果たして僕は生きていた。


 コンクリートの床に頬を打ちつけて倒れていた。酷く寒い。真冬の雨で濡れていた。身体を起こそうとすると、長風呂に入ってのぼせたような緩慢な動きになり、頭から再びコンクリートに落ちそうになる。すんでのところで手をつく。


 髪が少し焦げており、たんぱく質が焼けたような臭いが漂っている。吐き気を覚え、黄色い胃酸を吐いた。


 一体ここで何をしていたのか思い出せない。一人でモールに来たのか? 僕はここをモールの屋上のキッズゾーンだと早々に認識する。


 辺りには誰もいない。それもそうか、雨だ。


 身体を乾かすために屋内に入る。


 しんと静まり返ったカフェには客はおろか店員もいなかった。おかしい。店舗の照明は点いており、店内のものが壊れたり机が移動しているわけでもないから、地震などの災害が発生したとは考えられない。営業時のアンビエントな音楽がかかっている。佇む僕一人が、店内の窓ガラスに映り込んで間抜け面をしている。


 周りに人が誰もいないのは熱が見せる幻覚なんだろうか。


 浮遊感があり、足も上手く運べないぐらいには重かった。見たところ外傷はなさそうなのに、頭が痛んでひりひりする。両手は赤らんでいて、酒を飲んだかのように若干むくんでいるように見える。もしかして熱があるのか。額に触れるとインフルエンザで高熱を出したときのように熱くなっていた。


 誰と待ち合わせをしていたんだろう。


 思い出せ。屋上にいるのは何故だ。誰かほかにいたのか。――子供。子供が三人いた。それから、僕は雷の音を聞いて。


 ズボンの尻ポケットに異物感を感じて手を当ててみると、スマホがねじ込まれたように飛び出ていた。スマホをここに入れることは普段しない。どういうことだろう。


 スマホを見ると午後二時十分で止まっている。雷で壊れたのだろうか、電波が立っていない。SIMを抜き差しして再起動する。その間にカフェの時計を見る。ここも午後二時十分で止まっている。おかしい。ここで何があった。


 南西エスカレーターで三階に降りてみると、静けさに唖然とした。エスカレーターの「お足元に十分お気をつけ下さいませ」というアナウンスと北側にあるゲームセンターの騒音以外は、誰かの足音も子供たちのはしゃぐ声も、買い物客の話声も店員の声も何一つ聞こえない。有線放送の軽快な音楽だけが響いている。


 この広いショッピンッグモールに、僕一人だけが取り残されたとでも言うのだろうか。僕は、ここへ何をしに来たんだ。


 あれ? スマホがズボンのポケットにあるけれど、灰色の肩掛けトートバッグはなくなっている。てことは、財布を取られたのか! 血の気が引く。いや、ほかにも何か入っていただろう。ティッシュとか、ペンとか――。そんなものより、大事なものがあったはずだ。でも、何を持ってきていたのか思い出せない。大事なものが入っていた。大事なものと言えばやはり財布か。現代人のなくしたら困るものは財布とスマホだ。


 さっきからずっと感じる違和感は、額を伝う冷や汗を腕で拭うことで紛らわせた。

 どうしてスマホだけ手元にあるのか。財布は大した金額は入っていないだろうけど。それでも、取られたのだとしたら腹立たしい。


 それか、落としたか? 見回しても見当たらないが。


 どうしてこんなにイライラするんだろう。財布は確かに大切だ。免許証も入っている。それに、ICOCAも。ああ、なんてことだ。


 あるものから確認していくしかない。


 再起動が完了したスマホに何か手掛かりがないか調べた。電波は立っていないので通話は絶望的だろう。念のため実家にかけてみたが、コールすらしない。あの気難しい伯父さんの着信履歴もないので、俺のスマホがイカれているのだと思う。それでも、故障の場合は『発信できません』と何かしらメッセージが表示されるはずなのだが。


 そういえばこのモールには全館で使えるフリーWi-Fiがあった。待てよ、僕は誰とここへ来たのか、何しに来たのか覚えていないのにこのモールのことは忘れていない。ここへはよく彩と来た。彩は今どうしているだろう。ここへは彩と来たんじゃないのか。


 とにかく、検索して回線を接続する。電話は駄目でもLINEならどうか。


 彩にLINEしようとして、トーク画面に残された履歴に驚いた。最後の会話は一月三十一日だ。彩が僕に焼肉をおごるとかそんな話をしていた。彩はときどき羽振りがよくなる。それにしても、約一か月も話していなかったか? まぁ、彩も気難しいところがあるから。焼肉をおごってくれる話もどこまで本当か分からない。一時間後には寿司にしようというような具合だったから。それでも、不自然だ。彩は毎日のように連絡を入れてくる女性だ。胸騒ぎがする。


 LINEを送っても、送信中のままトーク画面が固まってしまった。こういうとき、伯父さんならどうするだろうかと、伯父さんとのトーク画面を見るが最新の会話は正月の挨拶しかしていなかった。しかも、〈LINEで送らずに挨拶しに来い、それかせめて電話しろ!〉と怒っていた。


 伯父さんにLINEしても、送信中のまま固まる。LINE通話も発信すらできない。Wi-Fiがあるのに、何故。


 スマホが壊れたのか。雷に当たったみたいだしな。最悪だ。入学前なのに、スマホを買い替える余裕はない。入学で思い出した。


 僕は伯父さんとスーツを買いに来たのかもしれない。


 僕はまた吐きそうになる。叔父さんの四角くて健康的に褐色に焼けた肌を思い出すと、むしゃくしゃする。僕の将来に口出しばかりする。自分の会社が上手くいかなかったからって、僕に自分の夢を勝手に託すんじゃねぇよ。


 冗談じゃない。叔父さんと買い物になんか来るわけがないだろう。本当に買い物だったとしたら、それは事件だ。叔父さんと買い物するぐらいなら、死んだ方がましだ。


 連絡手段であるスマホが役立たずなので、人恋しさから誰かほかの人を探しに行くことにする。まさか、このモールが閉館しているわけではないだろうし。最悪、一度家まで帰ってもいい。


 三階から一階までエスカレーターで一気に降りる。ほら、エスカレーターが動いていて、どのフロアも照明が点いているんだから、僕が休業中のモールに間違って入り込んだのかもしれない。かなり苦しい考えだが。それでも灯りがあることで僕は孤独にならずに済んだ。警備員に見つかったらどうしようという常識からくる不安もある。


 外が見えて僕は一階の入り口の自動ドアに駆け寄った。


 鍵がかかっていた。鍵といっても、普通モールの出入り口の鍵は内側からかけるものだろう。サムターンなら指で回すだけで済むのだが、あいにくシリンダー錠だ。警備員に開けてもらうしかないだろう。


 警備室はどこにあるんだろう。防災センターでもいい。隅々まで知り尽くしているハーフェンモールだが、さすがに防災センターには行かないからな。


 従業員専用口と書かれた扉という扉を見て回る。ところが、バックヤードにはどれも入ることができなかった。ほとんどは鍵がかかっている。開いたものもあったが、両開きの扉の向こうには冷たい闇が広がっていた。僕の背筋に寒気が走り、腕が粟立った。開いた瞬間怖くなって先に踏み出せなかった。


 闇が渦巻いて、人間の住む世界とは別の空間が広がっていた。


 なんだこれは。黒よりも深い闇の色。見てはいけないものを見てしまった感覚。髪が逆立ちそうになる。


 悪い夢を見て飛び起きた感覚に近い。これ以上ここにいたら、あっちの世界に引き寄せられて、二度と起き上がれないような。一刻も早く立ち去らなければ。夢の中で誰かに追われて捕まるときのような。だが、ここで捕まったら二度と目覚めることができないようなそんな空間だ。


 恐怖で固まった足を引きずり、引き返した。


 そんなことがあって分かったのだが、ほかにも入れない場所を多数発見した。レジの裏だ。レジの金に触れば防犯ベルのようなものが作動して通報され、僕を発見してくれると期待したのだが。


 そこには、人一人分の闇が広がっていた。従業員の休憩ができるようなスタッフルームの扉の向こうも闇に浸食されている。ちょうど今、靴下ショップに来ていたので商品の靴下を闇に向かって放ってみた。靴下は闇の奥へ消えたまま戻ってこない。投げたんだから、そうなるだろうけども。かといって、入って確かめる勇気もない。


 からからからと、乾いた回転音が聞こえた。


 なんだあの音は。まるで金属の臼で人骨でも轢いているような。


 それでも、闇が晴れて靴下が現れないか一分ほど待った。


 靴下は吐き出されることなく、闇は常にバックヤードで蠢いている。


 もしかして、僕が入ったことのない場所だからか。いや、それならこの靴下ショップにだって一度も入ったことはない。


 見たことがないから? バックヤードの奥に何が広がっているのか従業員でない僕が知るはずがない。ちょっと、待てよ。


 このモールは僕の知らない場所には闇が現れるのか。


 中からは呻き声が聞こえた。低く呻くような。からからからと回転音が近づいてきた。


 誰かが何かの機械を動かしている音なのかもしれない。呻き声は、地獄の獄吏たちに引き立てられ、その機械を動かしている者たちの。考えすぎかもしれないが、延々と水車を回す罰とか昔はあったらしいし、そういう音を聞いたわけではないが、そういう強制されたような機械音に聞こえた。


 遠くにハムスターの回し車が見える。中にハムスターはいない。闇にぽかんと浮いているそれが、こっちに迫ってくる。見れば大きい。サーカスで人間が使うような大道具に似ている。誰かが回していた。人だ! いやいや、あんな真っ白な顔の人間がいてたまるか。ピエロじみた人間が細長い手足をすべて使って、四つん這いで回し車を必死に動かしている。ふとその人物がこちらを見つけた。


 回し車が横向きになって中の白い人が二足歩行になる。ヴェネチアのカーニバルのような紺色の衣装に白塗りの顔からして、間違いなくピエロだった。


 闇に顔だけが浮き上がっているように見える。赤い目は爛々と輝き貪欲で飢えていた。何に飢えているのか説明できないが、血とか生贄じゃないとは言い切れない。


 ウンメイ ノ ワ カラ ノガレラレナイ ギャハハハハハハハッフゥー。


 金属を叩いた音のような声だった。この世のものじゃない。


 僕は扉を勢いに任せて閉め切った。なんなんだあれは! 二度と開けるか。


 音として聞こえた言葉。あれが言葉なのか?


 閉め切った扉の向こうでも回し車の音が聞こえる。急いでその場から離れた。


 運命の輪なんか知ったことじゃない。


 落ち着こう。ここが人知を超えた空間だということは確定した。


 一階から三階まで走り、監視カメラという監視カメラに手を振ってみた。見ているかどうか分からないが、じっとしていられない。洋服店が複数あるので、マネキンを拝借してカメラの前で足元に叩きつけて首を胴体から切り離した。腕力のない僕でも簡単にできて胸がすく。爽快感に僕はフゥ! と声を上げる。もう怖くてやっていられなかった。神経が高ぶって普段ならしないような馬鹿げた行動をしている。それから、マネキンの頭部をカメラに投げつけた。


 僕だけこんな目に合わせやがって! と怒りに任せた。カメラには届かずマネキンの頭部は床を滑っていった。誰も僕を取り押さえに来ない。警備員さえいないのか。孤立無援ということか。


 マネキンを元の位置に片づけたとき、胴体と頭が最初から壊れていることに気づいた。乱暴に扱う店員がいたんだろう。それにしても酷いな。


 怖気を振っていたが、やれることはまだあった。一階のバーガーショップ『マクエラルド』から足部分が金属の椅子を拝借してくる。こうなったら自力でこのモールから出るしかない。


 まず出口の自動ドアのガラスを割ることにする。一階の北西の出口のガラスに椅子を何度も叩きつける。僕はそれほど力が強くないこともあって窓は全然割れない。せめてひびくらい入れられないだろうか。三度、四度、五度と打ちつけて、一度自分がその椅子に腰を下ろす。少し休憩して十回、二十回と叩きつけたが割れなかった。そんなことがあるだろうか。自分の腕力のなさを呪った。もっと重いものを叩きつけよう。一階の北東にはスーパーの店舗も入っている。行ってみると買い物かごが散乱していた。中には品物が入っている。まるで買い物途中に人だけが消えたようだった。


 今度は北東の出口のガラスに向かって、ビール瓶の箱を積んだショッピングカートで突っ込んだ。衝撃で僕の身体の腕や腰の骨が軋んだ。ガラスはびくともしない。僕はあっけにとられて、座り込んだ。人目を憚ることもないだろう、人が皆無なんだから。


 腹いせにビール瓶を投げつける。割れたのはビール瓶の方で、ガラスには傷すらつかなかった。


 どうして閉じ込められたんだ。何故出られない。ピエロの化け物も出るんだぞ。


 ショッピングモールの営業時間の二十一時を過ぎたのか? そんな馬鹿なことはない。外は明るい。でも、誰も歩いていない。外も人がいないのか。車も制止している。ガラスの向こうにあるのは景色じゃなくて誰かの撮った写真じゃないのか。


 日曜日の午後だっていうのに、僕だけこんな仕打ちを受けるなんて、あまりに理不尽だ。


 やけになってビールの一つでも飲んでやろうと思った。まさか今日、酒に挑戦する機会が訪れるとは思わなかった。一つ開けようと思って、栓抜きがないことに気づく。一階にはロフトがあったはずだ。さすがに置いてないかもしれないが。それよりプルタブの缶のビールにしよう。缶ビールを飲んでみると、喉が焼けるように痺れて駄目だった。僕は下戸なようだ。こんなのは練習だと伯父さんなら言いそうだ。もう一口だけ練習と思ったが、今度は気管支に入って咽て駄目だった。


 ビール瓶も缶も北東出口のごみ箱に捨てようとして、やめた。水のペットボトルで溢れかえっていたからだ。同じ銘柄の水ばかり。なんか、滑稽だ。


 仕方なく、スーパーに戻って商品棚のところに戻した。飲んだものを戻すのって、悪い気がするけど。ごみ箱があれじゃ、ほかに捨てようもないし。それに、ここには誰もいないのだから、多少やらかしても緊急事態だったとモールの管理者に説明すれば許してもらえるだろう。


 割ったビール瓶はどうしようか。まあ、いいか。なんかたくさん破片が散らばってるし。僕一人であんなにたくさん割ったつもりはないが。何かガラスが割れたんだろう。コップとか酔っぱらいのジョッキとか。


 本当にそうだろうか? 全部同じビール瓶の破片に見えるが。


 同じ銘柄の水のペットボトル。同じビール瓶の破片。


 何かのゲームか?


 そんなことより、今問題なのは、本当に誰もモールにいないのかということだ。

 隅々まで探すつもりで館内を散策することにした。


 一階ロフトの前、このモールの中央に位置するエスカレーターのある場所(センターコート)は、四日後に迫ったバレンタインのイベント会場になっていた。


 ずっとパニックになって落ち着いて見られなかったけれど、ベルギーのチョコなど海外ブランドほか、国内ブランドも多数ショウウィンドウに飾られている。北海道や、大阪、京都、兵庫などのチョコレートが揃い踏みだ。


 きっと、僕は彩に誘われてここに来たんだろう。


 彩は愚直にチョコレートを僕に選ばせるなんてこともやりかねない。それとも、彩はここの空間デザインを勉強しに来たのかもしれないな。僕は陶芸を学びたかったから空間デザインについては詳しくないけれど、このイベント会場の真っ赤な絨毯や、客を整列させるためのロープも赤で統一されていることぐらいは分かる。


 メインステージ左右にはプレゼントの箱から飛び出したような、生け花と巨大な赤い花のオブジェが飾られていた。プレゼントの箱から伸びた同色のリボンが花にベールのように被さっている。こういうド派手なデザインなら彩も真似したがるだろう。


 中央には宝石店のもののようなガラス張りの箱に、変わったチョコレートが置かれていた。


「うわ、なんだこれすごいな」


 チョコレートの黄金の仮面だった。目の部分はくり抜かれており、バンドもついているので実際に装着できそうだ。お値段二万四千円。えげつない。僕ならこれを粘土で作れそうだ。僕の方がより繊細に作られる。


 こんなところで油を売っていてはいけない。僕も少なからず芸術家の端くれだから興味を示してしまったが、もう美大のことは諦めないといけない。経済学部に入学が決まったのだから、いつまでも未練がましく陶芸のことを考えたらいけないんだ。


 一階のフロアは全部見渡した。やはり誰もいない。二階に行こうとして二階と三階には駐車場と繋がる連絡口があることを思い出した。あそこから外に出ればいいんだ。慌てて中央エスカレーターを駆け上がった。

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