21 幻の旅路



 2002年。

 サッカーの日韓ワールドカップが開催された、記念すべき年である。


 熱狂的なサッカーファンでも何でもない私にとっては、そんなこともあったよね~という程度の思い出しか残っていないが、自分に関して言えばずいぶん色々なことがあった年だった。



 私は二十四歳になっていた。漫画を本格的に描き始めて約二年、幸運にも初めての単行本を出版することができた記念すべき年である。


 そんな多忙な時期だったので、世間の出来事に接する時間が少なかった。そう理解してもらえると嬉しい。


 一年前に死ぬ思いをして寝ずに描いた読み切りが思いもかけぬ好評を得て、その後不定期の掲載ながら一年間に幾つかの作品が日の目を見た。


 そのうちの一編が新人賞をもらい、僅かながら賞金も得た。私の幸運は止まる事を知らず、そうして描いた漫画が初の単行本となり、更に単行本発売を機に、掲載された月刊誌で連載まで持つことになった。


 私は身に余る幸運に涙した。


 その後、私の連載に懐疑的であった編集部の命により、三か月分の原稿を描き溜める羽目になる。


 それを必死に一月半で仕上げ、晴れて新連載は広く世間に告知された。


 おかげで、これから忙しくなるぞという前に久しぶりの休暇を得ることが出来たのはなかなか皮肉なものである。


 忙しい最中にも受賞祝い、出版祝いと称して担当編集者の朝霧には連日夜の街へ連れ出され、銀座のバーなどを梯子した。


 もちろん勘定は私持ちである。ハイエナの如き男ではあるが、箸にも棒にもかからぬ私に漫画を一から教えてくれた恩義もあるので、奴の誘いには逆らい難い部分がある。


 数少ない私の弱点というか、現在に至る汚点である。



 放蕩の挙句に得た休暇なので私の懐具合は甚だ怪しく、海外旅行に出かける余裕などない。


 普段の足代わりにしているバイクのすり減ったタイヤを交換し、国内旅行に出かけるのが精一杯である。


 それでも私の心は浮き立っていた。その気分の高揚は、主に春先に届いた一通の葉書に起因している。


 昔懐かしい船見牧場とはその後も細々と連絡を取っていたが、あの夏の日以来再訪は叶わなかった。


 しかし親方からの葉書には、高校三年生になった咲が来春東京の大学を受験して、合格すればこちらで一人暮らしをする予定なのだと記されていた。親方も心配して、色々聞きたいこともあるので相談に乗ってほしいのだという。


 まさかまた勉強を見てくれと頼まれることも無かろうが、それについては少々不安が残る。


 咲の奴は決して勉強が出来ない訳ではないのだが、気分が乗らねば全くエンジンのかからぬタイプであった。


 さて、どれだけやる気が持続できるのやら。その辺の後押しが出来ればいいのだがと、漠然とした思いを抱えていた。



 咲の東京での生活については、まあ心配なかろう。


 私の周囲には一人暮らしの若者が無数にいて、資金のあるなしに関わらず、その手の世話に長けた者が大勢いる。


 もしかしたら、貧乏漫画家が唯一誇れる点が、そこかもしれない。


 ただし、私の周囲にいる碌でもない若者たちに咲を紹介することには、一抹の不安を感じる。


 一握りの成功者以外は、ほとんどが道を踏み外した外道の者である。我々の面倒を見てくれている編集者にも、朝霧のように性質の悪いのがたまに存在する。


 船見ファームの経営は今ではそれなりに安定し、慎さんと美佳さんも昨年ついに結婚した。


 素直に祝福したい気持ちと嫉妬に燃える思いが少々複雑に錯綜するが、そもそも初めから私の出る幕はない。


 ここは大人として、心からのお祝いを表明するべきだろう。


 この機会を逃すといつまた行かれるのかわからない。実に六年ぶりに、私は旅に出ることに決めた。梅雨まっただ中の水無月、世の中全てが湿った六月末の旅立ちである。



 北へ向かうとなると、まずは新潟を目指すのが習わしだ。


 私は梅雨空と同じドブネズミ色のボロバイクに不安を抱えながら、関越自動車道を恐る恐る北上した。


 愛車は中古と言うより既に骨董品の域に入ったオフロードバイクで、普段街中を流すには何の心配も無い。ただ、高速道路を走るとなると、いささかパワー不足である。


 車の流れに乗るには、非力な空冷エンジンをぶん回して風切り音と不気味な振動とに耐えねばならない。


 肉体の苦痛もさることながら、精神的にも、いつ故障して分解し、宙に投げ出されるやもしれぬ恐怖との戦いでもある。


 以前と似たような梅雨時なのだが、以前よりも遥かに酷い大雨が東北地方に降り続いていた。ここは日本海側をうろうろしながら天候の様子を見るのが得策だろう。


 私の不安をよそにドブネズミ号は無事関越道を走りきり、意気揚々と日本海へ達した。六年ぶりに見る日本海は暗く深い青色に沈んでいて、以前よりも荒んだ印象である。


 砂浜に出ると、湿った潮風が体にまとわりついた。全身に塩分を付着させながら、ぬるい空気が通り抜ける。


 爽やかさとは対極にある出迎えであった。海も空も夏の到来を拒否し、今はまだ梅雨の盛りである事のみ一点を頑なに主張している。


 そんなに意地を張らずに少しくらい太陽を見せてくれてもよいと思うのだが、六年前と同じく新潟の海は、なかなか頑固であった。



 新潟で一泊したのだが状況は変わらず、常に黒い雲が空を覆い、時々雨粒をまき散らす。結局何も見るべきものを見出せないまま、私は仕方なく新潟を後にした。


 日本海に沿って北上を続ける。


 午後に新潟を出てぐずぐずしていると、村上辺りで早くも薄暗くなる。先を急ぐ気力も無く、駅前の観光案内所で安い民宿を紹介してもらい二日目の宿とした。


 六年前に感じた夢のような開放感も高揚もなく、落ち着いた旅の始まりである。



 翌日は朝から大雨であった。東北地方に停滞する梅雨前線へ低気圧が接近し、南から暖かく湿った空気を大量に供給している。


 関東から北側では軒並み大雨で、北陸から西の日本海側でも似たような状況である。この雨を避けるには関西方面にでも逃げるより方法がない。


 暫く宿で油を売っていたが、諦めてそのまま北へ向かう。


 前線の南側は猛烈に蒸し暑い。カッパの中が湿るのは、雨よりも汗で蒸れているからだ。


 昼なお暗い濡れた道を走る灰色の単車は、すっかり景色に溶け込んで危険極まりない。常時点灯しているヘッドライトも頼りない。製造から二十年余りの年月を経過したボロバイクには過酷な条件だった。


 それでも、老骨に鞭打ち、古いバイクは良く動いた。


 山形の海沿いを走っていると、ふと見た景色にドキリとした。左手の松林には、見覚えがある。うっかりして、通り過ぎるところであった。


 慌てて速度を落とし、駐車場の入口で一旦停止する。駐車場には赤い軽自動車が一台だけ停まっていた。


 道路からも見える汚いプレハブの管理小屋は昔のままで、中に明かりが点いているのが見える。


 ゆっくりと駐車場に滑り込み、でこぼこのアスファルトの水溜りを避けてバイクを停めた。そっと小屋に近寄り窓から中を覗くと、六年前より少しだけ背中の丸まった爺さんが、一人で新聞を読んでいた。


 私は濡れた窓ガラスを二三度指で弾いてみた。爺さんが顔をこちらに向ける。老眼鏡を外して目を細めるが、私の姿に気付かない。もう一度ガラスを叩くと、立ち上がり、近寄って窓口のガラスを開けた。


 雨の滴が落ちるヘルメットのシールドを上げると、室内の冷気が顔を撫でる。


「こんにちは。久しぶりです」

 私のことを覚えているだろうかと思ったが、爺さんはすぐに笑顔になった。


「なんだい、懐かしい奴が来たな。まあ、中に入れよ」

 爺さんの招きに応じて、私はプレハブの管理室へ入った。



 入口の土間でヘルメットと雨具を脱いで、ほっと溜息をつく。


 室内は埃臭く、カビ臭く、しかしそれがたいへん懐かしい。

 私は昔のように爺さんの隣に座り、室内をぐるりと見た。


 高校野球の予選を見たテレビもそのままだが、今日はその横にあるCDプレーヤーからジャズが流れている。音源の古そうな女性ボーカルが、この部屋に良く似合っていた。


「いや、何も変わらないね、ここは」


「ああ、そうだな。でも、ここもそろそろ閉鎖されることになりそうだ」


 なるほど、施設が昔と変わらぬ訳だ。窓の外に目をやると、松林にテントの姿はない。ただ、昔酷い目に会った木造の汲み取り便所はさすがに姿を消し、代わりに工事現場にあるような仮設トイレが並んでいる。


「でも、まだここにいるとは思わなかったよ」


「夏の間だけの道楽だからな。最近では夏休みの間だけの営業になっているからよ。だから、今はまだ営業前の準備中さ。今日もこの天気で草刈りも出来ねえからもう閉めて帰ろうとしていたところでよ」



 それから、私たちはお互いの近況を話して、取りあえずの再会を喜んだ。


 私は持参した初めての単行本を爺さんに手渡して、どうしてこんな仕事をしているのかを渋々ながら説明した。


 爺さんの耳は若干遠くなり、時に大きな声で繰り返さねばならない事もあったが、概ね元気そのものだった。


 私はこの話をする度に、改めて途方に暮れる。もう少しマシな選択があったのではと、時には泣きたくなる。決して今では後悔しているわけではないのだが。


 まったく、それは朝霧との出会いにまつわる厄介な出来事だった。



  

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