23 マリリン
さて、私はそのまま黙って北へ向かったのではない。野次馬根性丸出しで、昨夜爺さんに教わったマリリンの池を目指して山中へと分け入ったのである。
漫画のネタにも使えそうな、こんな面白い話を逃す手はないだろう。幸い雨は上がっている。
海辺の町から川沿いに内陸へと伸びる狭い国道を行くと、古い温泉宿を多く抱えた優しい雰囲気の街に出る。魅力的なその街を素通りするのには、相当な意志の強さが求められた。
私は強固な決意を胸に、国道を真直ぐに走る。そして温泉街に決別し右に別れる県道へ折れると、次第に道は曲がりくねった山道となる。
ゲートを超えて林道へ入ると、やがて穴だらけ、落石だらけの舗装が切れて、細く荒れた水溜りばかりの砂利道へと姿を変える。
道はそのままぐんぐん高度を上げる。あまりに何もない深い山の中を、道は続く。こんな時こそ、オフロードバイクが真価を発揮する。
……筈なのだが、ダンパーのへたったサスペンションに後輪は暴れて跳ねまくり、必死でハンドルを押さえて転ばぬように走るのが精一杯である。
深い轍と落石を避けながら、ずるずる滑るタイヤに冷や汗をかく。
シートに腰を降ろす余裕も無く、腰を浮かせて走る事に疲れていた。不安が次第に膨らみ、最早弾けんばかりである。
いい加減にどこかで停まって休もうかと適当な場所を探しながら速度を落としていると、無事に峠の駐車場へ到着した。
確かに、ペンキで書かれた大きな地図がそこにあった。
幾つかあるハイキングコースの一つが、爺さんの言っていた池を通っている。
池まではここから徒歩で三十分。更にその先三十分で毛無山の山頂だ。道はそこで行き止まりである。絵で見る限り、確かに文字通り木の無いなだらかな丸い頂で、晴れていれば景色は良さそうだ。
まあ、いつまた降り始めるかわからぬ今の天候では、そこまで行く気は毛頭無い。
幾分色が薄くなってはいるが、下膨れのサツマイモが確かに描かれている。池の名前はない。
駐車場の片隅には毛無山コースと書かれた木の案内板が狭い山道を見上げている。朽ち果てかけた道標が指す方向には、滑りやすい赤土の階段が待ちかまえていた。
駐車場には私のバイクが一台だけだった。つまりこの先へ登っても誰かと出会う可能性は、ほぼないということだ。
時折薄い雲が切れて、青い空が覗くことがある。陽射しが差すことは滅多にない。
ドロドロの道を滑らぬよう必死で足元ばかりを見て歩く。その足元に、汗が滴り落ちる。
息が切れると足を止め、空を見上げる。雲の流れが速く、時折青空が覗く。鶯の声が頭上を渡る。喉が渇くが、何も持たずに登ってしまった。
そうしてのんびり三十分歩くと、本当に池へ辿り着いた。
思っていたよりも、池は大きい。水は澄んで、飲めそうな程清らかだ。きっと冷たく、美味いだろう。が、私の乾きはまだ我慢できる範囲で、そこまでしようとは思わない。
深い森が池の水際まで迫っていて、水面を近くで見る場所が少ない。畔に幾つか並ぶ低い大きな岩の一つに寄りかかり、岩越しに水面を眺める。流れる雲が映り、暫く見とれた。
静かだった。
誰一人いない。河童もいない。マリリンもいない。当たり前だが、ややがっかりした。
マリリン、居ないのか。
口に出して言ってみると、その語感が気に入った。他人の姿が見えないので、もう少し大きな声で言ってみる。
「マリリン、居ないのかぁ」
頭上に揺れる木の葉の囁きをかき分け、強い言葉が水面を渡る。
うん、情緒があっていい感じだ。
「居るわよ」
寄りかかる岩の向こう側から声がして、心臓が止まりそうになる。誰だ、こんなところに隠れているのは。恥かしいではないか。
恐る恐る身を乗り出して岩の向こう側を見下ろすと、岸辺に一人のうら若き女性が立っていた。
と思いたかったのだが、予想通り岩の向こうは池の水である。
人が立てる場所などない。背中に冷たいものが走り、小鳥の囀りや森のざわめきが一瞬にして遠のく。
そこには、透き通った池の水から白い肩を出して、私を見上げる金髪の美女がいた。これは爺さんのホラ話ではなく、本当のことである。
「何か、ご用かしら?」
マリリンは、普通に日本語で言った。
「日本語、上手なんだね」
私の口から出た言葉は自分でも意外で、しかも間抜けな声だった。
「あら、英語の方が良かった?」
彼女は私を見上げたまま、柔らかく微笑む。濡れた金髪が淡い陽射しに輝いた。水中で白い胸がふわりと揺れるのが見えてドキドキする。
「いや、そのままで。……昔、あんたと出会ったという男に話を聞いたんだ。その男は、あんたともう一度会う時のために、一生懸命英語を学んでいたんだよ。その男が来たら、英語で話してやってくれるかい?」
私の話を聞くと、彼女の顔に赤みが差して、嬉しそうな笑顔が広がる。
「覚えているわ。ずっと以前、そう、最初はきれいな満月の晩だったわ。私も彼が来てくれるのを、ずっと待っていたの。彼はお元気?」
「ああ。歳はとったけど、まだまだ元気さ」
マリリンは両手で顔を覆った。泣いているのだろうか。
「彼は今も、あんたが何者なのか知りたがっていたよ」
彼女が俯くと金髪が水面に広がり、静かに波打ち、揺れる。
「それならば、もう一度来て、と伝えて」
彼女は苦しそうに、くぐもった声を出す。
「ああ、わかった」
明るい風景の中、不思議と恐怖感は無かった。
「あなたの大切な人は、元気かしら」
彼女は顔を上げこちらを仰ぎ見る。頬を伝うのは涙か、池の水か。
「残念ながら、出会いに恵まれなくてね」
大切な人、ですか。情けないが、思い当たる節が全くない。
「そうかしら。でも、あなたにお礼をするわ。この池の水を一口飲んで御覧なさい。それできっと、何でもひとつだけ、あなたの望みが叶うわ」
そう言うと、マリリンは滑らかな泳ぎで深みへ去っていく。
水面には僅かな水紋が流れただけだった。私はその姿が池の青い水に溶けて見えなくなっても、長い間動けなかった。
気が付くと、池に音が戻っていた。野鳥の声に混じって、細い幽かな歌声が聞こえる。
昨夜爺さんの家で聴いた、あの曲である。月は新しいが夜は寒く、恋は終わった、と歌う。
恋人よ帰って来てって、歌そのままではないか。爺さん、一体あんた、ここで何をしていたんだ。
口の中はカラカラに乾いていた。けれど、池の水を飲む気にはなれない。
今見た彼女の存在自体を、幻想のベールに包んだままそっと取っておきたいと思った。
私は踵を返し、山を降りた。
冷静なふりをしていたが、心は動揺していた。慌てていたため途中で三度滑って転んで泥まみれになったが、怪我も無く駐車場へ辿りついた。
その夜、日中通り過ぎた温泉街へ戻って宿を取り、私は爺さんに絵葉書を書いた。
爺さんの言った通り、そこにはマリリンがいた。本当に人魚であったのかは定かではないが、確かに金髪の美女が池の中にいた。
そして、もう一度来て、と伝言を頼まれた。
残念ながら、私にも彼女が何者かはわからない。知りたければ、自分で行くべきだ。彼女は待っている。
彼女が何者であろうと、五十年の長きにわたり待っていたのだから。
だが、一体何のために?
それを言うのは、野暮な話だ。頬を染めた彼女の姿は、まさに恋する乙女のそれであった。
爺さん、あんたは罪な野郎だな。
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