第五章
一
もう一人の僕が聞いていようがいまいが、言いたいことはぶちまけた。あとは、あいつが尾行してくるかどうか。僕は二階に上がってもっちーを探す。
もっちーの足音は三階まで上がったようには聞こえなかったからだ。二階のどこかのショップに身を潜めているんだろう。
自分の鼻息が荒くなるほどに、チョコレートの仮面の内側は甘美な匂いで満たされる。胸焼けするほどだ。
急がなければ、もう一人の僕もいずれ二階にやって来るだろう。
もっちーは最後の子供だ。仕留めればこの頭がおかしくなりそうなループは終わる。もし終わらなかったらもう一人の僕も殺す。それで少しはすっきりするだろう。
彩の望みを叶えるためにここから出るんだ!
二階はアパレルブランド店ばかり。衣擦れの音でも聞こえたらいいのだが、手掛かりはない。子供が完全に気配を消せるのか?
もっちーならどうやって隠れる? いるとしたらすぐ近くのはずだ。もっちーは一度仮面の不審者から上手く身を隠した。案内板の陰に。同じ場所にいるかもしれないと、僕は静かに歩み寄って確認する。
いた! エスカレーターのすぐそばの案内板だ。
待てこのくそガキ。彩と僕のために死ね。僕らの関係性は誰も真似して築くことができないだろうし、真似されたくもない。僕らの関係を知ったからには、あの世に行きやがれ!
言いたいことはすべて呻き声に似た雄叫びになる。マスクの中なので、くぐもるが。僕の気迫と不意打ちに仰天したもっちーが、子供特有の金切り声を上げる。
「きぃぃぃぃやあああああああああああああ」
「大きな声で叫ぶな!」
もっちーは叫んだときには走り出していた。僕は遅れた。小回りして三階へ駆け上がられてしまい、見失った。 くそ。三階のどこへ行ったのか。
僕はもっちーのこの悲鳴を聞いたことがある。そしてあのときは北東エスカレーターから上がったから、もう一人の僕が来るのなら、そこからだろう。
手当たり次第に近くのショップを覗いて気づいた。
しまった。もっちーが案内板に隠れるシチュエーションは確かにあったが、それが起きたのは三階にいたときだ。もう一人の僕も近くの柱で隠れていることだろう。なんてつまらないミスをしたんだ。もっちーは二階と三階の二回隠れたことになるのか。同じ手を二回も使うなんてな。
エスカレーターのところに舞い戻る。もう三階案内板の裏には誰もいない。遅かったか。思い出せ。あのとき僕ともっちーは何を話したのか。
僕は仮面の不審者だった僕と格闘して、右手を負傷した。それから、もっちーと再会した。
――触ってたやん。マリーの身体。
僕はマリー・ガガ殺害の容疑をもっちーにかけられたんだ。結果的には当たったが。今回のもう一人の僕はもっちーに救われている。もっちーが加勢するとは、どういう風の吹き回しなんだ。
いや、いい兆候かもしれない。同じことばかり起こっては、ループ脱出が叶わないだろう。
もう一人の僕は完全にもっちーと協力関係にあると考えて動くべきだ。
二人で隠れた場所は確か絵本専門店だったな。だが足を運ぶと、そこには誰もいなかった。あのときは僕の方からもっちーを引っ張り込んだからか。もう一人の僕はもっちーに主導権を握られているだろうから。
どっちみち、もっちーは三階で殺せるだろう。ほかの場所で遺体の増殖を見ていないからな。もっちーの墓場は三階のケータイショップと決まっている。
さて、飛び道具の食器皿を取ってくるか。南西のフードコートに行けばあるだろう。二人を引き離す必要がある。最初の仮面の不審者もそうしたぐらいだ。二対一は不利だ。
フードコートに着いた瞬間、膝の皿が割れそうになった。
「いってぇ!」
膝に当たってどんぶり皿が割れた。足をかばってしゃがみ込みそうになると絶好の的になったのだろう、今度は茶碗が振ってきた。危うく脳天に直撃するところだったが、すんでのところで横に
「よし、やったぞもっちー!」
まずい、チョコレートの仮面が割れてしまう。どうしてこいつらはフードコートに先回りしているんだ。
腕で仮面をかばうと、頭部に皿が直撃する。意識は飛ばないまでも、頭蓋骨と皿がかち合って、結果的には僕の頭蓋が勝ったとはいえ鋭い痛みが走る。生暖かい水が首筋を伝う。血だ。破片で切ったか。
舐めた真似ばかりしてくれる。こちらの包丁にも怖気づく様子はない。それもそうか、僕は僕だ。自分が二人以上いると実力は同じなのに競い合いたくなるのかもな。向こうも目には見えないエンジンがかかっている。
もう容赦しない。ラーメン店のカウンター内で、身を潜めているもっちーともう一人の僕に向かって、椅子を投げる。右手に固定した包丁がこんなときに邪魔になり、力が籠められず威力を削いだ。椅子はカウンターに当たりはしたものの、向こうはもぐらたたきのように上手くしゃがんで
なんにしても、もっちーにはケータイショップまでは逃げてもらう。第一、籠城なんかで勝てると思っているのか?
そっちが皿を投げるのなら、こっちだっていくらでも投げるものはある。
机は意外と重い。別の店舗に回る。フードコートの奥にはバーガーショップ『グリーンバーガー』もある。油があった。人がいなくなっても、油に火が点いていた。よく今まで火事にならずに済んでいたな。
バーガーは一つも揚げられていないが、油さえあればいい。容器はないか。目盛りの入ったグラスのようなものとか――いいものがあった。掃除用バケツにしよう。
包丁を右手に固定したことで油を移す作業が非常に困難だ。素早くやらなければ、もう一人の僕に気取られる。
利き腕ではない左手でバケツを持ち、油をすくい上げる。重いので思ったより量は取れなかった。ペットボトル一本分にもならないかもしれないが、少量でもかければ火傷は必至だ。
僕はそれをバケツごと、ラーメン店のカウンター内へ放り投げる。
胸が悪くなるような絶叫が耳をつんざいた。自分と同じ声だからだろう。
顔面蒼白のもっちーが飛び出てくる。僕はもっちーをゴールキーパーのようにセーブした。もっちーが再び叫ぶ。僕が包丁でもっちーの腕を引っかいてしまったのは偶然によるものだが、もっちーの悲鳴はあとから飛び出してきたもう一人の僕の悲惨な姿を前にして出たようだった。
もう一人の僕は頭から油を被り、頭髪から蒸気と血生臭さを発している。火膨れしている額の皮膚が、風船ガムのように膨らんだり萎んだりしている。瞼にできた気泡は弾けて焼けただれ血の涙を流しているようだ。頬の皮膚が流れて首に垂れかかっている。皮膚を失った頬の表情筋は真っ赤な繊維質を露にし、フライパンのような音を立て煙を発している。その蒸気はもしかすると、本来なら鼻から吐き出される呼気の一部も混じっているのかもしれない。
油が顎の先を滴っており、薄茶色のニットのトップスの首回りには何やら不気味な色の染みが浮かんでいる。きっと、焼けた肌がリンパ液で衣類とくっついているのだろう。
ゾンビのように不確かな足取りで、飛び出て来たとは言えないのろまのもう一人の僕が、口角泡を飛ばしながら何か叫んでいる。呪詛のように聞こえた僕は怖気を振るいそうになるも、もっちーの腕をつかむ。
「痛い! やめて!」
「黙って走れ。来い。ぐずぐずするな」
もっちーが転んでも、そのまま引きずって走った。やはりというべきなのか、危惧していたことが起きる。背後からスニーカーが床を蹴りつける音がした。僕は苦笑するが、すべては仮面が隠してくれる。
あれで死なないのか。振り向くことはできない。もう一人の僕の俊足は靴音から察するに変わっていない。もっちーの重みで腕が痛いがそんなことなど考える暇はない。一刻も早くケータイショップでもっちーを殺害しなければ。
もう一人の僕をまくことは考えず、北西エスカレーター付近にあるケータイショップでもっちーを殺害する。もう一人の僕の目の前でもっちーを殺したら、取り返しがつかないエンジンをかけてしまうことになると思い、機械的に動いていた。もっちーの悲鳴も、血の色もいちいち気に留めていられない。
「死ね。時間がない!」
刺しては抜く。皮膚は刺し過ぎると、はじめから熟れていたのではないかと思うほど柔らかくなった。ときどき肋骨に包丁が引っかかったので、胸を刺すのはやめて腹を包丁で殴りつける。
冷や汗でチョコレートの仮面が溶けるかもしれない。怖くなって刺し続けたので、今回のもっちーの受傷は一番激しかった。
案の定、僕に残された時間はものの二十秒もなかった。
「湊おおおおおおおおお」
地鳴りかと思った。がつんとこめかみを殴られて、一瞬意識が飛びかける。追い打ちに腹を蹴られた。目を開けると、そこに悪鬼と化したもう一人の僕がいた。
「よぐももっちーをおおお!」
もう一人の僕は口からよだれを垂らしながら、僕のレインコートの襟首を引っつかんだ。これでループから出られる。自然と笑みが零れる。ここで取っ組み合っている場合じゃないと言いたい。説得しようにも呂律が回らなくて困った。
もう一人の僕がもっちーを見るようにと羽交い絞めにしてきた。その細い腕は僕の首を挟むので、自身の喉の骨に気道を圧迫された。
「何人殺したんだ! はっきり言えよ」
こいつの理解力のなさに疲れてくる。二十人以上もいるもっちーを、僕一人で虐殺できるわけがない。もっちーの遺体の山を積み上げたのは、過去の僕ら一人一人だ。二十人以上存在する僕が、仮面の不審者を演じ続けている証拠とも言える。
「お前も殺すことになるんだよ」
自分の声がしわがれて赤の他人の声に聞こえた。誤魔化すためにへらへらと歯茎から笑みを吐き出した。僕はここまでかもしれないな。このあとはこいつが僕の仕事を引き継ぐんだ。
「お前こそ、本当に僕なのか。僕ならどうして、こんな残酷なことができる」
ああ、こいつは知らないんだな。僕らは秘密を保持してモールにやってきたんだ。
もう一人の僕は僕のチョコレートの仮面に手をかける。
「おいおい、優しく持て。これはお前も被るんだからな。丁寧に扱えよ」
もう少しでもう一人の僕の指がチョコレートの仮面に食い込むところだ。もしかして破壊しようなんて考えていないよな?
怒りで震えているもう一人の僕を止めたのは、天井を揺るがすような破裂音だった。屋内でも聞こえることに驚いた。そうか、人がいないから聞き取りやすくなっているんだな。この音は間違いない。
雷だ。
僕ともう一人の僕の共通認識。
僕をこのモールに閉じ込めた根源。
僕らの死を象徴するもの。
ループの始まりと終わり。
帰れるかもしれない。あるいは――。
待てよ。どうして終わらない。子供は全員殺害できたはずだ。またループしているのか!
「あれは雷だ」
「雷だ」
声がだぶった。僕は絶望を、もう一人の僕は希望を胸に秘めている。
僕には分かってしまった。また新たな僕がこのモールに現れたんだ。もう一人の僕は雷が原因でループしていると思っているから、雷にもう一度当たればこの地獄から抜け出して本当の地獄に行けると期待している。
「確認しに行きたい。お前も見に行くだろ?」
一時停戦を申し込むよりは、場に合っている提案だろうし、時間も稼げる。
もう一人の僕のエンジンはなだらかに低下していくようだ。そうそう、呼吸を整えてくれ。僕は必死で笑みを堪える。仮面があって本当によかった。だが、右目の部分が割れているので、もう一人の僕と目が合ってしまう。
「何を企んでやがる」
「もうお前だって分かってるだろ。僕らは雷に打たれてここに来た。屋上に行って、これから何が起こるのか確かめに行こう」
もう一人の僕は僕自身を殺す勇気はない。僕が仮面の不審者を殺すことができたのは、ひとえに仮面の不審者の顔が見えなかったからだ。もう一人の僕は仮面の中身を知っている。もう一度仮面を外して見せてやろうかと、仮面のバンドのところに手をかけると、それを払うかのようにもう一人の僕は僕への戒めを解いた。
その代わり包丁を巻いている右手を捩じるようにつかまれた。
「妙な真似はするなよ」
釘を刺されるが、覚悟のレベルが違うなと感じて僕は彼のレベルに合う弱気な不審者を演じることにした。
「な、何もしない。あの雷が原因なのはお前も分かってるだろ。見に行く方がいい。できることなら僕ももう一度あれに当たってここじゃない別のところに行きたい」
少し饒舌に話し過ぎたかと警戒したが、もう一人の僕には雷で死んだことに対する絶望の念が色濃い。殺人鬼より何より、人は死そのものが怖いのだから仕方がない。
僕らは共に屋上階へ上がった。キッズプレイゾーンには、新たな僕がいることだろう。僕はそれを予期し、もう一人の僕に半歩先を譲った。もう一人の僕は僕に奸智があることを認めたくない。だから信用した。もう一人の僕が前を行き、雷に打たれて倒れている新たな僕を発見する。驚きと恐怖を湛えるその顔。僕も、もう湊、増えんなとキレながら拘束されている右手を勢いよく引き抜こうとしたが、上手くいかない。
「暴れるな」
機先を制するため、左腕でもう一人の僕の首に取りすがり、首を絞めたが、なかなか意識を失わない。だが、首に垂れかかった焼けただれた皮膚をつかんでやると、苦しそうにもがいた。
「や、やべろ」
僕の右手の拘束が緩んだ瞬間に、包丁の柄でもう一人の僕の後頭部を叩きつけた。
もう一人の僕の頭皮は火傷のせいで熟れた柿のようになっていた。殴る度に血が弾け飛び散った。
ぎあっと悲鳴を上げて地面に倒れたが、意識を失わないので後頭部を狙って何度も叩きのめす。とどめを刺そうというとき、キッズプレイゾーンで雷に打たれて倒れていた新たな僕が目を覚ました。
まずい。殺すか。いや。
僕は新たな僕、四人目の湊? を同じように殴り倒した。ただし、こちらにはまだ今のところは恨みがないので手加減しておく。
最初の仮面の不審者が湊Aだとすると、僕は湊B、もう一人の僕(火傷&気絶中)が湊C、新たな僕が湊Dとなる。湊Dは灰色の肩掛けトートバッグを取り落としている。僕は湊Dに駆け寄りバッグを奪い取る。中からスマホだけ取り出して湊Dのポケットにねじ込む。
スマホはお情けだ。ないと不便だろう。あっても時間は止まってるんだけどな! ははははは! みんなこの地獄で苦しめばいいんだ! どうして同じ宇田川湊なのに、僕だけこんな辛苦を味わなければならないのか。
今回は湊Cは気絶しているから屋上横にある屋内カフェには誰もいない。完璧だな。誰がトートバッグを持ち去ったのかを目撃することはない。バッグのありかも知られないし、その中に包丁が入っていることは忘れたままでいてくれるだろう。これでループは終わるんじゃないか? 僕は殺人鬼をやめられるのかも。
いやいや、おかしい。僕だけが汚れ仕事をするなんて。誰も好きでやったんじゃない。嫌々やっているんだ。義務のようになってきただけだ。僕は子供なんかに馬鹿にされる筋合いはないとはっきり示したかった。
雷が遠くなる。もう二度と落ちるなよ。
僕は一度、屋上の横にある屋内カフェで、ハイハイで移動していたから、念のため誰もいないか確認しておく。当然誰もいない。
しかし、二人とも気絶したままだと、もう一人の僕と新たな僕が鉢合わせるか。CとDも戦えばいい。特にCは負ければいい。
もう一人の僕をもう少しぶちのめしておこうと思ってカフェから出ると、もう一人の僕はいなくなっていた。
いるのは、新たな僕こと湊Dのみ。
あいつはなんてタフなんだ。あんなにぶちのめしたのに、僕がカフェに入った瞬間消えるだと。
とにかく、トートバッグを見せるのはよくないだろうから、南西エスカレーターで降りて立体駐車場に置きに行く。
別に足音を聞かれたって、目的が何かは分からないだろう。これを発見したら、あいつも仮面の殺人鬼になる。そのころには僕の死は確定してしまう。
自分の人生は一度きりのはずなのに、あとから来たもう一人の僕がこれまでの苦労も、困難を乗り越えた知恵も努力もかっさらってしまう。経験もあとからきた僕に吸収されていくのか。僕はあとからきた僕の肥やしにはなりたくない。
ループはガキを皆殺しにしたぐらいのことでは終わらない。このままだと僕は不利になる。何も知らない馬鹿な湊DからZが増えていくのではないか。いや、待てよ。子供も復活しているかもしれない! 新しい僕は誰もいないモールに気づいて探索を開始するだろう。どうする湊Dは。殺すか。いや、こいつは保険だ。僕がしくじったときには、憎き湊Cを殺してくれるのは湊Dだ。
まだしくじったわけじゃない。必ずもう一人の僕を殺してみせる。
用心しなければ。スーパーはもう一人の僕がいる可能性が高い。
僕が一階に降りたあと、用心し過ぎたためか新たな僕が、よろよろとうろついているのが見えた。もう屋上から降りてきたのか。一階には宇田川湊が三人いる状況になってしまった。湊Cが僕と同じように動くなら、はじまりはいつも一階からだろう? B、C、Dの湊それぞれが、よく出会わないで済んでいるな。この状況がこれまで二十回以上続いているんだろう?
少し時間を空けて三階に行くか。新たなまさくんがゲームセンター『イムコ』で待っているだろう。三人目のまさくんが。
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