24 到着



 雨と風が激しくて、温泉には二泊することを強いられた。湯に浸っては食べて寝るだけの生活も、二日くらいなら悪くない。


 飽きない程度に、というよりは、癖にならない程度にそこそこの休養を取るのが望ましい。少し油断をすると何もしない事が当たり前になってしまう。


 その後には、勤労意欲も創作意欲も雲散霧消して、搾りカスのように茫洋とした奇人のみが残る。


 外道の漫画家から漫画を取り除くと、単なる無能の変人、役立たずの酔っ払いでしかないという。


 酷い言われようであるが、そうして一発ヒットを飛ばしただけで消え去る漫画家を何人も見て来たのだ、と朝霧からは繰り返し説教された。


 私としては、とにかくその前に、その一発ヒットを飛ばすという経験をしてみたいものだと常々考えている。



 三日目になっても日本海側はまだ雨模様なので、内陸へ入り直接牧場を目指す事にする。


 長雨で地盤が緩み崩れた箇所が多く、あちこちの道が通行止めになっていた。


 辛うじて通れる道にも山から落ちる泥水が滝のように流れ、路肩には子供の頭程もある石が積み重なるように落ちている。


 こんな状態でも通行止めが解除されたということは、まだ安全なのだろう。周囲の他の道には、どれほど深刻な被害が出ているのだろうか。


 大型台風が通過した後のような荒廃した土地を過ぎ、岩手県へ入ると若干風景は穏やかになった。


 被害に会った土地の人々のことを考えると、胸をなでおろす訳にもいかぬ。


 崩れて土がむき出しになった茶色い山の斜面を遠くに見ると、妙な胸騒ぎがして動悸が治まらない。


 嫌な予感が胸の底へ砂のように堆積する。凝固した不安は異物と化して、心の襞に棘を刺す。


 私の内面奥深くに達し広がる不安の波は、自分でも意外なほど大きく乱れていた。


 大声を張り上げ景気の良い歌を歌いながら、昼なお薄暗い道を走った。


 ヘルメットの中に響く自分の歌声と単気筒エンジンの鼓動が、景色に似合わぬ陽気なリズムを刻んだ。


 速度の上がらぬ道行きに焦燥感は募る。日が暮れて悪路を走るのは避け、早めに通りすがりの温泉旅館へ宿をとった。



 いつものように温泉に浸かり、湯上りのビールを飲めばすっかり気持ちは落ち着いて、良い気分である。


 しかしその夜、私は悪夢にうなされて幾度か目覚めた。


 どんな夢だったのかは記憶にない。さすがにいわくつきの部屋ではないかと怪しんだが、もう遅い。寝不足のまま早い夜明けを迎えた。


 雨が上がっていたので、近所を散歩に出た。早朝の空気は湿った草の香りが強くした。牧場の朝を思い出す。


 水溜りを避けながら、田んぼの畦道をのんびり歩いた。


 たっぷりと休養をとったせいか、少しの寝不足くらいは平気である。寝ずに仕事をすることは、ここ何年か当然のようになっていた。


 雑誌掲載の締め切りが迫ると、私の部屋へ編集の朝霧が様子を見に来る。そんな時には決まって奴は私を無理矢理飲みに誘い、朝まで二人で飲んで別れる。


 朝霧はそのまま編集部に戻り昼まで仮眠して、何事も無かったかのように原稿を取りに来る。


 私はその間部屋に戻って寝ずに仕事をして、何とか間に合わせるよう漫画を描き続ける。


 締め切り前にそんな事を二三日繰り返すと、もう起きているのか寝ているのか、呑んでいるのか仕事をしているのか不明なトランス状態となり、どこかでフッと意識が飛んで、気が付くと着の身着のままで目覚めることになる。


 その場所が自分の部屋なら良いのだが、編集部の小汚いソファの上であったり、閉店した呑み屋の片隅であったり、もっと酷い場所であることも多かった。


 そんな時、私は我が身の不幸を呪いながら、早くヒットを飛ばして担当編集者をもっとマトモな別の人物に変更すべく主張できる日を夢に描いていた。


 まだまだ、その日は遠い。



 朝の散歩で気分は爽快になり、朝食もたっぷりと食べた。生まれ変わったような新鮮な気分で今日は牧場へ向かう事にする。


 朝食後部屋で熱い緑茶を啜り、心と体の準備を整える。六年ぶりに訪れる牧場は、どうなっているのだろうか。


 嶋さんは結局大学を卒業して、そのまま牧場で働いているらしい。婆さんも持病の腰痛以外に悪いところも無く、元気であるという。


 気を静め、平常心を保ち、私はバイクに乗った。


 雨がいつ落ちるとも知れぬ曇り空であるが、辛うじて降り始めないまま道の駅まで辿り着いた。



 道の駅の近隣にはコンビニとうどん屋が新しく開店していて、ガソリンスタンドはセルフの店になっていた。


 予想に反して、道の駅に婆さんの姿は無かった。それ以外は、ほぼ六年前のイメージと変わらない。


 違うのは施設が六年分古くなり、広い駐車場のアスファルトにひび割れが目立つ事くらいか。観光案内所の姉ちゃんも、六年分歳を食っているような気がしておかしかった。


 小腹が空いたので名物の南部せんべいを買った。こんなところで時間を潰す意味も無い。何にせよ、早く牧場へ行くべきだった。私は慌てて何枚かせんべいを齧って、出発した。


 道の駅を出ると、様子は一変する。道路が格段に良くなっていた。拡幅された滑らかなアスファルト舗装が続き、非常に気持ち良い。感動して走っていると、あっという間に牧場の駐車場に到着した。


 道の駅と同様、船見ファームもあまり変わっていない。


 近藤さんのレストランと売店があり、キャンプ場の受付がある。そして、ライダーハウスもそのまま残っていた。


 駐車場には数台の車があるだけで、閑散としている。不思議な事に、オートバイの姿も見えない。



 私はライダーハウスの前にバイクを停めて、まずはレストランに向かった。


 店に入ると、牧場ロゴ入りの派手なエプロン姿をした姉ちゃんが、威勢の良い声で迎えてくれた。私はカウンター席に腰を降ろし、アイスコーヒーを注文する。


「近藤さんはいる?」

「はい。ご用ですか?」


 私はそれに答えず、奥の厨房に向かっていきなり大声を出した。

「おおい、近藤さーん、久しぶり」


 私の声に、奥から白クマのような料理人が顔を出す。

「なんだ、アイスマンか。やっと来たな」


 近藤さんは背の高いコック帽を取り近寄ると、カウンター越しに私の頭を撫でまわした。


「おっ、おまえもバイクに乗るようになったか」

 近藤さんは目ざとく私のヘルメットを見つけて嬉しそうに目を細める。


「うん、中古のボロバイクだけど、何とか故障しないで辿り着いたよ」


 昔ここで出会った大勢のライダーたちの仲間に、やっと自分も加えてもらえたような気がして嬉しかった。


「親方からおまえが来るって聞いてて、毎日待っていたところだ。ほら、待ちくたびれて首がこんなに長くなっちまった」


 だが、ますます肥えた近藤さんの首は太く短く、白髪の増えた髪は薄く脂ぎっている。私は思わず笑ってしまう。


「いや、近藤さん、首無いって。太りすぎだよ」


「おまえは相変わらずモヤシだな。ちゃんと飯食ってるのか?」


 それから近藤さんは奥へひと言掛けてから私の隣に座ると、がっちりと握手した。昔と違い、どうやら厨房には、他に仕事を任せられる者がいるらしい。


 コーヒーを飲みながらひとしきり談笑していると、店の入口が開いて、陽に焼けた背の高い男が入って来た。短い髪ですぐにわからなかったが、嶋さんである。私はその坊主頭を指差して、またもや大笑いしてしまった。


 嶋さんはそんな私の無礼を気にすることも無く寄って来て、私の肩を掴んで振り回した。



 それから元ちゃんと慎さんがやって来て、レストランはえらい騒ぎとなった。


 客のいないのをいいことに散々大騒ぎをして、みんなでそのまま早目の昼食を食べた。


 食後に荷物をライダーハウスへ運ぼうとすると、こら、と軽く言われて慎さんに荷物を取り上げられた。


 そのまま仕事に戻る三人に周囲を囲まれて、無理矢理親方のいる母屋まで連行された。



  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る