まさくんをこの手で殺した。


 僕は一階のトイレに駆け込んで、息を整える。


 握っていたリボンで左手のひらには白い線が入っている。真っ赤になるものとばかり思っていたので、意外に思った。案外自分を冷静に分析する余裕があって困る。僕は人を殺めたことを客観視しているのか。


 トイレの洗面で自分の仮面を見て、はたと気づく。なるほど、仮面の不審者はずっとトイレに身を潜めていたのか。実行してみてはじめて分かることもある。仮面の不審者は神出鬼没ではなかったのだ。


 包丁をくくりつけた右手がまた出血しはじめたので、一度リボンも靴紐も解いて水で洗い、巻きなおした。きっともう一人の僕は僕のリボンをバレンタイン会場から得たものだと見抜くだろう。だが、チョコレートの仮面は今回はじめて目撃したかもしれない。僕より先に装着した仮面の不審者がショーケースを破壊して奪ったことは僕しか知らないはずだ。


 今になって息よりも動悸が激しいことに気づく。落ち着け。


 仮面の不審者は鏡の中に映っている。これが今の僕だ。はっきり言って、屋上で突き落とされたあいつよりはしっかり仕事をこなしているから大丈夫、上手くやれている。僕より先に仮面の不審者を演じたあいつは、反面教師だ。あいつにできて、今の僕にできないことはない。逆に、あいつが犯したミスは今回僕がカバーできるかもしれない。もう一人の僕を刺激し過ぎないようにするんだ。僕自身に殺されてはたまらない。


 どうしてもこの方法でないといけないのか?


 突然弱気になる。誰も殺さないで過ごした場合はどうなる? まさくんが増え続けるのだろうか? 僕自身も増え続けたらどうなる? 発狂するかもしれない。なんせ、僕は僕と敵対するのだから。


 まさくんだけは僕を警戒していた。その一番厄介なまさくんが死んで片づいた今がチャンスだとは思わないか?


 同じ道を辿っているとは思わない。動機も覚悟もあいつよりは上だ。ここから出て彩に会うためなら何だってする覚悟を決めた。


 次はあの女子二人組だ。あんなガキに彩と僕の関係を否定されてはならない。僕は彩なしでは生きていけなかった。このモールには法律がない。あるのは僕の独善的ルールだけだ。子供を殺さないとモールから出られないという単純明快なルール。


 もっちーとマリー・ガガはドーナツショップの次にどこに行ったのか覚えていない。思い出せ。


 そうだ、北東のスーパーマーケットだ。ドーナツショップの次に立ち寄ったんだ。いや、今回もっちーは行こうとしないだろう。あのときはもっちーがドーナツショップで飲み物を飲めなかったから、購入しようと思って向かったんだ。待てよ。水なら僕も飲もうと思ってスーパーに訪れた。みんなが死んだあとでだが。参ったな。


 こうなったら、もう一人の僕を尾行して子供たちを探そう。善良なもう一人の僕は必ず子供たちを守るために奔走することだろう。


 僕は仮面の中で不敵に笑う。自分の吐く息がチョコレートの香りに変わる。


 彩の言葉が頭の中で木霊した。




『ウダガワくんのバレンタインチョコどうしよう? 一緒に買いに行く? 作るのめんどくさくなっちゃった。買いに行こうよ一緒に。そうね、もし海外の面白いチョコレートがあったらそれを買ってあげる。え? どういうのが面白いのかなんてあたしに聞かないでよ。とにかく一番高いのを買ってあげる。去年はチョコレートでできたバイオリンだったけど。今年はもっと変わったのがあるかもね。王冠とか? 仮面とか? うけるでしょ? でもきっとそういうのを置くのよ、あのモール。ああそうね、王冠はやめるわ。ウダガワくんには王冠は似合わないもの。もっとじめじめしてるタイプでしょ?』




 僕は王様に相応しくない。彩が女王で、僕は寵臣といったところか。彩の呼びつけには必ず応じる。じめっと湿っていると思われるのは、きっと僕が泣いていると思われるからだろう。彩は僕にいつも行為を命令して、僕は優位に立つことは決してない。帰り際に赤面したら罰としてさよならも言わずに部屋から追い出されたこともある。


 とにかく、重要なことを思い出した。僕は伯父さんなんかとこのモールで待ち合わせなんかしていないんだ。彩とチョコレートを買いに来たのが真実だ。どうしてそんな大事なことを忘れてしまっていたのか。


 苦笑する。仮面の中の歪んだ唇は鏡には映らない。チョコレートの仮面の表面に水滴が浮かんでいる。


 雷のせいだ。僕の記憶を混乱させる何かがある。それとも、まさくんか。まさくんの顔をはじめて見たとき、とてもはじめて見た気がしなかった。どこかで会っているのか? 思い出せないな。彩の言葉から手がかりはつかめないだろうか。




『ねぇ、どうして急に会ってくれなくなったのかしら? まさかあたしが怖いの? それともなに? あたしの中にいる赤ちゃんが怖いの? あたしだって、こんなのいらないわよ。父親ならちゃんと堕ろすお金作ってよね。自分で出せって言うの? いつもあたしのお金で遊ばせてあげてるでしょ?』




 彩は次第に鬱陶しいことを口にするようになったが、僕には金の工面がどうしてもできなかった。それに、彩だって親に妊娠を黙っていたんだ。一人暮らしだから仮に出産してもばれはしないが。だからこそ彩のそのあとの行動がどうなるのかが怖かった。彩は一人で産んでそのあと赤ちゃんをどうするつもりだったのか。それが、心配で結局縁は切れなかったんだ。じゃあ、LINEに一か月前の文言しか残っていなかったのはなぜなのか。


 僕は彩を裏切らない。定期的に連絡を取るはずだ。僕はきっと、大事なことを決意したんだ。のちに彩とのやり取りが残っていたらまずいようなことを成し遂げようとして、僕はLINEの文面を削除したのか。


 なんだ、簡単なことじゃないか。やっと僕が何をやりたかったのか分かった。彩には迷惑がかからないようにしないといけない。


 深呼吸する。絶対にここから脱出しなければならない。


 もう一人の僕は僕の仮面の姿を見て警戒を強めているだろう。


 僕と仮面の不審者が同一人物だということにそろそろ気づいているだろうか? 殺人鬼とイコールであることを認めることはできないだろう。僕も未だにそうだ。僕は殺人鬼ではなく、ループの牢獄からの脱獄者だ。

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