第二章

 三階、北西のゲームセンター『イムコ』で僕はクレーンゲームをしていた。


 ゲームキャラのアニモンを取ろうと、しずしずと百円玉の代わりにスマホで支払う。外部とは連絡できないくせに、スマホ決済はできるのかよ。この異空間でどれだけ決済できるのか知らないが、遊びつくしてやる……というわけでもなく、ただ人恋しくてうるさい場所に身を置いただけだ。


 誰もいない広い場所で一人いるよりは、せせこましいゲームセンターで騒音にもまれている方が一人を意識しないでいられる。


 僕には何かがきっかけとなり、熱中するとエンジンのようなものがかかることがある。趣味の陶芸がそれにあたるのだが、ほかにも短距離走なんかはそうだ。体育は嫌いだが、走る行為そのものについては嫌いではない。


 中学のとき大阪府内の短距離走の大会で百メートル走三位だった人がクラスにいたが、そいつを運動会で抜いたことがある。練習しないでその速さはずるいと僻まれたが、競争に興味がないのだから仕方がない。陶芸のようにああでもないこうでもないと、着実に自分の腕が上がるのを実感できるのが、走り込みだ。今日は何秒で走ったなとかちょっとしたジョギングをしていただけだ。練習はある目的があって実行するだろうが、僕の走りは陶芸とは別のエンジンがかからないか、実験したまでだ。そしたら僕には足が速いという種みたいなものを発見した。僕はそれを伸ばすつもりはない。あくまで、自分と対話する方法が走り込みだっただけだ。それもエンジンがかかったときしか走らないので、走るのは不定期だ。


 アニモンに向かってクレーンを動かしながら、孤独を紛らわせるために状況の整理でもしてみるか。誰もいないから走り込みをしてもいいけど。


 僕は何らかの理由でハーフェンモール角間かどまにやってきた。人混みはどちらかといえば苦手なので、巨大モールに一人で来るとは考えにくい。そして、大事な点は、僕が一部の記憶を失っていること。さすがに、自分のフルネームやこのモールのことを忘れてしまうことはなかったが。


 今はだいぶ手の赤みが引いたとはいえ、頭も熱かったことから雷に打たれた可能性が考えられた。髪が少し焦げていたし。少しってのが不自然じゃないか。僕は自分の肉体が黒焦げになった姿を想像することができない。だから、中途半端に焦げた姿をイメージしているのかも。


 自分はもう死んでいて、まだ生きていると思い込んでいるだけなのかもしれない。まさかな。


 いつまでも目を背けていては解決しない。僕は死んだと想定してみる。本当はこのモールには人がいて、僕は幽霊だから生きている人の姿が見えないのかもな。生きた人間からも僕を視認することはできない。


 嫌だな。説明がついたかもしれない。霊感の強い人に僕を見つけてもらうしかないのか。


 アニモンはクレーンのアームから景品出口の手前で落下する。またスマホをタッチして課金する。肉体は死んでもゲーセンに金を搾取されるらしい。


 苦笑していると、クレーンゲーム機の筐体きょうたいの向こうに黒いものが見えた。闇かと思って身体が強張る。それが弾んで駆けて行くのを見て、人の頭部だったと気づいた。


 ほかにも人がいる。


 心臓が早鐘を打つ。死んでるのにな。もしかして、僕はまだ生きてるのか?


「待って」


 相手が人ならなんでも良かったが、ゲーム機の間をまっすぐに逃げていったのが子供だと分かると俄然、持ち前の俊足を活かせた。逃げる者を追うと、エンジンがかかる。


 感覚的には数歩で追いついたような状態だった。男の子の肩をつかむと、ロボットのように男の子はぎこちなく立ち止まった。


 男の子は黒のパーカーにジーパン姿。顔は粘土をこねて作ったかのように丸く、茶色の髪は頭にちょこんと乗っている。この子は。


「どうしてここに?」


 あくまでも今が普通の状態であることを装って僕は尋ねた。そうしないと怯えた目で見上げてくる男の子より、僕の方がパニックを起こしそうだった。


「ここ、大好きなの」


 沈黙。こんなことを聞きたかったわけではない。男の子は僕の顔に何かついているとでも言いたそうな顔をしている。きっと僕の爬虫類顔を動物に例えようとしているんだろう。


「君の名前は?」


「……マサキ」


 マサキ? まさくん? そうだ、この子だ。この子と屋上にいた。記憶がはっきりとしてくる。それからあと二人の小学生の女の子二人がいたはずだ。


 屋上のキッズプレイゾーンに僕らは四人でいて、この子が走り出したのを追った僕は雷に打たれたんだ。どうして僕だけという疑問が頭に浮かんだが、子供に嫉妬しても仕方がない。今は僕が人類最後の一人ではなかったことを喜ばないと。


「なぁ、まさくん。君は今までどこにいたんだ?」


「どうしてお兄さんに言わないといけないの?」


 まさくんの顔に不信の色が浮かぶ。こんなに警戒心の強い子供だっただろうか? もっちーとマリー・ガガがいてくれれば。そう、あの女子小学生二人組の名前はもっちーとマリー・ガガだ! まさくんを思い出したことで芋づる式に思い出せた。


「お兄さんの顔、カメレオン」


 ああ、僕の顔は人から見ればイケメンのときもあれば、ブサイクに見えるときもあるし、スポーツができそうと思われたり、引きこもり気質にも見える不思議な顔だ。


「そう見えるらしいね」


「雷」


 まさくんは僕が雷に打たれたことを言ってるのか。一番近くにいたのはまさくんだ。僕が死んだところをまさくんは見たのか。それとも、まさくんも死んでいるのか。


「怖かったね」


 僕はまさくんを慰めようとしている。だが、本心でそうしていたわけではない。知っていることがあるのなら、なんでもいいから話して欲しいという思惑が働く。


「君は雷が落ちた後、どこにいたの?」


 返事はない。


 まるで死神にでも遭遇したかのような目で、まさくんは僕のつり目を見ているのだろう。


「君も忘れてるのか?」


 まさくんは首を振りながら後退った。そして、雑貨店の方を通って中央のエスカレーターに向かっていく。逃げたっていつでも追いつける。モールに人がいたんだから、何も心配することはないのだから。


 ところが、全力とはいかないまでも小走りで、例えば獲物が疲れるまで待っているハイエナのような走りでまさくんを追っていると、中央エスカレーターからいきなり何者かがまさくんに飛び掛かった。


 僕はぎょっとして立ち止まる。靴底が摩擦でぎゅっと音を立てた。


 飛び出してきたそれは、身長一七五センチの僕とほぼ変わらない体躯の人間だった。黒のナイロン製レインコートに身を包み、フードを被っている。ズボンも黒。スニーカーだけ白い。それから、驚いたことに顔は黄金のマスクだった。光沢はないが、それが不気味さを醸し出している。


 なんだあいつはと思ったが、僕はあの仮面を一度目にしていることに思い至った。一階のバレンタインイベント会場の展示物、二万四千円のえげつないチョコレートマスクだ。


 その不審者がまさくんに組みついている。


 まさくんの悲鳴はあっけなく途切れた。喉から喘鳴が隙間風のような音を鳴らす時間の方が長かった。やがて仮面の不審者の下で指一つ動かなくなった。


 僕が何か叫んでやめさせればよかった。慌てて追いついたときには、レインコートの不審者は何やら手に赤いものを持っているのが見えて、僕の身体は硬直してしまった。そいつの手には包丁と赤いリボンがある。包丁は四本もあった。それを各指の間に挟んでいる。赤いリボンで巻いて固定されていたから常に包丁が爪のような状態になっている。赤いリボンもバレンタイン会場の装飾のものだろう。


 四本の包丁のうち一本の切先から血が滴り落ちている。まさかこいつは、五歳ほどの子供を本当に手にかけたのか?


 まさくんの首から血が拍動に合わせて噴出しているのが見えた。自身の血で溺れているような音がしている。酷い。なんてことを。


 僕は男に何か言わなければと何かを発したが、喉が干上がって咳が出ただけだった。


 仮面の不審者は僕の姿を認めると慌ててまさくんの首に、自身の手に巻いているのとは別の赤いリボンを巻きつけた。リボンを持ち歩いているのか。というか、何をするつもりなんだ。まさくんはもう――。


 死んでいる。


 僕が八歳のときのときに見た母さんの葬式だって、未だに夜中に思い出して泣き出しそうになる。悲しいとか一言では言い表せない喪失感に襲われて。それとは比べものにならない喪失感と罪悪感で、岩に押し潰されたように胸が詰まった。


 助けられたかもしれない子供を見殺しにした。


 仮面の不審者がまさくんの首に結びつけたリボンを引いていく。まさくんが顎を逸らして目を剥き、首の傷口からさらに大量の血を溢れさせる。


 まだ生きていたのか。


 衝撃で僕は凍りついた。


 仮面の不審者が走り出した。まさくんは後頭部を何度も床にぶつけながら首に巻かれた赤いリボンで運ばれていく。僕の足はモールの床に吸いついてしまったスッポンのようで、完全に出遅れた。


 子供を引きずって走るにはそれなりの腕力がいるだろう。子供はよく十キロのお米に例えられるし。うちの親父も俺が子供の頃は米二つ分の重さだったと言っていた。


 逃げる仮面の不審者は中央スカレーターへ向かう。いや、違う。三階の手すりを目指している。モールの中央は一階から三階まで吹き抜けになっている。


 向こうも必死に走っているのを見るに、僕の脚力ならすぐに追いつけそうだと自信が湧いてきた。吹き抜けの周囲にはまさくんの血が塗り広げられていくようだが、どういうわけか三階も一部バレンタインイベントに合わせて、カラーリングされており血は赤い絨毯の上に染み込んでいく。どうしてなのか知らないが、仮面の不審者はまさくんの血が廊下につかないように気をつかっているようだ。


 それでも血を見てしまうと僕は肝が冷えた。まさくんの白目を剥いた顔も、気の毒だが見ないようにし、仮面の不審者の細い背中だけを見て追いかけた。


 逃げ回る人間を見ると、自分の中にあるエンジンがかかる。仮面の不審者の荒い息遣いまで耳にする余裕もでてきた。このままなら自己の中に眠るエンジンはフルスロットルに達する。


 仮面の不審者は一度僕を顧み、吹き抜けから一階のバレンタイン会場を見下ろす。一瞬ためらう素振りを見せたものの、奴は飛び降りた。


 馬鹿な。映画じゃあるまいし、三階から飛び降りる奴がいるか。


 仮面の不審者の落下につられ、まさくんも浮き上がるのかと思ったが、三階の手すりに引っかかる。


 リボンの張力が最大になり、ぴんと張る。衝撃で手すりにかかっていた横断幕が剥がれる。


 まさくんの首の傷口から残りの血が噴き出す。首に男の体重がかかって骨が破断する音がし、同時にまさくんの首は筋繊維をびちびちと剥き出しにしながら、二倍に伸びた。


 まさくんが倒れると、そこには別の男の子がいた。いや、別の男の子か? 全部同じ服を着ていて似たような背格好をしている。横断幕がかかっていて、今まで何度も通ったのに見えなかったんだ。


 そこには無数のまさくんの遺体があった。どのまさくんも首を切られ、赤いリボンを首に巻かれ、白目を剥いて互いに折り重なっている。


 一階で靴底が擦れるきゅっという音と、重いものが転倒する音がした。まさくんに結ばれているリボンの先は一階へと続いている。僕は怖気づいてしまって仮面の不審者を追うどころではなくなった。


 クローン、分身、ドッペルゲンガーでもない。いや、そうなのかも。なんでもいいから説明をつけないと頭がおかしくなりそうだ。


 他人の空似であると願いたい。まさくん本人かどうかを検証するなんて刑事ドラマのような真似は僕にはできそうにない。


 やっと人に会えたと思ったら今度は死体の山だ。冷や汗で背中が蒸れてくる。


 どのまさくんも息をしていないことは見れば分かるが、どう説明をつける。人形とは考えられないか? 特殊メイクの要領で、人形に本物の髪を一本一本植毛すれば。


 それでも複数のまさくんの説明はつかない。血生臭い腐臭と糞尿の臭いが広がってきた。


 僕は吐き気を催して後退る。子供が目の前で殺されているのに、まさくんが複数人いることの方が怖い。


 本当に全部まさくんなのかどうかを確かめる必要がある。


 数歩近づいただけで血の臭いが濃さを増すように感じる。一部のまさくんはもう血が固まり始めている。


 まさくんは一体何人いるのかだけでも数えてみる。見渡すと十人から二十人以上はいる。だが、何をもってしてまさくんと決めつける? 同じ服装で同じ顔だからか。僕はまさくんの丸い顔を見るが白目とは目を合わせないようにする。今日出会ったばかりで、この子がまさくんだと確信を持って言えるのか。


 僕は目を逸らしている。まさくんで間違いない。それがどうして複数の遺体になるのか理屈は分からないが。


 殺人鬼は一階に飛び降りた。何がなんでも捕まえて懲らしめなければ。子供を殺していいわけがない。


 手すりから一階を覗き見る。一階のセンターコートには赤い絨毯が敷かれていて、まさくんの血痕はよく見えない。


 殺人鬼はレインコートだった。返り血を想定して、あの格好だったのか。だとしたら、あいつははじめからまさくんを狙っていたことになる。しかも、どの床にも血は残さなかった。赤い絨毯の上だけだ。最初の一撃を加えたエスカレーターの前も上手い具合に赤い絨毯の敷いてある場所で襲っている。


 この違和感はなんだ。


 五歳ぐらいの子供の首を切るだけでなく、リボンで引きずり回したあげく、自身の体重をかけて三階から一階にダイブする。まさくんの遺体の首は長く伸びていた――。


 かわいそうなので、リボンを解いてやる。一階にひらひらとリボンは落ちていく。


 僕の手にまさくんの血がついた。うわっと思ったが、まさくんに覆い被さっていたバレンタインの赤い横断幕で手を拭った。横断幕には複数の人間の血塗れの手形がついているが。背筋に冷たいものが走る。


 あいつを許しておけないとは思う。だが、相手は三階から一階までまさくんを吊るし首にするようにして飛び降りる狂人だ。どうする。足で負けるようなことはないが。

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