彩と出会ったのは、八月の土曜日に開かれた南大阪芸術総合大学のオープンキャンパスでだ。


 伯父の反対を押し切って芸術大学に行きたいと思っていた僕は、土日はバイトをして学費を溜め平日の夜は美大予備校に通っていた。それでも、夢を諦めさせられる可能性があった。だからオープンキャンパスに行けば、伯父を言い負かすだけの決意が得られると思った。当然バイトは休んだ。


 JR環状線と近鉄線を乗り継ぎ、スクールバスで五十分かかるのだが、あの日は四十分しかかからなかった。


 僕は方角に関してはコンパスのように正確に把握できるから、ホームページのアクセス欄に書かれている所要時間より早く着く。


 朝早くに到着したから特典があるわけではないが、憧れの美大の校舎を眺める時間の余裕ができてよかった。


 東京ドーム六個分の敷地面積は広大だが、実際にはそれほど歩く必要はない。僕の目指す十九号館は正面入り口からまっすぐだ。由緒ある大学らしく、新校舎以外は古い団地のようなコンクリートの建物が並立している。


 校舎前では、売店や学生作品の販売が行われていた。将来に胸を高鳴らせている出願予定者に声をかけたら、効果覿面てきめんだろう。実際、僕はまだ学科説明会の始まる時間より早く到着してしまったので、何か飲み物でも買おうという気になっていた。


 有名大学でも無難にフランクフルトやポテト、からあげが売っていると安心する。敷地を半周する勢いで歩いた。運動場に近い校舎の前で、何やら女の子たちがドリンクのようなものを配っていたので、これ幸いと僕はさりげなく近づいた。


 僕ははじめ、同年代に見える女の子が声をかけてくれるのを待った。だが、僕は顔の偏差値が少し高いというだけで、あとはぱっと誇れるものがない。こんなマンモス大学ならモテる奴もたくさんいて、トップモデルクラスにならないと埋もれてしまうだろう。


「おはようございます」


 はきはきとした口調で声をかけてきたのは、僕よりも年上の女性だった。僕なんかとは不釣り合いな、高飛車な印象を与える褐色の肌の女性だ。


「今、試食をやってるの。今度文化祭で出すパンナコッタよ。どうぞ」


 白いミルクのように見えていたそれが、飲み物ではなかったので僕は落胆した。


 彼女の健康的に日焼けしている手から、一口サイズの容器を受け取った。そのとき目に入った彼女の指には、今ではすっかりトレードマークといっていいオレンジのつけ爪がされていた。


 手首には金のブレスレットがはめられていたので派手好きかなと思った。


 白のタンクトップにマイクロミニの同色のスカートに、黒のベルトが目立つぐらいの割とシックな装いをしていたので、そうでもないのか。ベージュのオープントゥハイヒールが長い足を強調している。ハイヒールで彼女は僕よりも身長が高かったので、あまり見降ろされるのは好きではない僕は無意識に彼女と目を合わせないようにしていた。彼女が僕の顔を覗き込むようにして、パンナコッタを差し出してきたのも恥ずかしかった。


「ねぇ、何学科を受けるの?」


 率直だなと僕は顔に不機嫌な表情を浮かべたと思う。


「この大学、君みたいな大人しい生徒には来てもらいたくないわ」


「は?」


 いきなり何言ってるんだこいつと思った。


「でも、君みたいに優柔不断な人の方が長続きするのよね」


「なんなんですか?」


「気にしないで。あたしの感想。ほら、冷えてるうちに食べてよ」


 観察されている気がした。見られながら食べるのはなんとも気まずい。僕の喉仏が動くのをしっかり目に焼きつけているようだった。


「どう?」


「美味しいです」


「ねぇ、ここ実はまだ準備中なの。でも、冷えてるうちに出しちゃった方がいいかなって思って。来て、案内してあげる。大学って広いから迷子になっちゃうでしょ?」


「いえ、大丈夫です」


「あらそう。見たところ方向音痴ではなさそうね」


「どうして分かるんです?」


 余計なことを聞いたと思った。


「だって、ほら、目がキマってるから」


 それは目つきが悪いということだろうか?


「でも一人で回るより早いから。ほら、ついてきて」


 強引な人だった。敷地内を連れ回された。


「あたしはもう四年だから今年卒業なのよね。何学科だと思う? あたしの聞いても仕方ないわね。君は何学科に入りたいか当ててあげようか。うーん。工芸よね。待って待って、まだ答えたら駄目だからね。コースまで当てないと。工芸学科のガラス工芸コースかな? 違う?」


「半分当たってます」


 心なしか声が小さくなった。


「やっぱり? だって目がすごい良いものね」


「なんですか目って。睨んでるように見えます?」


「怖いよ。でも、それがいいのかもね。長く続けられる子に見えるの。あたしにはそんな野心ないからなぁ。今ある目先の利益で動くって感じで、作品一つ一つに愛がないって言われちゃうの」


「あの、何学科なんですか? まさか工芸学科?」


「あたしがそんな地味なことするわけないでしょ。『デザイン学科』の『空間デザインコース』よ。でも、初対面のあなたには分からないわよね。ごめんなさい」


 気性の激しい人なんだなと思った。でも、長く続けられると言われたのは良いことのように思えた。まだ願書も出していないのに、僕がこの美大に入ることを確信しているような物言いだった。


 色々連れ回されたが、僕は素直に話を聞いていた。学科について説明してくれるときはふざけたりしなかったので話し口調が急に大人びて、この人はひょっとしたら教師なんじゃないかと疑ったりした。


 二十分かそこらのつき合いで、彼女は昔から一緒に暮らしている姉のような存在に感じられた。


 校舎めぐりを終えたころに説明会の準備が整い、校舎内への案内がはじまった。


「ここ、受験するのよね?」


 美大に願書を出すことを伯父さんが認めてくれたら。試験よりハードルが高い。


 答えないうちから彼女は目を細めて腕を組んだ。腕の金のブレスレットが鈍く光った。


「はっきりしなさい。そんなんじゃ駄目よ」


 おそらく彼女の言う通り、僕は駄目なんだろう。自分の意志をはっきり示せないダメ人間だって自分では分かってはいたが、他人にはっきりと指摘されたのははじめてだった。出会ってたったの二十分かそこらで、僕の十八年の人生を全部見て来たような言い方をされた。


「あの、ありがとうござ――」


「今なんのアプリ使ってる?」


「はい?」


 僕を残し、彼女は駆け出して自身の担当していたパンナコッタの売店に舞い戻る。ヒールとは思えない速さで戻って来て、スマホ画面を見つめている。


「LINE? 交換しとく? ちょっと、何笑ってるの?」


 彼女は自身のスマホ画面に向かったままだが、僕が笑っていることを指摘した。吐息が漏れていただろうか? 僕は頬を赤らめて、自分がにやついていたかどうかの反省会をする。


「ほら、スマホ貸して」


 言われるまま僕はスマホを差し出した。早押しクイズのように引ったくられ、LINE登録されて戻ってきた。


 若林わかばやしあや。アイコンは自身のオレンジのネイルだった。


「またね、ウダガワくん」


 僕ら互いにLINEは本名のフルネームを使っていた。彩なら『あーや』とかあだ名で使うものじゃないんだろうか。


 若林彩のおかげで、その後の学科説明会はほとんど頭に入らなかった。


 その次の日から、ひっきりなしに彩からLINEの通知が入った。最初は挨拶と、今何してる? ぐらいだったのだが、三日目からモーニングコール、朝ごはんを聞いてきたり、本当にくだらないことばかり連絡してきた。でも、そのくだらない内容に適当な返事を返すのが僕の日課となり、それはそれで悪くなかった。


 一週間後にはUSJへ行った。いきなり遊園地初デートだ。


 二週間もすれば僕らは世間一般で言うところの恋人同士になった。


 ただ、彩は二股をしていた。その相手が誰なのかは分からない。いつからだったのかも僕は気づけなかった。それを追求しなかったから、僕らは長く関係を続けることができている。

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