全身に衝撃が走る。息が詰まった。肺に空気が入らず呻き声も出ない。遅れて足に激痛が走る。


 生きているとはいえ、鮮烈な痛みで今にも死にそうだ。動く金属板のようなものの上に僕はいるようだ。手で確かめると僕の身体に沿って金属板が凹んでいる。


 走る車のルーフの上だ。


 僕を乗せた車のタイヤが、きゅるきゅるという摩擦音を立てた。平衡感覚を失った車体がふらつき、僕はルーフから転がりボンネットに落下する。僕の身体から血液が飛散して、フロントガラスの向こうにいる運転手の女性を驚かせてしまう。雨と血糊でべとべとの僕をワイパーが左右に送り出す。突然かけられたブレーキで僕は交差点に投げ出される。アスファルトに落とされて、あの車はクーペだったなと薄れゆく意識の中で思った。ブレーキ痕を残しながら、赤信号に侵入していく女性のクーペを見守る。


 間髪入れず大型トラックのクラクションが放たれた。交差点に直進してきた大型トラックが止まりきれずにクーペと側面衝突、クーペをかっさらっていく。トラックに潰された人間の断末魔が、激突した電信柱で制止した。




 舌先に血と雨の味が混ざっている。


 暗い部屋にビニールのカーテンで仕切られたベッドに、僕は寝かされていた。酸素マスクから送られる酸素は冷たくて気持ち悪い。徐々に意識が覚醒してくると、指には洗濯ばさみがついていることに気づく。これは、医療ドラマでよく見るやつだ。これを指に噛ませると脈拍とかが分かるんだっけ。


 頭が重い。足も重く、感覚がない。息苦しいので酸素マスクを外そうとして、右手に激痛が走った。右手は包帯をされ、手首にボルトのようなものが入っている。なんだこれ。どうしてこんなことに。小指にいたってはなくなっている。頭に包帯が巻かれている。右足は切開されたのか包帯に血が滲んでいる酷い有様だ。


 ここは病院のようだ。一般病棟なのか、隣のベッドから誰かの寝息が聞こえる。消灯していることから今は夜のようだ。僕は危なく歓声を上げるところだ。ついにショッピングモールから出られたんだ。


 慌てて飛び起きたので、あちこち飛び上がりそうなぐらい痛かったし、実際腰の辺りで跳ねた。


 ベッドの上でのたうちながら、何とか左足を床につける。右半身が悲鳴を上げる。できるだけ左足に体重を乗せてベッドから降りたつもりだったが、自身の体重を支えきれず床に転倒する。呻いてしまったが、隣のベッドの人は熟睡している。


 壁へ芋虫のようにもたれかかってようやく立ち上がる。裸足だ。服も手術後に着せられるような薄緑の病院着を着せられている。


 生きている――生還したんだ。


 笑いを堪えるのに必死だった。笑うと足に響き電流が走ったように痛む。


 病室から出て、スタッフテーションの灯りを目指して進む。スタッフステーションの時計を盗み見てまたしても歓喜してしまう。


 今は深夜二時だ。時間が進んだ。しくしくと泣くような押し殺した笑い声しか立てられない。時計の針が動いているだけでこんなに嬉しくなるなんて思わなかった。スマホの時計なんか見るのはやめて、アナログの腕時計を買おう。


 スタッフステーションの押し殺した笑い声は、危なく深夜の怪談となりかけた。看護師が飛び出てきた。だが、それは僕が病室を抜け出したことに気づかれたからかもしれない。僕は動かない右足を投げ出して座り込み、床を転がって隣の通路に隠れた。通路はH型になっている。病棟が二列に併設されているようで、女性用の病棟に入り込んだ。


 床の緑のリノリウム、廊下の白ペンキの壁は年季が入って黄ばんでいる。見覚えがある。


 ここは、彩の入院している角間かどま総合医療センターだ!


 僕の最終目的地だ。とうとう着いた。彩は集中治療室にいるはずだ。


 右手が軽いな。包丁がないから本来の右手がこれほど軽いとは思わなかった。


 スタッフステーションにはまだあと二人いる。ここには流しがありそうだ。包丁を拝借するにはあとの二人も急用で動いてもらわなければならない。


 よし、ナースコールを押しまくろう。最低でも三人のナースコールを押せば分散して動いてくれるだろう。


 まず自分が素早く動けないので病室を一つ一つ見て回り、車椅子か松葉づえを探す。スタッフステーションから遠い男性病棟をメインに移動する。音を立てずに呻き声も上げずに見て回るのは骨が折れた。彩に早く会いたい気持ちを抑えて、せっかくここまで来たのだから、もう少し待てるだろうと自分に言い聞かせる。


 だが、そう簡単に見つからなかった。骨折したのは僕だけかよ。


 仕方がないので大部屋で眠っている四人のナースコールを順番に押した。


 時間との勝負だ。早く走れないので、二つ隣の病室でやってきた看護師をやり過ごす。


 スタッフステーションにはまだあと一人がいたが、誰かに電話をしているようなので、僕は思い切って這って流し台に向かった。見咎められても僕だって患者だから迷い込んだとは思われても、まさか包丁を狙ってやってきたとは思わないだろう。


 鎮痛剤が切れてきたのか僕の足が拍動するように痛んだ。


 スタッフステーションに這って入りこんだ。


 流しの扉に寄りかかって扉を開けたとき大きな音が鳴ったが、まだ看護師は電話中だ。


 包丁を取り出し、流しの扉もろくに閉めずにほふく前進でスタッフステーションをあとにする。


 彩のいる集中治療室の場所は知っている。西の一般病棟にスタッフステーションが向かうようにして設置されているが、東にも似たようなスタッフステーションがもう一つあり、その隣が集中治療室だ。


 東側に行く途中、何度か病室に紛れ込んだときに、松葉づえを見つけた。これで各段に早く移動できる。と思ったが、駄目だ。僕の右手は僕自身の体重を支えられなかった。せっかく手に入れた包丁もずっと左手で持っている。


 東側のスタッフステーションの前でもう一度ほふく前進する。集中治療室への扉は奥まったところにある。中に看護師がいたらアウトだが、そのときは包丁で脅そう。


 幸い看護師は中にはいない。スタッフルームで遠隔で監視されている可能性が高い。すぐに誰か来ると思って行動した方がいい。


 集中治療室はビニールのカーテンに覆われた部屋が複数あり、中央のベッドに彩がいた。


 やっと会えた。


 彩は酸素マスクをしてぐっすり眠っている。


 ごめんな彩。まさか、彩の運転している車の上に落ちるなんて思わなかったんだ。


「……浜田くん」


 彩の寝言はいつもそうだ。僕の名前が出たことはない。ウダガワくんってどんな漢字だった? と聞かれたこともある。そんなことは気にしない。


 僕は彩のためならなんでもしてやる。彩の願いを叶えてやれば、きっと僕をこれまで以上に愛してくれるだろう。


「待たせてごめんな。彩の子供、ちゃんと堕ろしてやるからな」


 時間もないし、技術もなかった。彩の手術着をまくり上げ、股に手を伸ばす。大きな腹はもう掻把できない時期だが、元々医師免許はないわけだし、やれるだけのことをやろう。


 彩の膣に包丁をねじ込んだ。彩は飛び起きて足で僕の顔を蹴った。だが、やめるわけにはいかない。何度も膣に向かって腕を突き出す。使えるのは左手だけだ。彩は痛みのあまり絶叫する。足をばたつかせるので間違って、太ももを包丁で裂いてしまう。が、二度目の刺突で外陰部は熟れた柿のように裂けた。僕の手首が埋まるほど深く彩の内部を掘り進んだ。


 喘いだ彩が嫌々をするように泣き叫んだ。


 彩は十分美しい。膣を掘り進むと、包丁の先端が尾骶骨に当たる。もっと、上に突き上げていかないと子宮に辿り着けない。赤子の頭はどこにある。


 もう丁寧にやっていられない。躍起になって膣じゃない穴にも包丁を突っ込んだ。つまり肛門だ。


 糞尿がひり出してきた。鼻がもげそうな臭いだがどうってことはない。今の僕はチョコレートの仮面をかぶっていなくても、甘い香りを思い出せる。血生臭い匂いと糞尿の臭いと甘美なチョコレートの臭いがごた混ぜになる。


 彩が苦し気に泣く、赤ちゃんはどこにもいない。


 僕は彩の腹の上から包丁を突き立てる。


「彩ごめん。ごめん。ごめんよ。痛かったね。でも望みを叶えてあげるから。強い男の方がいいんだよね。彩がこんなになるまで何もしてやれなくてごめんよ」


 絶叫した彩はしばらく身もだえしていたが、やがて動かなくなった。ベッドから流れ落ちた血がリノリウムの床に血溜まりを作る。彩の血とも胎児の血とも区別はつかない、どす黒い血だった。


「彩?」


 しまったやりすぎた。彩まで殺してどうする。なんて馬鹿なことを。や、やりなおしだ。こんなことあり得ない。


 包丁を持つ僕の左手は震えている。彩、ごめんよ。


 自分の髪を動かない右手で掻きむしろうとして、上手く行かなかったのでこめかみを殴りつける。


 どうしてこうなった。僕は彩ただ一人のためを想って突き進んできた。なのに彩を。なんてことを。無意識のうちにこんなことをするなんて、僕は狂ったのか。彩をこんなにも愛しているのに。まさか、彩が僕を愛していないから僕はこんなことをしでかしたのか?


 悪寒が背筋を這い上がるので、首を振ってなかったことにする。余計に気分が悪くなり、空えずきになる。


 背後から柔道の達人といった体格の医師が現れた。わっと一声上げたかと思うと、僕に飛びついてきた。


「君。何をしているんだ」


「子供を、子供を消してくれ」


 僕は半狂乱になって叫びながら医師に包丁を向けた。だが、運悪く彩と胎児の血に足をすくわれた僕は、前に転倒する。医師は逃げた。僕は自分の喉に包丁を突き立ててしまった。


 視野暗黒が広がり、何も見えなくなる。自分の喉から血の混じった泡を噴く。息が吸えない。苦しい。自分のものとは思えない喘鳴ぜんめいが遠くで聞こえる。


 強烈な刺激が胸を貫いた。遠のいて意識が苦痛と共に呼び覚まされる。この感覚、僕は知っている。


 ――雷だ。


 僕を何度もモールに導いたあの雷の正体。あれは、電気ショックだったんだ。


 医師は僕が殺そうとしたにも関わらず、僕を蘇生させようとしているのか。


 あのショッピングモールの雷が懐かしい。随分昔のように思える。二十回以上もループしていた僕ら。何もかもが遠くなる。そうだ。例えこのまま死んでも僕は彩に会えた。それでいいんじゃないのか?


 それでも、彩の姿をもう一度目に焼きつけたい――。




 ふと目が覚めた。集中治療室で呆然と僕は立ちすくんでいる。


 喉に包丁が突き刺さり絶命している僕の遺体はもう運び出された。僕はそれでも半透明になって視界だけは失わずにすんでいる。幽霊のような状態になっているのかもしれない。


 時刻は昼も過ぎ、午後二時三十分を指している。


 警察が来たり医師が事情を説明していたりしており、人の出入りが激しい。


 彩はあれだけ刺したのにさっきまで生きていた。午後二時十分に亡くなったと警察に医師が説明している。


 僕は彩が致命傷を負ったベッドを見つめた。現場検証も一時間程度で終わり、彩の血が付着したシーツはもう取り替えられ、床の血痕もモップで拭き取られてしまった。


 少しでも血痕が残ってはいないかと、彩の痕跡を探していると、僕のすぐ傍で半透明の人物が棒立ちになっているのに気づいた。


 スーツを着ていて、僕と彩の葬式に駆けつけた親戚のように見えるが、高身長のそれで日本人ではないと分かる。しわしわの外国人男性の横顔を見て、メイクをしていなくとも誰なのか分かった。ピエロだ。


 ピエロはいつまでも黙っているので、僕も黙ったままでいた。僕らには時間の概念がないのか、いくらでも棒立ちでいることができた。ちっとも疲れというものを感じない。


 時計の針だけが進むんでいき、やがて集中治療室には新しい患者が運ばれてきて、慌ただしく医師らが処置を施す。


 医師らは僕らの身体を貫通していく。


 僕はネイビーのダウンジャケットの襟を無意識になおし、モールにいたときの服を着ていることに気づいた。死んだら自分のイメージする姿になるのだろう。


 突然ピエロがその白い顔を僕に向けた。彼も紺色のヴェネチアのカーニバルのような衣装に早変わりしている。


 不意に、真っ赤な口が開かれる。


 ウンメイ ノ ワ カラ……。


 もういいって。ノガレラレナイなら、それなりにやってやろうじゃないか。


「また彩に会える」


 僕の声は僕らを貫通する医師らには聞こえない。


 ピエロははじめて僕の目を見据えた。吸い込まれそうになる闇をそのまま眼窩(がんか)に宿したような目だった。


 僕は歯を食いしばる。


 彩。もう一度会いに行くから。


 ピエロが金属音のような声で笑うと、集中治療室の壁の時計は、午後二時十分に巻き戻っていた。


 はじめからピエロなんていなかったかのように、ピエロの代わりに、亡くなった直後の彩がベッドに横たわっている。


 ああ、またはじまった。僕の本当のループのはじまりは、ここだったんだ。


 ループはモールに雷が落ちたときから始まっていたとばかり思っていた。本当はこの病院からはじまっていたんだ。僕が包丁を喉に突き刺して死んだ瞬間から。


 僕の目的はモールのループから脱出することなんかじゃなく、モールのループを経てこの病院に辿り着き、彩のために子供を殺すことだった。


 誤って彩まで殺さないように。


 彩の顔を目に焼きつけておこう。しっかりと、髪から人工呼吸器のはめられた口元も。


 彩とはもうお別れだ。


宇田川うだがわくん」


と最後に唇が僕に呼びかけたように見えた。そんな馬鹿なことがあるわけがない。全部妄想だ。彩のために生きる宇田川湊うだがわみなとは、もう二十回以上死んでしまっている。彩のいない世界では生きていけないから後悔はない。


 僕は早足に集中治療室を後にする。電動キックボード「ループ」をレンタルしてこないと。スマホで時刻を再確認する。


 午後二時十分――時間は十分にある。

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堕環 影津 @getawake

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