22 朝霧広美
大学でデザインを学ぶことになり、私は改めて自分の人生に自信を持って新たな一歩を踏み出すことが出来た。
私はグラフィックデザインを専門に学ぶことを望んだのだが、より幅広く色々な事を学ぶのも必要かと思われた。
大学のデザイン科に入学して広い意味でのデザインを一から学び、それなりに興味深い事が多々あった。
その分学内のサークルではイラストレーションの愛好会に入り、好きな絵を描くことも忘れなかった。
そのサークルに加わったのにはもう一つの下心があった。勧誘の先輩から聞いたところによると、そのサークルに入ればイラスト・カットなどを描くアルバイト先を多数紹介してくれるという。
貧乏学生の私には、趣味と実益を兼ねた理想のサークル活動と言えよう。
私はサークル活動の合間、紹介されるがまま様々な媒体に絵を描いて小銭を稼いだ。時には企業や自治体の募集に応じ珍妙なキャラクターを考案しては送りつけたが、ついに採用されることはなかった。
二年生になると、同じようにイラスト描きのアルバイトをエサに新人勧誘をしたツケが回り、割のいいアルバイト先は皆一年生に譲ってしまうことになる。
その分の補填先は卒業する先輩たちで、相当に怪しい広告代理店などから安いアルバイト先を紹介され、関東一円へ出張してどうにか凌いだ。
その頃手がけた仕事は多岐にわたり、それはそれでかなり楽しかったのだが、行く先々で稼いだ金が酒に化けてしまうという現象が多発して苦しんだ。
例えば商店街の看板描きなどは、巨大なシャッターにペンキを大胆に塗る作業が快感で、病みつきになりそうであった。
郊外の寂れたショッピングセンターでは、雛祭りやハロウィンなど季節の飾りを頼まれたりもした。私の考案した奇怪なキャラクターで着ぐるみを作成し、自らその中に入りキャラクターショーを企画して何店舗かで公演した。
子供たちはあまりの不気味さに怯え、おののき、またある子供は逆に凶暴になり無闇やたらと着ぐるみに攻撃を仕掛けたりした。
何れの場合にも多くの子供たちに相当な心の傷を残し、公演は終わった。騒然とした会場を去る私の耳には、子供の鳴き声と母親の罵声だけが残った。
その企画は私の仲間内では大好評であったが、主催のショッピングセンターからは二度と仕事に呼ばれることはなかった。
そんな楽しい毎日であったが、中には酷いアルバイトも混じっている。狭い部屋に閉じ込められて、一日中眠らず奴隷のように働かされる最悪の職場もあった。
当時連載を始めたばかりの若手漫画家のアシスタントというのが、その仕事であった。
一通り漫画家の真似ごとのような仕事をしていたので、簡単な仕上げの手伝いだからと先輩に誘われても躊躇はなかった。
最初は週一日か二日、手伝いに行くだけだった。ところが次第に連載が長くなるとアイディアに詰まり、作画が締切りギリギリになって行く。
ついには最後の二日くらいは毎週徹夜で手伝わねば終わらないという事態に陥り、作業は地獄の様相となった。
そして、アシスタントとして一度その地獄に足を踏み入れてしまうと、容易に抜けられない。共に地獄を味わった仲間には、妙な連帯感が生まれてしまうのだ。厄介なものである。
私は紹介してくれた先輩の顔を立てて半年程我慢したが、ついに学業にも支障をきたし、限界を感じて足抜けを決意した。その時に私を引きとめようと登場した雑誌編集者が、朝霧である。
朝霧は歯の浮くような美辞麗句を並べたて、私には才能があるといった意味のことをひたすら言い続けた。
毎日墨を塗ったり線を引いたりしているだけの私に、どんな才能があったのだろうか。ただ、私のような凡人にとって、褒められることはたいへん喜ばしいことでもある。
朝霧は悪魔族出身なので、人間の弱点をよく心得ていた。私の如き凡人が人から褒められる事に対して全く免疫がないと知るや、畳みかける。ノーガードの私は快い美辞麗句に打たれ続けた。
その後私は幾度か地獄からの脱出を試みるのだが、その度に悪魔に邪魔をされ奴隷のような労働に戻り、少しずつ背景などちゃんとした絵も描き始めることで更に墓穴を掘っていた。
そのうち、私の手伝っていた先生が漫画家として独立する前にやはりアシスタントをしていた大先生が私の絵を気に入ってくれて、そちらへ引き抜かれるという僥倖に恵まれた。
どうやらあまりに度々音を上げる私に手を焼いた朝霧が、有名漫画家先生にお願いして引き取ってもらったらしい。
奴隷はこうして悪魔の手により人から人へと売られていくのである。未だ人身売買の残る粗野で野蛮な業界であった。(やや言い過ぎ)
いかな大物漫画家といえども、悪魔と取引をすればタダでは済むまい。私は密かに危ぶんでいたのだが、移籍しょっぱなから的中してしまう。
私が仕事を手伝い始めて間もなく大先生は体調を崩し、寝たり起きたりの生活になってしまった。
それでも売れっ子漫画家というのは過酷な職業で、簡単には連載を休めない。そこでまた私は、移籍早々地獄の日々を過ごすことになる。
幸い先生の体調は二カ月程で何とか元に戻り、どうにか事なきを得た。私は移籍直後の奮闘が認められ、新しい先生のもとで学業とアシスタント業に精を出す。
生活に余裕が出来ると、朝霧の煽てに乗り自分でも漫画を描いてみようかという馬鹿な気を起してしまった。
よせばいいのに、そうして描いた作品群は朝霧により徹底的に罵倒され尽くすという厳しい試練を次々に受け、更に意地になって描き続けたおかげで今の私がある。
どこでどう道を誤ったのか。私は熱望していたグラフィックデザインの周辺をぐるぐると回った挙句、朝霧に言葉巧みに誘われて舞い上がり、着地したのはヤクザな漫画家生活であった。
そうして卒業から二度目の夏、初めての単行本が出版され、初めての連載も決まった。そこだけ見れば、悪くない。悪くないどころか、嘘のように上出来である。
年明けからはアシスタント業も減らして、自分の漫画を描くことに集中している。
この旅が終われば完全に独立し、一人で漫画家として生きて行くことになる。私にとってはこれからが試金石の重要な時期である。
「そんな大事な時に、おまえは何をしているのだ?」
突然、爺さんに言われて言葉を失う。
そんな正論は、朝霧の存在を見て、知ってから言ってもらいたい。東京は朝霧という悪魔に支配された、地獄世界への通路である。少なくとも、私の住む狭い世界においては。
私はしどろもどろで、言い訳をする。
いや、筆の遅い私はこれから締め切りに追われることが必至。多忙を極めること必然。消耗戦となる連載生活を前にして、少しでも休み、充電しておきたいのである。
下手に東京にいれば担当編集者の悪魔朝霧や、その他魑魅魍魎たる貧乏漫画家、赤貧イラストレーター、奇天烈デザイナー、売れない小説家、自称芸術家等々、碌でもない仲間にたかられて、毎日飲み歩くだけで終わってしまう休暇である。
だからこそ、遠路はるばるこうして爺さんの顔を見に来たのだから。
「さて、年寄りの一人暮らしで汚い家だが、今夜は俺のところへ泊ってゆっくりして行かないか」
爺さんは私の言い訳を笑って受け流し、自宅へと誘ってくれた。
早仕舞の手伝いをして管理小屋から出ると、再び湿った雨具を装着してバイクに乗った。まだ強く降り続ける雨の中、爺さんの赤い軽自動車の後を追って、薄暗い街をのんびり走ると、古い木造住宅の並ぶ狭い道を登る。
町外れの丘の中腹に爺さんの家はあった。古い二階建ての日本家屋で、一人で住むには大きすぎる家だった。
「なに、この夏が終われば家を建て替えて、来年には長男一家とここで同居することになっちまった。気楽な一人暮らしもそれまでだな」
爺さんは、ちょっと残念そうに言う。
「贅沢言っちゃ罰が当たるよ」
ほんとは嬉しいくせに強がりを言っちゃって、と思いながら、私は茶の間から暗い海を見下ろす。雪深いこの土地で、一人で冬を過ごすというのはどんな気持ちなのだろう。
四年前の寒い冬の朝、奥様はこの家の居間で突然倒れ、そのまま救急車に乗せられ運ばれた病院で亡くなった。
心筋梗塞であったという。それ以来、爺さんの一人暮らしが続いている。奥様とは直接会ったことはないが、管理室で奥様の作ってくれた弁当を毎日戴いていた事を、懐かしく思い出す。
その夜、我々は遅くまで酒杯を傾け、様々な話をした。昔話が尽きると爺さんは大学生になった孫の話を始める。
東京の大学に通っていた孫は、来年地元へ戻り仕事をすべく地元企業を回りながら、公務員試験にも挑戦中なのだそうだ。
そんな話を聞きながらまた昔話に戻り、爺さんの得意だったホラ話を覚えている限り並べては懐かしく笑いあった。
「英語はもう止めたのかい?」
「馬鹿言え、その気になりゃいつだってスピーキン・イングリッシュだぜ」
怪しい英語は健在のようだった。
「マリリンにはまた会えたの?」
私は、爺さんに聞いた人魚の話をまだ覚えていた。
「いや、あんな事が続いたのは、あの頃だけだったな」
「えっ、続いたってことは、その後何度も会っていたってこと?」
爺さんは私の視線をそらして曖昧な薄笑いを浮かべるだけである。
「マリリンに会ったのって、確かもう妻子持ちの頃だったよね」
私は疑惑の視線を強く送る。
「別に、何をしたってんじゃねえよ。それに、そう幾度も会えたわけでもねえ。何せもう五十年以上も前の話さ」
結局、猟師の真似ごとをしていた、ほんの一時期の出来事だったらしい。以来あの池へ行ったことはないのだという。
爺さんは立ち上がり、部屋の隅にあるCDプレーヤーのスイッチを入れた。
管理室に流れていたのと同じ、古いジャズが部屋に充ちる。
「あれ、さっき管理室でも聴いてた曲だよね」
「ああ、Lover comeback to meっていう懐かしい歌だ」
「Loverってのは、亡くなった奥さんの事? まさかマリリンじゃないよね」
「さあな」
爺さんは渋く笑って目を閉じる。
「じゃ、明日にでもマリリンを探しに行ってみるかな」
私が呟くと、爺さんは真顔で言う。
「おお、会ったらあんたは何者なのか、よく聞いといてくれ」
「そんな無責任な。いったい誰なんだよ、マリリンは?」
その池の場所は確実とは言えないながらも、おおよその見当はつけてあるという。
随分昔に古い峠道を車で走っていた時に、偶然そこを通りかかったらしい。
「その古い峠の駐車場には大きな地図があってな、そこから近くの山の頂上まで伸びるハイキングコースが出ていたんだ。そのコース途中に描かれていた、南北に細長い下膨れのサツマイモ形の池が、多分あの時の池だ」
爺さんは、そこへ行けば金髪のねえちゃんに会えるぞ、と私をそそのかす。
「で、そのねえちゃんに会ったら、どうすればいいんだい?」
爺さんは間髪を入れず応える。
「そりゃおめぇ、フー・アー・ユー? と言やぁいいのさ。覚えておけ」
なるほど。やはり英語ですか。
「わかったよ」
その夜、ワールドカップの決勝戦を、爺さんと二人で見た。
以前一緒に甲子園の予選を見たのを思い出して聞いてみると、あの年予選を見事に勝ち抜いて、孫のチームは甲子園へ出場したのだそうだ。
翌朝、雨は上がったが、どんよりと湿った空気が海から流れ込んでいた。
私は爺さんと別れて、再び海沿いに北へ向かった。
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