16 山猫高原牧場



 車は霧雨の中、山道を登る。


 きれいな舗装で走り易いが、気分の高揚も、懐かしさも感じない。どこか別の県の観光地へ迷い込んだ気がする。


 道の駅から何度となく目にするのは、見慣れぬ観光農場の案内看板だ。


 山猫高原牧場という、宮沢賢治の童話を連想させる安易なネーミングが軽薄なイメージを強めている。


 よく見ると、近隣一体山猫だらけだ。山猫高原温泉。山猫高原スキー場。山猫高原ワイン。山猫高原という呼び名がいつから使われたのか知らないが、この一帯は昔、全て別の名で呼ばれていたと思う。


 これも新しい観光開発の一環なのだろうか。船見ファームもそれで名前を変えただけだと良いのだが。


 ナビを頼りに、いよいよ親指の道の登りに差しかかる。


 ここも道は広く、新しい。以前と同じ道の拡幅をしたのか、或いは全く別の道を造ったのか、見当もつかない。


 全ての記憶が曖昧で、以前来た場所とは到底思えない。


 そんな当惑が心の表層を覆い尽くした頃、車は目的の山猫高原牧場へ到着した。駐車場からの景色も、記憶とは少し違うようだ。私の感覚では、以前の駐車場はもう少し山の上だったような気がする。



 車を止めて、中から周囲を窺う。見る限り山猫高原牧場は全てが新しく、昔の船見ファームの面影は一切ない。ここは全く別の施設なのだろうか。


 相変わらず細かい雨粒がミルクのように空中を流れている。入口近くに十五台程の乗用車と観光バスが二台、寄りそうように停まっている他は閑散としていた。


 チケット売り場の奥にレストランや土産物売り場の一部が見えているが、どれも真新しくて近寄りがたい。


 私は一度停車した車を動かして、再び元の道に出る。そしてその道をゆっくりと、更に登り始めた。


 百メートルと行かぬうちに広い第二駐車場があり、そこは宿泊施設であるロッジとオートキャンプ場の入口でもあった。


 その辺りから見る山はどことなく昔の面影がある。しかし私はある予感に従いそこには立ち寄らず、更に上へと車を進めた。


 道幅は少々狭くなり、昔の親指の道に近い雰囲気になる。緩い右コーナーを抜け、左へきついカーブを過ぎると、辺りの景色に初めての懐かしさを感じた。


 やがて左手の牧柵越しに、見覚えのある小屋が見えた。予感的中、それは紛れもなく船見ファームのライダーハウスだった。


 その手前には、近藤さんのレストラン兼土産物屋であった丸太小屋もある。



 以前駐車場の入口だった場所は鉄のゲートが閉じられ、建物前には何台かの小型トラックが置かれている。今は観光客の入れない場所となっているようだ。


 ゆっくり通り過ぎてから車を停め、小雨を気にしながら小走りにゲートへ戻る。


 濡れた鉄の門に両手を置き、中を覗き見た。どちらの建物も老朽化しているが、今でも従業員に使われているのだろう、暗い窓の中に雨合羽や農具などが見えた。


 駐車している白いトラックは比較的新しく、横腹には山猫高原牧場の文字がある。


 やはり、この牧場は船見ファームだったのだ。


 暫くそこで雨に打たれていたが、人の気配はなく、私は車に戻った。


 そのまま再び車を走らせたがその先には期待する物は何もなく、元ちゃんの浅川牧場はその痕跡すら見つからない。



 車は峠の展望台へ到着した。展望台には広い駐車場と新しいレストハウスが出来ていたが、観光シーズン前だからなのか、営業していない。


 展望台にはバス停があり、その先には嘘のように立派な道が伸びて、山の向こうへ続いている。昔元ちゃんの言っていた通り、水かきの道にバスが走れるようになったのだろう。


 ライダーハウスの建物を見つけて、一瞬光が見えたように思えた。が、次第に冷静になると、周囲を取り巻くミルク色の霧が、少しずつ気分を暗く沈ませる。


 私はただ、昔の建物がそこに残っているのを見つけただけにすぎない。


 展望台で少しの間考え込んだが、ここまで来て逃げるわけにもいかぬ。私は意を決して車を戻し、牧場入口の駐車場へと下った。



 自販機で入場券を買い求め、ビニール傘を差してディズニーランドの入口のようなゲートから中へ足を進めた。


 久しぶりに見る乳牛には多少興味を引かれ、少しだけ近寄ったりしてみた。しかし雨の中一人で傘を差して山羊やら羊やらを見ていても、空しさが募るだけだ。


 昼飯を食べていない事に思い当たると急にモリモリと食欲が湧き、可愛い動物たちに囲まれながらも猛烈に美味い肉が食べたくなる卑しい性に呆れる。


 場内のレストランはお約束通り山猫軒という名だが、まさか、身ぐるみ剝がされて喰われる心配はなかろうと安易に考えていた。


 ところが着席してメニューを見ると絶望的な料金で、薄い財布にあまり優しくないという意味では随分と身ぐるみ剥がされる思いを味わった。


 おかげで上等な筈のランチを味わう余裕は失せ、何やら場違いの上品な調度類に囲まれ落ち着かない。


 ナイフとフォークを持つ手もぎこちなくて、我ながら嫌になる。


 いつまでも挙動不審な様子を周囲へ撒き散らすのも何なので、冷静なふりをして入場の際に貰った場内マップを手に取り眺めていた。


 案の定、昔のライダーハウス周辺は地図には記載されていない。その近くにあるのは例のロッジとバーベキュー場とキャンプ場である。


 私は次の目標をその辺りに決めて、残りの肉を口へ放り込んだ。その一口だけが、やけに美味かった。


 セットメニューのコーヒーを飲み干すと、渋々勘定を払い外に出た。


 食事をしている間に雨は上がっていたが、まだ薄い霧が場内を覆っている。



 地図を手に、のんびりと緑の中を散策した。広い場内は閑散としている。


 湿った草と、懐かしい例の独特の香りが鼻をくすぐる。決して愉快な臭いではないが、不快な臭いでもない。


 懐かしさと共に、心躍るような感覚を思い出す。ああ、これぞ青春の香り、というには余りに酷い臭いで情けないのだが。


 広いバーベキュー場では数人の男女が物静かに食事をしていた。その先がキャンプ場で、駐車場を挟む最奥部分にロッジがあった。


 ロッジは一見木造建築風だが、近寄ると巨大な切妻屋根を持つ鉄筋コンクリート製の立派な建物であった。階段を上ると一階入り口で、広いロビーを中心に売店とレストラン、ラウンジが囲んで、正面にフロントがある。


 ラウンジで談笑する客やレストランの食事客など、思ったよりも賑わいがあり安心した。値段設定も、こちらはもう少し庶民的である。山猫軒のように豪奢で静まり返った施設であったら、さぞ居づらかろうと危惧していたのである。


 売店を覗いて土産物など眺めたが、ここも山猫だらけの品揃えである。


 山猫高原ブランドは相当幅広く展開しているようだ。冷凍ショーケースを覗きこんだが、牧場製のアイスクリーム各種が普通に並ぶのみで、私の造ったアイスマンは影も形も無い。


 私は落胆し、十二年の歳月を思い自分を慰めた。



 道の駅の観光案内所とは違い、フロントのカウンターには地味だがパリッとした制服に身を包んだ清楚な姿の美女が、身じろぎもせず立っている。


 私と目が合うと笑みを浮かべて頭を下げる。その仕草も一流ホテルの従業員のように優雅な身のこなしで、つい見とれてしまう。


 蜜に吸い寄せられる虫のように、私はふらふらとフロントに向かう。この虫はさぞかし間抜けな顔をしていたのだろうが、彼女は誠意のこもった態度で迎えてくれた。なかなか見上げたものである。


 受付の美女は、近くで見ると思いの外若いので驚いた。もっと年齢のいった落ち着きが全身から滲み出ているように見えたのだが、それは職業的訓練の賜物なのだろう。


 本質的には美女というより美少女と呼んでも良いような若々しさを備えていた。思わずごくりと唾を飲み込む浅ましさである。


 カウンター越しに声を掛けようとしてふと彼女の手元を見ると、そこに気になる絵が描かれていた。私は洩れそうになる声を押さえ、それを良く見る。



 カウンター上に開かれた宿泊案内の片隅であった。さりげなく描かれている小さな錨の印には、確かに見覚えがある。


「あの……このマークは?」


 私は美女の手元を指差して尋ねた。私の如き虫の突然の問い掛けにも、美女は平然と笑みを浮かべて答える。


「それは、こちらの牧場のトレードマークです。以前船見牧場と呼ばれていた頃から使われてきた、古い印です。注意深く探すと、意外と場内のあちらこちらに見つかりますよ」


「なるほど。隠れミッキーみたいなものか」


「……」

 間抜けな虫の阿呆コメントは無視された。しかしやはり、ここは船見牧場だったのだ。私はもう一度唾をごくりと飲み込んだ。


「じゃあ社長は船見さん?」


 私は言いながら彼女の胸元のネームタグを盗み見た。林深雪と書かれている。まさに雪深いこの牧場の女神にふさわしい名前ではないか。



「いえ、船見は会長で、今の社長は浅川です」


「浅川って、まさか元ちゃん?」


 林さん、というか勝手に深雪ちゃんと呼びたいのでここではもう馴れ馴れしくもそう呼ぶことにするその深雪ちゃんは、少し営業スマイルのガードを下げて、目を丸くして私に向かった。


「社長とお知り合いですか?」


 そのまさかである。浅川家の他の誰かではなく、元ちゃん本人が社長? 今度は私が目を丸くする番であった。


「ええ、昔、少し……」


 それ以上何と言って良いのやら。


「あの、部屋は空いてますか?」

 つい言ってしまった。


「はい。お一人ですか? お部屋はダブルかツインになりますが、ご希望があれば承ります」


 一瞬で営業トークに戻ってしまった。なかなかガードは固そうだ。


「ええ、君が一緒ならダブルで」とはさすがに言えなかった。


 案内されたのは景色の良い二階のツインベッドルームで、少し休んでから車と荷物を取りに行くことにした。



 チェックインの際に貰ったカードで、宿泊中何度でも牧場を出入りできる。私は場内をもう一度ぶらぶら散策しながら入口へ戻り、車を第二駐車場へ移動してロッジへ荷物を運んだ。


 暇なので、部屋にあった牧場の営業案内をよく読んでみた。


 牧場が今の名前でスタートしたのが四年前。それと並行して周辺の道路整備や山猫高原を中心とした町起しが進められてきた。


 元々牧場のあった一帯は山根という地域で、地元では山根高原と呼ばれていたらしい。そこをもうひと捻りして山猫高原と名付けたのが五年前。以来、官民一体となった開発が功を奏し、今では新しい観光地として注目を集めている。


 なるほど。大体の流れはわかった。それにしても、あまりに大きな変貌ぶりに戸惑いは隠せない。こんなに大規模な開発資金はどうやって調達できたのだろうか。経営はどの程度安定しているのか。ついつい心配になる。


 それでもこの場所は素晴らしい。窓からの景色は幻想的で心が安らぐ。緑の草原と涼しげな森。遠く望む黒く沈んだ山肌に白い霧が絡みつき、地形の起伏に沿って乱れ、うねりながら風に流れる。



  

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