第四章

 仮面の不審者は、はじめからずっと僕だったんだ。


 仮面の不審者の走り方、特に短距離走選手を模した前傾姿勢で僕は気づいていた。できることなら認めたくないから、無意識に頭の隅に追いやった。


 僕は練習もしないで短距離走で勝ったあのときのささやかな栄光が、しばらく忘れられなかった。美大の受験のため、美大予備校に通いはじめる少し前のことだが、僕はYou Tubeで短距離走の勉強をした。クラスで目立ちたいタイプでもなかったが、ただ暗い奴だと思われるのも嫌で。暗いけど足の速い奴という肩書を得た。まだあのころは彩がいなかったから、僕は自分に何か自信をつけたかった。


 動画の見よう見まねとはいえ、中途半端に足を引くときの強さだけはあるから、速く走ることができた。


 仮面の不審者の正体が僕なら、今このモールに『僕』は三人いるということになる。子供たちを狙う仮面の殺人鬼の僕。この僕。あとからモールにやってきたもう一人の僕。


 もっと早くから認めるべきだった。


 背格好も声も僕と同じだ。仮面の不審者はあえて低く発声していたが。


 となると、重大な問題も起こしてしまった。できれば信じたくないが。そうか、僕は僕を駐車場から突き落としたのか。


 背筋を誰かに指でなぞられたような悪寒がする。


 どうして殺人鬼なんかに身を堕としたんだ僕は。仮面の不審者が襲って来なければ、僕だってあいつを殺そうなんて思わなかった。


 やってしまったことは仕方がないとしても、僕が僕を殺してしまった事実は変わらない。


 そもそも、仮面の不審者の僕には何が起こったんだ。動機はなんだ。あれが僕なら――僕が子供たちを殺したも同じだ。本当にあんな残酷なことが僕にできるのか? 彩にも逆らえない意気地なしの僕が、人を殺すなんて馬鹿げたことをやってのけたのか? 信じられない。


 あれは。


 赤いリボンが落ちている。仮面の不審者がまさくんの首を絞め、三階から一階に飛び降りたときに使ったリボンだ。


 気になると拾ってしまう。レインコートのポケットに無雑作に突っ込む。


 膝が震えた。馬鹿だな、何やってるんだ。こんなものを拾って。震えを紛らわせるために、やたらめったら走った。一階のセンターコートで突っ立っていたことで、人目についたらまずいとも思った。北東のスーパーに入る。


 飲料水コーナーで水のペットボトルを見る。ループしていると気づいたきっかけとなったものだけに、僕はこんなところに逃げ込んだ自分が恨めしい。


 叫び出しそうになるのをこらえる。毎回ここに僕はやって来ている。きっとペットボトルはこれからも減るんだろう。


 足音を聞いた。レジの向こうへまさくんをつれたもう一人の僕が去って行く。あいつもスーパーに来ているのか。


 もう一人の僕の手には水のペットボトルがあり、それを飲みながら歩き去っていく。かなり喉が渇いているらしく、一気に全部飲み干した。きっと、北西出口にあるゴミ箱に捨てに行くのだろう。


 待てよ? もう一人の僕は必ずしも僕の行動をなぞらないのか?


 ループしているが、僕らは行動を選べる。


 選べるからってなんだよ。僕はもう僕を突き落としてるんだぞ。


 自然と南西にある映画館に足が向いた。


 誰もいない映画館は電気が点いており、上映前だったのか、上映後なのか分からない状態で時が止まっている。


 僕は椅子の一つに座る。映画館の無音は、心なしか思考を鮮明にしてくれる。僕の心音が耳の後ろで聞こえる。速い上に、脈動して頭痛を誘発している。


 僕は選ぶことができる。


 子供たちをこれまでどおりに守ること。


 仮面の殺人鬼となって、子供たちを襲うこと。


 襲うなんて、物騒な言葉だなと僕はほくそ笑む。電球色の照明のおかげでスクリーンは夕焼け色だ。


 襲うなんて生温い表現だ。具体性がない。仮面の殺人鬼に扮するということは、まさくん、もっちー、マリー・ガガを順番に殺さなければならない。


 何故? 理由は簡単、仮面の不審者が子供を殺さないとモールから出られないと言ったからだ。


 僕の一番の願いは、ここから出て彩に会うこと。彩は今、死にかけているはずだ。彩のためならなんでもする。それが僕の今の生き方だ。もっちーたちに馬鹿にされた僕の生き方だ。


 子供がなんだ。そもそも子供はどういう存在だ? 小さいから守らなければならないのか。成人するまでは守るべき存在だと必然的に決まっているのは何故だ? 子供は悪意なく無邪気さやその純真無垢とやらで他者を傷つける。


 ここから物理的に出る方法はすべて試して失敗に終わった。


 このモールには警備員はおろか、目撃者となる客もいない。当然警察も来ない。日本の法律はここでは適用されない。もしかしたら、時間の概念もないのかもしれない。モールから出たら、知り合いはみんな浦島太郎みたいにおじいさんおばあさんになっていたりしてな。


 静かに息を吐き出して目をつぶる。自分の吐く息が低くこごって聞こえる。


 どうして僕は殺人鬼に成り下がるのだろうか。あの仮面の僕はこのモールにどれぐらいいたのだろう。一人で孤独だったはずだ。僕もそうだ。


 本当に子供を殺すだけで出られるのか? ループに閉じ込められたら何かを解決すれば出られるのがSF映画の定石だ。これが僕に課せられる試練なのか。


 目をそっと開ける。汗ばんだ手をもむ。右手の傷が自身の汗で沁みて痛む。動悸が速くなり、昂奮を覚える。エンジンが徐々にかかっていく。


 最後の良心が僕に問う。死んでいい人間なんていないんだ。まして子供は殺したら駄目だ。そうだろう?


「いや」


 子供はどうして守られる存在なのか? 大人より未熟で不完全だからだ。守るべき存在だと社会が刷り込むから、僕らは子供を大切にする。愛する心がなくとも。


 彩と僕の関係を笑ったことは誰であろうと許せない。


 僕は映画館を出て南西の階段を上がる。誰にも見つからないように三階に行く。


 三階の連絡口から東A立体駐車場に出ると、片隅の縁石のところに灰色の肩掛けトートバッグが二十個以上落ちていることを再確認する。


 僕は二十人以上いたということ。二十人以上もいたはずの僕とは仮面の不審者をのぞき、一度も遭遇していない。つまり、僕以前にこのモールからの脱出に成功しているか、あるいは。


 僕も脱出組になれるはずだ。僕の遺体を僕は見ていないのだから。


 どのバッグにも入っている包丁を四本選び取る。どれも寸分たがわず同じ包丁だ。刃のくすみ具合もまったく変わらない。


 バッグの山を一つずつ調べていくと骨は折れたが、いくつか空のバッグが見つかった。


 そうすると、ここに一番最初に閉じ込められた「宇田川湊の一号」は四本も包丁を持って暴れたわけじゃないのかもしれないな。まぁ、一階のロフトに包丁はあるだろうし。なかったら三階フードコートでも見つかりそうだ。


 このモールに僕は包丁を持ってきたが、何のためだ? まさかはじめから仮面の不審者に変身するつもりだったとでもいうのか?


 まぁいい。包丁を四本拝借してレインコートのポケットから赤いリボンを取り出し右手に固定する。赤いリボンはまさくんの首に巻いていたのを僕が解いて三階から一階に落としたんだ。それを拾ってきて自分の手に巻くことになるとは、今にして思えば不思議だ。


 仮面の不審者だった僕を突き落としたフェンスに歩み寄り、ずっと避けてきた自分自身の遺体の確認をする。ここに二十人から三十人の宇田川湊が同じように潰れていたら、僕はモールから脱出できないと考えていいだろう。


 駐車場二階から下は相変わらず濃い闇で、何も見えない。遺体の有無も不明だ。


 潰れた自分自身の姿を見なくて済んで、ほっとしてしまったがこれだとどう行動するのが正しいのか分からなくなる。


 モールから出られなかった場合、僕は僕に殺されるんだろう。なら、真っ先にやることは決まった。このモールにあとからやってきたもう一人の僕も始末してしまおう。


 闇をまじまじと見つめても、もう怖くはない。空は相変わらず雨雲を抱えている。一ミリも形を変えない。今気づいたが、風もまったくない。


 再び下を見てチョコレートの仮面を発見した。フェンスのすぐ下のあまどいに引っかかっていた。


「こんなところにあったのか」


 不思議に思っていたことが一つ。仮面の不審者が僕なら、イベント会場にたった一つしか存在しないチョコレートの仮面はどういうループをたどったのかということ。


 チョコレートの仮面を慎重に拾う。これで僕のものになった。


 ただ一つ、どうしても悔やみきれないことは、僕は僕に突き落されたときどんな表情をしていたのかちゃんと確認しなかったことだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る