26 試食



 前夜の寝不足もあって死んだように眠りこんだ筈が、朝になるとまた悪夢にうなされることになった。


 これは昨夜の宿から何か悪い憑き物でも連れてきてしまったかと不安に駆られるが、目覚めて動き始めると忘れてしまうのも早い。


 夜半より降り始めた雨は、再び大雨の様相である。


 私は前夜の酒が残り、喉の渇きが激しかった。階下へ降りて洗面所で水を飲んでいると、咲が起きて来た。


「あれ、酔っ払いのくせに、随分早いね」

 寝ぐせでくしゃくしゃの髪のまま、咲が眠そうな声を出した。


「ああ、枕が変わると良く寝られないんだ」

 私は咄嗟に適当な事を言うが、咲には鼻で笑われてしまう。


「それにしちゃ、隣の私の部屋まで大きないびきが聞こえてたけど」


 私はその言葉を無視して、「さあ、牛舎へ行ってひと汗かくか」と両手をぐるぐる回して元気なふりを装った。



 朝五時半、牛舎の屋根を叩く雨音が響く。


 勢いをつけて仕事に臨んだ筈が、雨音に怯えて私の中に不安が広がる。何故雨音が不吉な予兆を帯びて聞こえるのか。


 悪夢の延長線上にその理由があるような気もするが、それなら余計に気にしない方がよかろう。


 あまりに酷い降りなので、一仕事終えて学校へ行く咲に声を掛けて車で送ってやることにした。


 親方から借りたごっつい四輪駆動のRVに乗り込み、エンジンを掛けて咲を待つ。


 高校までは、バスを乗り継いで一時間と少しかかるのだと。天気の良い時には原付バイクで行くときもあるというが、その時には小一時間で着くらしい。


 学校までの道々、咲の大学進学についての話を聞いていた。


 それはそもそも、何故東京なのかというところから始まり、大学が先か、東京が先か、何故仙台ではいけないのか、そもそも盛岡にも大学はあるだろう、という話になる。


 何の決着もつかぬまま、やはりそれは卵よりニワトリが先だろうといった類の難解な話になり、その先へ一向に進まない。



 雨音があまりにも騒々しく複雑な話を続けることは困難なので、私はついにその辺を理解することを諦めて、次の話題へ移る。


 私が東京で暮らすアパートは仕事場を兼用しているため、資料室として主に漫画に埋もれた部屋がひとつ空いている。


 大事な一人娘を私の如き怪しい独身男の部屋へ預けられるのかという問題が残るが、まあ親方が許すのであれば、受験の際の咲の宿として提供できなくもない。


 基本的に私はずっと家にいて、起きている時間帯にはほぼ仕事をしていると思われるので、単身ホテルに泊まるよりは安全と言えば安全である。


 そんな話をしていると咲の奴はすっかりその気になって、決まりだね、と一人で納得している。そんなアホな、と私は思いながら、時折無邪気な横顔を盗み見る。


 またやけにきれいな子になっちゃって、こりゃ親方も心配だろうなと、余計な事を考えていた。


 その時の私は、半分咲の父親になった気持ちで、一緒に心配していたのである。



 この雨のせいで、今年はバイクの旅行者が少ないという。時期的に個人旅行者の少ない季節だが、観光バスで来る団体客はそこそこ訪れている。


 天気のよい週末にはキャンプ場も賑わうが、今年は開店休業状態だ。せっかく美味しいレストランがあるのだから、宿泊施設も作らねば、と元ちゃんは語る。


 団体客は大きな屋根をつけたバーベキュー場で昼食をとり、チーズやハムなどの土産を買ってくれる。


 牧場の収益は今では通販の乳製品販売が多くを占めているため、商品開発と宣伝広告活動が重要とされている。来年には工場の増築を計画中であるという。


 元ちゃんと牧場の中を回りながら、そんな話を聞いた。


 元ちゃんは毎日が楽しくて仕方ないといった感じで、嬉しそうにあれこれを説明する。



「何しろ俺たちは人数が少ないから、何でも自分たちでしなきゃなんねえんだ。だから今は忙しいけど、面白い。きっとこれからもな」


 その多忙な中、私に付き合ってくれて申し訳ない気持ちになるが、せっかくの好意を無駄にするのは更にいけない。


 私も気になる事を元ちゃんに色々問いながらこの六年の歩みを一つ一つ確認して歩いた。


 牧場で午前中を過ごしてから、元ちゃんの車で外出した。


 最初の行き先は元ちゃんの実家である浅川牧場。今では町のブランド牛戦略による肉牛飼育に特化して、好評を得ているらしい。


 昔と同じように、元ちゃんの家族と一緒に昼ご飯をご馳走になった。


「今年は長雨で、野菜も牧草も生育が悪くてね」


 元ちゃんのお母さんは食卓の出来の良くないトマトをしきりと気にして、ごめんなさいねと謝る。けれど、私から見れば立派なものである。



 お兄さんは昔と変わらぬ柔和な人で、しかしまだ嫁さんはいない。


 浅川牧場の経営は堅実で、無理をしない。この家族は誠実かつ温厚で辛抱強い、東北人の魂のような一家である。


 以前のように元ちゃんをからかいながら、愉快な食事の時間を楽しんだ。


 食事の後、相変わらずの大雨だが山の上の展望台まで行ってみた。


 今ではバスが水かきの道を指一本分だけ伸びて、隣のスキー場まで行っている。


 道の駅から牧場を通ってスキー場を経由して道の駅に戻るルートと、反対回りでスキー場から牧場へ降りて来るルートと、逆回りで二種類の循環バスが走っているという。


 牧場の人たちは単純に、登りのバスと下りのバスと呼んでいる。


 例えば道の駅から牧場へ行く場合、平日昼間はバスの本数が少ないため、遠回りである下りのバスでスキー場を経由しても、乗ってしまえば先に牧場へ到着できるらしい。便利なような不便なような。



 せっかくなので温泉に寄って、露天風呂で汗を流す。雨のシャワーを浴びながら入る温泉も、なかなか風情がある。


 午後はまた美佳さんと慎さんに呼ばれていて、元ちゃんと一緒に新規開発商品の味見をすることになっていた。実は慎さんからは恐ろしい話を聞いている。


 初日に新製品のレアチーズケーキを食べて、うっかりひと言注文をつけてしまった。私も学ばない奴だと我ながら思う。


 慎さんと美佳さんは、それから目の色を変えて私に迫って来るのだ。


 慎さんの言うには、毎日なるべくたくさんの商品やメニューを試食して、感想を言えと。勘弁してくださいよと哀願したが、彼らは鬼のような形相で耳を貸そうとしない。



 船見ファームにいる間は、毎日工場へ顔を出す事を約束させられた。


 その代わり、朝夕の仕事は免除してくれるそうな。確かに、若くて元気の良い若者が何人かいて、私のようなモヤシの出る幕は少ない。


 彼らは地元の農業高校から交代で来ている実習生なのだそうだ。


 もし工場へ来なかったら、試食品を持って母屋へ押し掛けるぞと脅されている。


 元ちゃんに話すと、今日は俺も付き合うからと言ってくれた。せっかくの休みなのにね、と言うと、そっちこそ、と言われた。確かに。



 午後も遅い時間に、二人で工場へ出頭した。


 その前に売店へ行き、今牧場で売っているオリジナル商品を見学したら、そのあまりの数にぞっとした。元ちゃんが一緒でなければ、きっと逃げ出していただろう。


 ここの人は大きな誤解をしている。私は食の専門家でも何でもない。ただの絵描きである。


 人よりほんの少し食いしん坊で、しかも毒舌なだけだ。食べる物に思い入れが強い分、その思いを内に秘めきれずにポロリと外へ漏らしてしまう。その呟きが、そんなに重要なのだろうか?


 期待されると人は普段以上の力を出すことがある。その日の私もよく健闘した。いい加減な事を言って誤魔化すのは簡単だが、それだけはできない。


 作り手の一途な気持ちは私も知っている。精一杯、感じたままを表現させてもらった。



 試食の合間に、咲の大学受験の事を二人に聞いてみた。


 二人が知る限り、咲には明確なプランがあるようには思えないらしい。それでも東京へと彼女を駆り立てるのは、きっと私が東京にいるからだろうと笑う。


「咲はずっとあんたの事を追いかけてるんだよ」とからかわれて、意外な話に動揺は隠せない。


 が、そんな子供の言う事を真に受けて、とも私は思う。


 あのクソ生意気な咲が、そんな単純な理由だけで動いている筈がない。


 きっと、他に何か言えない理由を抱えているのだろう。


 ただ、それが大切な思いであればある程、アイツはそれを素直に言葉に出さない。そんな強情な奴だ。まったく、面倒なやからである。



  

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