チョコレートの仮面をつけることに抵抗がなかったわけではない。顔に近づけた瞬間から甘い香りがして、一瞬咽たがこれからもっと血生臭いことを始めなければならないと腹を決めた。自分の呼気がすべて甘い匂いに変換されて、マスクの顎の部分から出入りするのが我ながらシュールだ。某スペースオペラの悪役にはなれそうにないが、しばらくすればこの間抜けな状態にも慣れるだろう。


 これだけでは変装はまだ不十分だ。僕が僕でなくなるためには、何か普段とは違う行動をしなければいけない。僕という存在を消したい。それでいて、彩に会いたい。


 あとは黒のレインコートを探して着る必要がある。立体駐車場からモール屋内に移動し、レインコートは二階の北西にあるスポーツ用品店で見つけた。仮面の不審者が着ていたのと同じものだ。


 僕の容姿はすっかり仮面の不審者のそれとなった。すべては彩のため。被害を被るのはもう一人の僕と子供たちだけだ。それも赤の他人のコピーだ。僕と過ごした子供たち三人ではないので、僕の知ったことではない。そもそも、今日何時間も一緒に過ごしてきたが、別に愛着や情なんて沸かなかった。子供なんて彩が望まない存在でしかない。




『子供なんて生まれたら、うるさいだけでしょ? 自由もなくなるの。あたしは自由なままでいたいの』




 まさくん、もっちー、マリー・ガガの三人は必ず殺さなければならない。その目標が達成されれば、僕はいよいよこのモールから出ることができる。


 抵抗を感じる要なんてどこにあるのか。このモールに閉じ込められている人間は、みな一度すでに死んでいるのだから、何度死のうが関係ないだろう。大丈夫だ。問題がないことは、死者の複数の遺体が証明している。死んでも、次の子供たちが現れるんだ。


 一階にはまさくんともう一人の僕がいたはずだ。もっちーとマリー・ガガも一階にいたが、それはもう二十分以上も前のことだ。体内時計しかないが感覚で分かる。子供の移り気でドーナツショップから移動しているだろう。


 北西の階段を忍び足で降り、一階の生鮮食品売り場に身を潜める。


 子供たちはおしゃべりだ。黙っていた試しはない。まさくんを除いて。音や会話を聞き逃すまいと息を殺しながら南へローラー作戦し、各店舗を巡る。残念ながら一階には誰もいないようだ。


 二階に戻る。洋服店が多いので見つけにくい階だ。女子二人組ならすぐに見つかりそうなものなのに、どこにもいない。かくれんぼでもしているのか? 三階へ行く。


 二人いた。南西のフードコートでもう一人の僕とラーメンを食べている。女子二人はいない。接近してよく見るとまさくんは何も口にしていない。もう一人の僕はまさくんのためにれんげをもう一つ用意しているが、頑なに拒まれている。


 僕は向かいのジーンズ専門店に身を潜める。


 しゃがんで、一度手汗をデニムパンツで拭う。


 もう一人の僕が一方的にまさくんに語りかけている。


「一口いらないか? もし、時計が止まってなかったら今頃三時か四時ぐらいだよ、たぶんだけど。おやつとかお母さんからいつももらわないのか?」


 まさくんは俯き加減で突き出た下唇を舐めている。そのせいで怒っているように見えた。僕のことだから、まさくんを元気づけようとしているのだろう。馬鹿馬鹿しい。そいつはことあるごとに僕の顔に文句を言いたいんだって分からないのか?


 それにしても、もう一人の僕は厨房に入れたのか。厨房が客席からも見られるからイメージができて、闇は現れなかったのかもしれない。もう一人の僕はそこで悠長にラーメンを自分で作ったわけだ。僕と顔を合わせても、なかったことにしたのか。見間違い、鏡を見たなど、いくらでも信じないようにするための理由づけはできる。腹立たしい限りだ。


「なぁ、怖がらなくてもいいよ。確かにここには誰も人がいないけど。とにかく……今は平和だ」


 僕は失笑する。仮面の不審者に遭遇していないから危機感がなさすぎる。まぁ、これから僕と遭遇することになるんだけどな。


 カカオの香りを仮面の内側で深く嗅ぐ。深呼吸のつもりだ。


 だが、僕が僕を殺した場合どうなるんだ? 僕が消滅する? なんてことはないだろう。よくSF映画であるパラドックスだと、主人公Aが過去に行き、過去の自分であるBを守らないといけないとか、逆に殺さないといけないとかそういう状況になる。守らないといけない場合は、AがBを助けるとBもBだった自分を守るために未来から過去に行く義務が生じる。殺さないといけない場合は、AがBを殺した瞬間Aも消えてしまうのでは?


 だが、今回の僕らの状況は特殊だ。


 仮面の不審者になったAはこの僕が駐車場から突き落とした。つまり僕ははじめからBだった。そして、そのあとにこのモールに来た僕Cがいる。BはAを殺害し、今度はCも殺そうとしている。Cを殺しても僕が消える心配はない。Cの方があとの僕なのだから。CがBを殺す逆の場合、僕は消えるかもしれない。だが、消えたって怖くはない。僕は雷に打たれてすでに死んでいるんだ。このモールから出ることは自身の消滅に繋がるのか。だとしても、ここではないどこかには行けるだろう。天国は無理だとしても、こんなループしているモールではない、まともな地獄へ。


 もし、僕がやったように、もう一人の僕が僕を追い詰めた場合は、必ず仮面を外して正体を明かそう。駐車場の屋上から突き落とされる前には必ず。


 もう一人の僕は短気になって告げる。


「あの二人をまた探そう。それでいいだろ? なんで答えない。口はあるだろ。言えよ」


 よほどまさくんと馬が合わないらしい。子供は苦手なんだ。ほかに話す人がいないから話しているだけだろう。まだ、もう一人の僕は子供は守るものであるという社会通念を信じている。そんなのは社会が決めたことだ。『子供は社会が育てる』『地域で子育て』『子育てしやすい環境を』反吐が出そうだ。


 そろそろ行くか。堂々と正面から行けばもう一人の僕に邪魔される。僕は俊足だから、あいつも同じ身体能力を有していると考えるべきだ。


 まさくんを誘き寄せよう。


 子供たちに人気のスポットはあそこしかない。同じ三階にあるゲームセンター『イムコ』。南西のフードコートから北西のゲームセンターへ誘導するには、何か興味を引くものがないといけない。最終的にはゲームセンターの音で釣ることはできる。いけるかもしれない。このモールは広いが、今は人がいない。ゲームセンターの電子音はよく響くだろう。


 幸い僕には財布がある。駐車場に戻らないといけないが、複数のトートバッグに財布がそれぞれ入っている。ゲームセンターのゲーム機を鳴らすんだ。


 かがんだ状態で走るとなかなかゲームセンターに辿りつけなかった。あの二人がフードコートから動く可能性も高いが、まさくんはよく気のつく子供だ。僕ともう一人の僕の違いも分かるほどだから、ゲームセンターの音の変化も容易く聞き分けるに違いない。


 ゲームセンターで怪しまれない程度の音を出すのは難しい。かといって聞こえなければ意味がない。プレイヤーがいなくても勝手に進行するタイプのゲーム機だけに小銭を投入していく。まさくんが音に気づいてこちらに来たときには全部止まっているのがベストだろう。そう上手くいくかは分からないが。


 数分待った。作戦は失敗だったかと思い悩んだとき、もう一人の僕はまさくんの手をしっかり握って通路をやってきた。僕は彼らと距離を取りながら、ゲーム機の筐体の陰に身を潜める。


 まさくんはもう一人の僕の手を振り払おうとしている。もう一人の僕は怪訝な顔で眉をひそめた。


「なんだよ! ゲーセンがいいんだろ? アニモンのぬいぐるみ取ってやるから。それかなにか、もう一回もっちーとマリー・ガガを探すか?」


 まさくんは首を振っている。何を考えているのかは相変わらず、はたから見ている僕にも分からない。


「そんなに一人がいいか! どこへでも行けよ。どうせ誰もいないんだ。ここからは出られないぞ」


 語気を強めるもう一人の僕の目つきはつり目も相まって、相当頭に来ている様が見てとれた。


 もう一人の僕がまさくんを握る手を緩めたのか、まさくんは一人でゲームセンターに駆けてきた。


 さぁ、やるときが来た。このループは一種の試練だ。どこまで非情になれるかの試練なんだ。


 彩。僕はやるよ。この地獄から出て必ず迎えに行くよ。




『ウダガワくん。今度、大阪に行くときは車で行こうかな? 免許取ったんだ。これでウダガワくんと車中でいつものあれもできるね。やだ、照れないでよ。いつも脱がせてあげてるあたしだって恥ずかしいわ』


『やだ、ウダガワくん。運転できるの? 免許取るお金なんてないわよね?』


『運転できても、標識の見方が分からないんじゃ様にならないわよ。もう、危ないから代わって。まだ、運転するの? 一体どこで覚えたのかしら? そう。お父さんなんだ。厳しい人なんじゃなかった? ああ、それは伯父さんの方だったの? そっか。伯父さんの言いなりなんだ。まぁいいけど。あたしの言いなりになる方が楽しいでしょ? ほら、事故を起こしたら危ないから代わりなさい。はい。もう、無理しないの。あたしも悪かったわ。オープンカーでデートしたいなんて無理言ってごめんね……。ごめんなさいウダガワくん。あたし、もっと派手で、あたしをどこまでもつれてってくれる人に巡り合いたいの』


『京都に来る? 無理しないで、金欠なんでしょ。またあたしが大阪に行ってあげる。時速百キロで。え? 冗談に聞こえないって? じゃあ、宇田川君は電動キックボードで来てよ。いつものハーフェンモール角間(かどま)ね。警察に捕まらない程度に車で飛ばして行くわ』


『あら、病院まで来てくれたの? あたし、まだ死なないわよ。死ぬ気がしないもの。お腹の赤ちゃんもね……。ウダガワくん。あなた、知ってた? あなたもうお父さんなのよ。もしかして浜田くんの子だと思ってた……? 嫌よ。あたし。誰の子のお母さんにもなりたくないのよ! だって、これじゃあセックスできないでしょ? あたし怖いの。ウダガワくんもそうでしょ? 子供なんか育てられないでしょ? あたしたち、もっと愛し合いたいでしょ?』




 彩は京都からこのモールに来る途中で事故に遭ったんだ。飛び降り自殺に巻き込まれたらしい。彩のクーペのルーフに人が落ち、パニックに陥った彩はハンドル操作を誤り、赤信号の交差点に突入した。そこへ直進してきた大型トラックに側面衝突された。

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