5 牧場へ
旅に出たそもそもの理由に始まり、ここまで辿って来た道筋を問われるままに語らされ、大層恥かしい思いをした。慎さんが馬鹿笑いしている時間がなかったなら、牧場へ辿り着く前に洗いざらい語り尽くしていた事だろう。
幸いにして、キャンプ場のボロい木造汲取り便所で踏ん張っている時にどこかの子供に扉を開けられ、そのまま逃走された事件を告白している最中に牧場が見えて来た。
あの時は鍵の壊れた扉が全開のまま手も届かず、尻丸出しで放置された。お腹は痛いし恥かしいし、頭がおかしくなりそうであった。
一人で羞恥に悶えていると、運転席の慎さんは腹を抱えて笑っている。それに合わせて、軽トラックが微妙に蛇行する。
他の車など滅多に見ない道だが、ちゃんと前を見て運転して欲しい。
私が、バスで来たのかと珍しがられた理由は、軽トラックが牧場に到着するとすぐにわかった。
駐車場に面した丸太造りのレストラン脇にバイクが数台停まっていて、更に薄汚い木造二階建ての建物が少し奥まった場所に建っている。その入口には船見牧場ライダーハウスと看板が出ていて、なかなか近寄りがたい怪しさだ。
確か、先程は船見ファームと言っていた筈である。
その辺りを慎さんに問い質すと、元々の名前は船見牧場で、その頃は酪農を営む普通の牧場だったのだそうだ。最近本格的に観光農場化するに当たり、株式会社船見ファームと名称変更をしたらしい。
それでも未だ看板やパンフレットなどを見ると名称の曖昧さは残ったままである。関係者もいい加減な連中のようで、おおらかに、というかかなり適当に呼んでいるようだった。
バイクに乗っている友人が昨年夏に北海道へツーリングに出かけた際、ライダーハウスと呼ばれる安宿を泊まり歩いたと聞いている。
概ねそのシステムは単純で、食堂で夕食を食べれば二階の空き部屋などへタダで泊めてもらえるといったものらしかった。その辺りのいい加減さも、ここには似合っていた。
早々に大学への推薦入学を決めていたその友人とはこの春以来疎縁となり、それ以上詳しい話は聞いていない。
今頃は晴れ晴れとした顔でどこかの夏空の下を走っているのかもしれないが、そんなことは私の知ったこっちゃない。
駐車場には何台か乗用車も停まっていて、県外のナンバーも見受けられた。それなりに観光客も来ているようだ。
「せっかく来たんだから、ちょっと案内してやろう」
そう言って慎さんはレストランの脇を素通りし、牧場の敷地内へ車を進めた。
車は場内の砂利道を通り、有刺鉄線のゲートを抜けてレンガ造りのサイロや納屋などのある一角へ入って行く。いきなり観光客のいないディープなエリアへ連れて来られて、私は更に困惑の度合いを深めた。
トラックは二階建ての細長い大きな建物の脇に停車した。
家畜の糞やら何かの発酵した臭いが複雑に混じり合った濃い空気にどっぷり浸かり、私は台風一過の神田川に浮かぶ酸欠の鯉の如くに眼を見開いて、口をパクパクさせていた。
車を降りると、慎さんは荷台の籠を降ろし始めたので、私も手伝った。
近くの窓から建物の中を覗くと、薄暗い室内はひっそりとしていて、家畜の気配はない。
これだけの臭いがあるのだから、発生元の現物がいないはずがない。おそらく牛たちは牧草を食べに畜舎の外に出ているのだろう。
余程暇なのか物好きなのか、慎さんは案内する気が満々で、付いて来いと身振りで示して場内を先頭に立って歩き始めた。
高原の空気はその臭いはともかく、それ以外は冷涼で爽快だった。
脳味噌に無理な言い訳をして五感の一部分だけを上手に遮断し、ある種諦めの境地に至れば、気持ちが良いと言えなくもない。
広い牧草地の片隅に、建物が密集している一角がある。あくまでも、牧場の広さのレベルで考えた密集なので、東京の常識で考えれば点在、に近い。
私たちが車から降りた畜舎の奥に古いレンガ造りのサイロが二本あり、その脇から更に裏手に回ると納屋や住宅があった。
どちらも北国によくある急傾斜の屋根を持つ独特の雰囲気の建物で、東北地方の山奥とは思えない異国情緒を漂わせている。
スチール製とんがり帽子型の納屋と、和風モダンな木造住宅の間に、二階建ての倉庫とも安アパートとも見える不思議な造りの建物があり、慎さんはどうやら真直ぐにそこへ向かっていた。
それは先程のライダーハウスに輪をかけた怪しさで、近付くと安普請のプレハブ小屋のようだが、外観は丁寧に白いペンキが塗られ、大切に使われているのが感じられる。
その分妙なオーラを放っていて、狂気の天才発明家が隠れ住む山奥の秘密研究所か、新興宗教の洗脳施設というのが一番似合いそうだった。
「なんですか、ここは?」
堪え切れずに私が口を開くと、待ってましたとばかりに慎さんが答える。
「おまえ、アイスが食いたいんだろ。だからここへ連れて来てやったんだ。ここが、そのアイス製造工場兼、新商品開発研究所兼、俺たち従業員の住家だ」
やはり怪しい。私は宗教の勧誘にあったかのように、咄嗟に心の防波堤を平常時の二百パーセントアップで身構えた。つまり、ひとことで言えば、ビビっていた。
「おう、遠慮せずに入れ」
慎さんは正面のシャッター脇にある扉へ歩み寄り、手招く。
いや、既にもうこの辺で私は遠慮させていただきたい。
入口には明らかに後から取り付けたと思われる、駅前のバス乗り場にあるような片勾配の屋根があって、雪対策なのか太い鉄骨で補強されて怪しさを強調している。
しかしここで尻込みしては遠路遥々やって来た意味がないと悟り、私は多少腰が引けた状態で建物の中へ入った。
玄関は意外に広く、中にはもう一枚の扉があった。
慎さんに倣い長靴が何足も並ぶ下駄箱へ東京からずっと履いて来た薄汚いビーチサンダルを放り込み、反対側の下駄箱にあったゴムサンダルに履き替えた。そのまま内扉を開けて、やっと中へ入る。
廊下の右に二階へ上がる階段があり、その横を抜けて奥へ行くとトイレと洗面所が並んでいた。まるで民宿のようだ。
突き当たりを左に曲がるとアルミの枠に素通しのガラスを入れた両開きのドアがあって、その前でまたサンダルから備え付けの白い長靴に履き替えた。
素足に長靴を履くのは相当抵抗があり躊躇していると、慎さんにこれを履けと五本の指がついた軍足を渡された。諦めて軍足を履き、長靴に足を入れる。
後から思えば、まさにこの瞬間、私は長靴以外の何かにも足を突っ込んでしまったのだった。
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