風の吹き荒ぶ東A立体駐車場。積乱雲に覆われた空は夜のように暗い。


 立体駐車場で仮面の不審者は、よろよろと後退っていく。僕にはこれといった武器もないが、こいつをフェンスから突き落とすことぐらいはできる自信がある。仮面の不審者は縮こまって見えた。追い詰めたぞ。にじり寄ると、相手は後退る。


 こんな気弱な奴に翻弄されていたのが馬鹿らしい。じわじわと手のひらが汗ばんでくる。右手が沁みるが、いよいよこちらが優勢になってくると鼓動が高鳴る。


 仮面の不審者が苛立ち紛れに右手の包丁を前に突き出して、僕を脅す。その拍子に四本の包丁のうち、薬指と小指の間に挟まれていた一本がぽろりとコンクリートの床に落ちた。僕は鼻で笑う。体躯もほぼ同じなのだから何も怖がる必要はないんだ。


 相手は腕を前に何度も突き出して、残り三本となった包丁を見せつけてくるが、後退していては様にはならない。僕から逃れるように左にステップを踏む。僕も相対するように右に動く。今度は右だったので、左に反復横跳びで必ず前になるように立ちはだかる。


 チョコレートの仮面の奥で、呻くような声が上がった。中指と薬指に挟んでいる包丁もぶらぶらと揺れ始めたので、真っ赤なリボンをきつく縛りなおそうとしている。

 ふと、仮面の不審者が視線を僕から外して、駐車場右手の隅を見た。縁石の辺りか? 何かある。


 あれは。僕のトートバッグだ。あんなところにあったのか。でも、一つではない。詳しい数は分からないが、小さな山になっている。


 それに目を奪われていると、仮面の不審者が怒声を上げ、三本の包丁を僕の胸部目がけて突き出してきた。


 すんでのところで僕は右に避け、仮面の不審者の右手首を両手でつかんで捻った。仮面の不審者は唸り声を上げ、僕を蹴ろうとするので足蹴りで返した。


 奴の右手を関節とは逆の方向へ捻る、と血が落ちる。


 そのまま、僕は一番近くのフェンスに仮面の不審者を引き立てていく。仮面の不審者の右手小指がぶちりと千切れた。そんなに強く握っていたのかと、唖然として胸騒ぎを覚える。自分の怪我ではないのに、小指がずきりと脈打った。


 こいつは人殺しだ。小指の一本ぐらいで償えるわけがない。ここは誰もいないモールだ。監視カメラでさえ生きていない。ここは死者の世界なんだ。誰も天国に行くことができない以上、僕らは何をしても許される。これ以上悪い地獄はほかにはないんだから。


 仮面の不審者をフェンスに叩きつけ、後は力任せに抱え上げて、放り落とすだけだ。


「湊、聞け!」


 僕の名を呼ばれた。馬鹿な。この声は。


「全部試したか?」


「何?」


「ここは死後の世界だって気づいてるだろ。警備員が来ないから、何をしても許される」


「だからって……そんな理由でまさくんたちを殺したのか」


「理由? 理由は全部お前のせいなんだよ」


 どういうことだ。変な言い分ばかり、これ以上聞いていられない。こいつの声はもう聴きたくない。仮面の不審者の仮面を外してやろうと思っていたが、もう何も知りたくない。きっと、顔を見たら後悔する。


 押し黙る僕に仮面の不審者が気づき、慌てて僕を説得にかかった。


「おいおいおい、やめろ。聞けよ! 子供を殺さないとモールから出られな……」


 どういう理屈なのか聞く気はしなかった。恐怖が味方して、自分と同じ背格好で同じ体重の人物を突き落とすのに苦労はあまりなかった。


 仮面の不審者の「あっ」という小さな悲鳴が落下して消える。


 あいつは僕と同じ声をしていた。痛む右手に意識を集中させて何もかも忘れてしまいたい。


 不思議と地面に激突した人体の潰れる音はしなかった。どっちみち見る気にはなれない。


 とにかくやった。やりきった。深く考えるな。深く考えたら気が狂いそうだ。また吐き気がする。人を殺したんだから、仕方がない。あれは子供を殺す悪人だ。自分を責める必要はない。絶対に、自分を責めたらいけない。


 モールに戻る前に、さっき目に入った肩掛けトートバッグを確認する。駐車場の隅の縁石の傍に複数落ちている、灰色なので自分のもので間違いない。三百円均一の安物とはいえ、駐車場の屋上の片隅に二十個以上同じものが置かれていることの説明がつけられない。


 トートバッグの一つを手に取る。貴重品があるはずだ。


 中には僕の財布と包丁が入っていた。


 どういうことだ。


 額に汗の粒が浮かび、背筋が凍る。僕は重大なことを忘れているのかもしれない。

 慌ててほかのトートバッグをかき集めて中を確認する。入っているのはどれもこの二つだ。


 財布は黒の革財布でチャックのところが傷んで開けにくくなっているから、僕の財布で間違いない。包丁はどの家庭にもありそうな三徳包丁だが、これも僕のものか。

 僕はこのモールに何をするつもりで来たんだ。いやいや、悪い冗談だ。きっと仮面の不審者が僕を混乱させるために、僕のバッグすべてに包丁を忍ばせたんだ。


 だとしたら包丁はどこから? いくらなんでもニ十本もロフトでも売ってないだろ。バックヤードには入れないだろうし。


 バッグもループしていると考えるしかないのか。一階のゴミ箱のペットボトルもそうだ。僕が飲んだペットボトルは複数あるということだ。


 待て、僕は何人目の僕なんだ? 僕より先にこのモールに閉じ込められている僕がいるのか?


 それに、ペットボトルが溢れているゴミ箱は二つあった。少なくとも、ループしている僕は何度も同じ行動をするが、必ずしも毎回同じ行動はしていない。半分飲んだペットボトルを捨てる回と、その飲み残しペットボトルで溢れるゴミ箱を見て混乱し、全部飲み干して別のゴミ箱に捨てる回がある。


 僕はこの場所に何回訪れているんだ。僕が一番に来た僕じゃないのか。僕が一番に来て、もう一人の僕が現れたからあいつが二人目の僕じゃないとでも?


 まず目の前のことを片づけよう。


 こんなに財布があっても仕方がない。入っているお札は、ほかの財布に入っているお札と同じ紙幣番号、小銭も同じ製造年数だし。偽札を造りたい人間にはこのモールは天国だなこりゃ。札にはすかしもちゃんと入っているから、本物の札が増殖していることになる。


 僕は手ぶらで立ち去る。何より、このトートバッグを自分のものと認めて財布を取れば、包丁も自分のものと認めてしまうことになりそうで怖い。


 僕は仮面の不審者を殺した。僕は人殺しができる人間なのか。


 一刻も早くここから出なければ。いつか気が触れてしまうかもしれない。


 そうだ、彩。彩に会わないと。僕は彩とモールで待ち合わせをしていた。きっとそうだ。


 連絡口を通って再び三階を訪れる。めまいがする。この感覚、今まで何度も感じた気がする。


 北東のコーヒーショップと家電量販店の前で蹲って吐きそうになる。何とかこらえた。


 家電量販店の隣がゲームセンターだが、今はもうまさくんはいない。もう一人の僕も。もう彼らの顔も見たくはないが。


 コーヒーショップの椅子に腰を下ろす。もう一人の自分と遭遇したらどうなるのかなどと深く考えなかった。なるようになればいい。酷く疲れてきた。


 ショップ店員になったつもりで自分のために水を入れる。味がしない。脳裏にゴミに溢れるペットボトルが浮かんでくる。忘れろ、忘れろ。


 彩とは最後にどこで会った。僕はどうやってここに来た。僕の家は大阪市内で、このモールへ来るには地元の最寄り駅からJR環状線で京橋まで行き、京橋から京阪線に乗って約四十分かかる。距離にして十六キロほどだ。彩と途中で待ち合わせをしていたのなら京阪沿線か。いや、最後のLINEの日付を見ただろ。彩とは連絡を取ってない。待ち合わせてはいない。本当に?


 僕は満員電車を嫌って電動キックボードで来たのかもな。彩はどうしているのだろう。


 きっと彩は来られなかった。彩はそう……入院している。そうだ、彩は病院にいる。思い出した。


 角間かどま総合医療センター。


 このモールのすぐ近くだ。


 彩は、そうだ彩は交通事故に遭ったんだ。くそ、どうしそんな大事なことを忘れていたんだ。


 ここの空気はまずい。すえた臭いと、埃っぽさ。


 水をもう一口飲む。彩のいる病院は、立体駐車場から見える距離にあるんじゃないだろうか?


 慌てて東A立体駐車場に舞い戻る。病院が見えた。看板まであるのに、あれを見落とすなんて。


 さきほど殺人鬼を突き落としたフェンスまで近づく気はない。二階から下は闇だろう。


 ここから出て彩にもう一度会わないと。彩はきっと待ってくれている。必ずここから脱出するんだ。そのためには、なんだってしてやる。

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