突撃した元ちゃんを見ようと、我々三人は厨房から売店の裏、つまりレジの後方へと潜り込み、こっそり盗み見をしていた。
レストランと売店は同じ建物にあるので、扉一枚で繋がっている。元ちゃんはその扉から売場へと入った。
しかし問題の美少女の後姿は見えているのだが、肝心の元ちゃんの姿が見えない。
どうしたのかと思っていると、所在無げにレジの前を素通りする元ちゃんが見えた。
「あいつ、声かけられないんだよ。根性無しが」
嶋さんが吹き出しそうになるのを我慢して切れ切れに言う。
幾度かレジの前を行き来した元ちゃんは、レジに背を向けて立ち止まり、棚から商品を取り上げては無意味に眺めている。
「あいつ、客もいないのに万引きGメンみたいなことしてるぞ」
近藤さんが呟くと、「俺には万引き犯そのものに見えるけどな」と嶋さんが言う。
三人で不審な行動を観察しながら、笑いを堪えるのに必死だった。
やっと意を決して元ちゃんは、レジに向き直る。彼は牧場のスタッフジャンパーを着ていかめしい顔をしているが、その顔は緊張で青ざめている。
「やあ、売れてる?」
元ちゃんの間抜け声が聞こえて、我々はまた大声で笑いそうになる。
「売れる訳ないよ。一人も客がいないんだから」嶋さんが小さな声で突っ込みを入れて、小さく笑う。
「今日は暇ですね。さっきの団体客がチーズケーキをたくさん買ってくれましたけど」
レジの少女は不審人物の問いにも、しっかりと答えている。
「ああ、そう」
そこで元ちゃんはいやらしい顔で彼女の胸元に視線を送る。ネームプレートを見ようとしているのだろうが、わざとらしく目が泳いでいて、完全に変質者の目付きである。
「林さん、高校生だよね」
「はい、一年生です」
高校一年生にしてはしっかりした子だ。三年の咲よりも、大人に見えるではないか。
「そうか。卒業したら、うちで働かない? 君はいいスタッフになると思うな」
何を言っているんだ、元ちゃんは。
しかし少女はぴくりと反応して体に力を入れ、嬉しそうな声を出した。
「はい、その時はよろしくお願いします」
「じゃあ、頑張ってね」
それだけで、元ちゃんは喜色満面レストランに戻ってきた。
我々はついに我慢できず、裏口から外に出て雨に打たれながら笑い転げた。それから厨房へ戻り、元ちゃんを呼んで首尾を問いただした。
「おう、彼女は高校一年生で、深雪ちゃんていうんだぞ」
元ちゃんは胸を張る。
「ほう、それで」
「きっと、いいスタッフになるな」
「ほう」
「将来が楽しみだ」
「それだけ?」
「なんだよ、他に何があるんだよ」
「この根性無し。携帯の番号くらい聞いてこいよ」
嶋さんが大笑いして嘲る。元ちゃんは何も言えずに顔を赤くしている。
「くそ、食い過ぎで腹が痛くて大変なんだよ」
元ちゃんはそう言って、雨の中へ逃げ出した。
我々はその後ろ姿に声を揃えて、「根性無し!」と罵声を浴びせた。
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