20 記憶



 清流沿いの温泉街にできた大きな展望露天風呂に浸かり、スキー場のリフトに乗って雄大な景色を楽しんだ。


 ワイナリーでは土産のワインを何本か選び、その中には不本意ながら朝霧への手土産も含まれていた。


 そんな風に私が珍しく観光気分に浸っている間、山猫高原牧場では嵐のような作業が始まっていた。(らしい)


 宣伝部へ持ち込まれた私の絵はすぐにその場でコンピュータにスキャンされ、デジタル処理をされて着色の後、各担当に配布された。


 あるものは場内ポスターを作成し、ある者はホームページの更新作業に入る。


 計画中の夏のイベントに使うべくイベント関係者へデータを送り、新しい企画を立ち上げ始めた者もいる。


 宣伝部とは名ばかりで、ほぼ全員が何か別の仕事と兼務で行なっているので、多忙に拍車がかかる。



 翌朝、嶋さんが完成品のポスターを私の部屋へ届けに来た。


 一夜にして作成された宣伝ポスターは、私の描いた絵をベースに、より洗練されていた。


 吹き出しのセリフが多少変わって、牧場の絵はよりリアルに今の建物をデフォルメしたものに差し替えられている。その周囲には、沢山の動物やそこで遊ぶ観光客親子の姿などが加わっていた。


 驚いたのは、その加えられた絵のタッチが、私の描いた元ちゃんと非常に上手に似せられていて違和感のないところだった。


 牧場のスタッフはなかなかいい仕事をするなと、私は感心する。


「おまえ、ほんとに何も知らないで来たんだってな」

 嶋さんは困った顔をして私の背中を叩く。


「ええ。すみません、皆さんの苦労も知らずに」


「ああ、ちょうど間が悪かったんだよ。俺たちゃ幻のアイスマンのおかげでずっとひどい目にあっているからな」


「すみません」


「いや、おまえのせいじゃないから、気にすんなよ。だけど、本当にもう作れないのか?」


 嶋さんには悪いが、今更私に何かできるとは到底思えない。


「まあ、俺に出来るのは味見くらいですかねぇ」


「そうか。残念ながら味見をしてもらうレベルの物さえ、まだ作れないんだ。情けねえよ。じゃあ、何でもいいから、ヒントになりそうな事を思い出したら教えてくれ。もう少し、ここに居られるんだろ?」


 嶋さんの昔と変わらぬ笑顔に、私は救われた気持ちになった。


「おい、アイスマン、頼むぜ、何でもいいから思い出した事があれば、な。俺もお前の事は元ちゃんに上手く言っておくからさ」


「ありがとうございます。なんか、元ちゃんとこのまま別れるのも嫌なんで、お願いしますよ。俺もアイスのこと、出来る限り思い出してみます」


 嶋さんは嬉しそうに右手を差し出し、我々はがっちりと握手をした。こうなったらアイスマンの事を必死で思い出すしかない。


 手を振って嶋さんは戻って行った。私のような者にもすがろうとする、これはかなりの危機的状況なのであろう。



 元ちゃんは自分の知らぬところで起きている事態に全く気付かず、その朝ホームページやポスターを見て激怒した。


 そもそも嶋さんは朝一番でその絵を見て爆笑し、私の所へ届けた後に上機嫌で社長へ伝えたのだが、その時になって初めて、元ちゃんが全く関与していないと知り蒼くなる。


 元ちゃんは最初親方に聞いてみたが、笑って取り合ってもらえない。咲は多忙を理由に逃げまわり、昼過ぎに会った時にはホームページでの反響の良さに今更文句も言えぬ事態にまで進展していた。


 嶋さんに約束をしたものの、私は前夜一人で飲み過ぎたワインのせいで頭が虚ろで、朝からロッジ三階の展望風呂で汗を流して過ごした。いい気なものである。



 それから部屋に戻り苦労して書き綴ったアイスマンに関するレポートは、昼過ぎにはフロント経由で嶋さんの手元へ届けた。


 私の記憶にある限りのアイス造りに関する諸々を、全て書いたつもりである。


 そろそろこの牧場を出る頃合いかなと思いながら、遅い昼食の後部屋でごろごろしていると、フロントの深雪ちゃんから電話が来た。


「お休みのところお邪魔して申しわけありません。専務がお会いしたいそうなので、よろしければ下までご足労願えますか?」


 きっとそこに専務様がいるのだろう、珍しく緊張気味で、何かおかしな感じであった。そんなに咲が怖いのだろうか。



 階段を一段ずつ踏みしめゆっくり下りて行くと、カウンターの前に背の低い痩せた少年が所在無げに立っている。


 細身のジーンズに牧場のスタッフジャンパーを羽織り、深く帽子をかぶった姿は、アルバイトを始めたばかりで慣れない新聞少年のようだ。


 階段を降り切ったところでその横顔を窺うと、その新聞少年が咲だった。


 シックな制服姿で美女オーラ全開の深雪ちゃんの隣に、貧相な専務取締役様が置かれているこの情景は何やら哀れで、気の毒である。


 思いつめたような暗い表情は初めて出会った時、小学生の頃の咲そのままに見える。


 近くに寄ってよく見れば、その整った顔立ちは凛々しく成長していて、美佳さんが生まれ変わったかのような美しさを秘めている。


 それなのに、目の前で俯く咲はあまりにも気持ちが深く沈み、少しの風でも吹き飛ばされそうに儚い。



 私の姿に気が付き、咲がこちらを見る。


 その瞬間、それまでの暗い表情が嘘のように、何とも言えない抑えた笑顔を浮かべた。


 カウンターの奥に目をやると、我々二人を不思議そうに見ていた深雪ちゃんが驚きに目を丸くして、次に満面の笑みを浮かべる。


 私は躊躇なく咲に歩み寄り、帽子の上に右手を乗せて、ごりごりと乱暴に頭を撫でた。


「よう、久しぶりだな。もっと大きくなったかと思ったが、相変わらず痩せっぽちのちびじゃないか。ちゃんとご飯食べてるのか?」


 意外にも咲は私の乱暴な挑発を受け流し、上を見上げて「お兄ちゃん」とだけ言った。


 その言葉に、不覚にも涙が出そうになり私は狼狽した。


「ちょっと来て」


 咲が言って、歩き出す。私もその場にいたたまれず、すぐに後を追う。階段裏の扉を開けてロッジのバックヤードに出たところで、咲が待っていた。


「お兄ちゃん、お父さんからカード貰ったよね」

「ああ、ここのセキュリティカードだな」


「今持ってる?」

「うん。ほら」


 私は昨日場内見学の際に親方から貰ったカードを財布から出して、咲に見せた。これで場内の従業員専用エリアへもほぼ全域で出入り可能と聞いた。


 が、もう使うことも無かろうとも思っていた。


 咲は黙って頷くと、さらに奥のゴミ置き場の横から外に出た。


 咲はもう振り向きもせず、黙ってすたすたと歩く。細い体の動きはゲームに臨むアスリートのように軽快で、ダンサーのようなリズムに弾んで見えた。


 見とれる私はみるみる置いて行かれる。まったくこの親子ときたら、行動パターンが同じじゃないか。



 急ぎ足で後を追い、咲に倣ってスタッフ専用の通路を抜けて白いコンクリート造りの建物に到着した。


 昨日親方に案内された商品開発室である。ちょうど昔、私がアイスマンを作っていた工場と同じような目的で作られた施設と聞いていた。


 咲は建物の裏口から階段を上がる。そこは、ここへ来て初めて見る、車椅子の侵入出来ないエリアであった。


 咲は二階の廊下を奥へ向かう。狭い通路に、慎さんや美佳さんが住んでいた部屋のような扉が幾つか並び、そのうちの一つを開けると漸く振り向き、私を招き入れた。


 部屋に入ると、咲は小さなため息をつき、帽子を取った。頭を二三度振り、汗で乱れた髪を広げる。上着を脱ぐと、同じように牧場のマークが入ったTシャツ姿になった。


「人目につかない場所が、ここしか思いつかなくて」


 玄関を入るとすぐにトイレとユニットバスとミニキッチンが並び、その奥がベッドルームである。全部で十畳程の狭い部屋で、どうやら咲の私室らしい。


「嶋さんが結婚するまでは、ここの二階に嶋さんと奥さんの恵美子さんも住んでいたんだけど、今は私だけしかいないから」


 女性の部屋に入った緊張感もまるでなく、咲の勧めるデスクチェアには目もくれずに、私は無邪気にベッドの隅に腰掛けて、無遠慮な目で部屋を見回した。



「あの絵のおかげで、昨日からずっと徹夜で仕事していたんだから。今、元ちゃんの抗議を振り切って、やっと逃げて来たところ」


 咲は血走った目で若干恨みがましそうに、私を見る。


 部屋の奥は小さなバルコニーになっていて、風がレースのカーテンを揺らしている。

「少し暑い?」


 咲は仕方なく私の隣に腰を降ろし、汗に濡れた髪を両手で掻きむしる。

 急に気付いたように私から体を遠ざけ、シャツの胸元に鼻を近付け眉間に皺を寄せた。


「ごめん。私、ちょっと汗臭いかも」


「いや、なかなかいい香りだぞ」


「馬鹿!」


 顔を赤らめた咲が、私の背中を平手で叩く。おかげで、咲の緊張が少し解けた。



「元ちゃんが失礼なこと言ってごめんなさい。お父さんから話しを聞いたわ。それに、昨日はありがとう。深雪ちゃんがあの絵を持って来たときにはびっくりした」


 妙に大人びた事を言うので、こっちがびっくりだ。だが良く考えてみれば、咲も二十三だか四になっている勘定だ。何しろ専務取締役様である。


 改めて、咲と話すのが十二年ぶりなのだと実感する。私の中ではまだ小学生の頃のイメージが強く残っていて、そこから容易に抜け出せない。


 咲は私の絵を元に昨日突然始まった一連の営業広告活動を「元ちゃんプロジェクト」と名付け、全社的に展開するつもりでいると語り始めた。


 大きな会社と違いこのフットワークの軽さが、自分たちがここまでやって来られた理由だと説明する。


 僅かな事でも、牧場のために何か出来て良かった。私はほんの少しだけ胸を撫で下ろす。


「お兄ちゃんがまだあんな絵を描いてくれるなんて、嬉しかった。私も昔お兄ちゃんと夏休みの宿題をやったあの時から、ずっと絵を描いて来たんだ。ほら、ポスターの動物たちやここの建物の絵も、全部私が描いたんだよ」


 そうか。あれは咲が描いたのか。どうりで、若い頃の私の絵のタッチと似ていて、違和感がまるでなかった。とても一晩で拵えたものとは思えぬ完成度である。


「ああ。あれは上手に描けていたな。感心したよ」


 だが、咲は私の言葉を聞く前から、下を向いている。



「お兄ちゃん、ごめんね。私、約束したのに。東京の大学に、行けなかったよ……」

 絞り出すような声が聞こえて、私は動揺した。


 咲が小学生の頃にした約束である。


 咲が被災したのは、ちょうど大学受験を控えた高校三年生の時だと親方から聞いた。色々な意味で、無念であったろう。


「いや、咲は良くやっているじゃないか。俺こそ牧場がこんな事になっていたのに、何もできなくて済まなかった」


 私が咲に掛けられる言葉は少ない。突然牧場を襲った悲劇を乗り越え、僅か六年の間でここまで事業を拡大させた苦労は私の想像を遥かに超える。


 しかし私は、咲の気持ちが充分にわかっていなかった。


「でも、駄目なの。牧場の建物や仕事はどんなに立派に再建しても、私たちの気持ちはどんどんすれ違って、離れて行くの。どうしてなの?」


 そこには、私には推し量ることのできない咲の苦悩があった。


 深雪ちゃんが言っていた。あの災害以降、咲の顔から笑顔が消えてしまったと。

 そんな、元ちゃんや親方の嘆きを、みんなが何度となく聞いている。


 けれど、誰にも咲の笑顔を取り戻すことが出来ずにいた。


 きっとそれは本当のことなのだろう。


 先程フロントで私を待っている時の咲の顔は、母親を亡くして沈み込んでいた小学生の頃と同じ表情だった。


 目の前で顔を伏せて静かに嗚咽する咲を前にして、私はなす術なく見守る。



 啜り泣きが収まるのを、私は辛抱強く待っていた。


 組んだ腕が痺れてふと体の向きを変えた拍子に、ベッドサイドの書棚に掛けてある布の覆いが落ちて、中の本が剥き出しになった。


 顔を上げた咲が照れくさそうに笑い、その本を布で隠そうとする。


「いいじゃないか、隠さなくても」

「だめ。これは特別な本なの」


 何ということはない。そこにあるのは十数冊の漫画の単行本である。しかも、全て同じ作者の本に見えた。


「漫画じゃないか」


 手を伸ばすと、咲がぴしゃりと叩く。だが、私は素早くその覆いを取り去ってしまう。


「いくらお兄ちゃんでも、これは触っちゃダメ。私の大切な本なの」

 咲は歯を剥いて、私を睨む。


「そんなに大事なの?」

「うん。大好きなんだ」


「売れない漫画家じゃないか」

「いいの。大ファンだから」


「へえ」

「ほら、これ」


 咲は一番奥にある本を手に取り、表紙を開く。そこには著者のサインが記されている。


「私の宝物だよ」


「そんなものが?」

「うん」



 六年前のあの日、町の病院へ緊急搬送された親方はすぐに両足の手術を受けた。学校から病院へ直行した咲は、手術が終わるまで長い時間を、一人で待っていた。


 その時、咲のカバンに入っていたのがこの本だという。


 咲は手術室の前で待つ間、繰り返し何度もこの本を読んだ。読む度に、動揺する心が少しだけ落ち着いた。


 不思議な事に、咲には何故この本がカバンに入っていたのか、さっぱりわからないらしい。買った覚えも無ければ、友人に借りた記憶も無い。後に学校でクラスメイトに聞いてみても、誰も知らなかった。


 それ以来咲はこの作者のファンになり、単行本は欠かさず買っている。


「まぁ、月並みな言葉で言えば、心の支えって奴かな」


 咲は少し照れながら本を抱きしめる。



「サインは本物?」

 私は咲の持つ本を良く見ようと手を伸ばすが、慌てて咲は本を後ろへ隠す。


「嫌。もう見せない」


「おまえ、その人を知ってるのか?」

「いいえ、全然」


「そうか? 多分会った事があると思うぞ」

「嘘ばっかり」


「いいや、間違いないね」

「じゃあ、それはいつ?」


「うーん、例えば、今とか」

「えっ?」


「ほら、目の前にいる……」

 私は自分の顔を指差す。


「またまた。それは悪い冗談でしょ。いくらお兄ちゃんでも、許さないよ」

 咲は私の顔を見つめる。私はただ笑っているだけだ。


「……ひょっとして、本当なの?」

「うん。間違いない」


「これ、お兄ちゃんが描いたの?」

「俺の絵がわからないのか?」


 その途端、咲が私の胸に飛び込んで来た。意外な重さの咲に押し倒されそうになり、私は慌てた。


 体勢を立て直そうと腹に力を入れた瞬間、咲は逆に身を捻り背中からベッドに倒れ込む。私は勢い余ってその上へ覆い被さる形になってしまった。


 無理矢理押し倒したのではない。成り行き上、そうなってしまったのだから、仕方がないではないか。


 下から私の首に両手を回し、咲は微笑む。二人の顔が必要以上に接近してしまう。これでいいのだろうか。


 しかしその瞬間、私たちは体を強張らせ、お互いの顔を見合わせる。


 私の瞳に、目の前の咲の顔と、ポニーテールの女子高生の咲が重なって見えた。一体、咲には私がどう見えているのだろうか。


 その時、時空の扉が開いたのである。私の記憶は、一気に六年の時を超えた。



 第三章へ続く


  

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