三
ハーフェンモール
半年ぶりに伯父さんと会う緊張感もあって、電動キックボードから降りると冷や汗をかいた。いや、この汗はずっと前からかいているような気もする。遅刻しただろうな。スマホの待ち受け画面の時計を見る。
午後二時十分。待ち合わせは二時三十分だ。良かった。間に合った。順調で幸先がいい。
電動キックボード「ループ」は所定の位置に返却するまで、五分につき十五円かかるから、二時間ぐらい置いておけば三百六十円ぐらいの料金になるだろう。安くすませるには、伯父さんをいかに早く帰らせるかが鍵だな。
西立体駐車場から隣接するハーフェンモール角間の三階に入る。自動ドアに僕の普段着が映り込む。ネイビーのダウンジャケット。インナーは白いシャツの上に薄茶色のニット。紺のデニムパンツに白いスニーカーだ。いつも通りカジュアルだ。灰色の肩掛けトートバッグは三百円均一で購入したいかにも安物といった感じで不格好ではあるが。
身だしなみチェックのうるさい伯父さんが怒るなら勝手に怒ればいいと思う。人の安物ファッションを笑うなと言ってやりたいが、たぶん今日も言い返せないだろう。
自動ドアが開くとむっと温い暖房の風を感じた。
何も焦ることはない。胸騒ぎに近いものを覚える。予知や霊感などは信じないが、大事な何かをさきほどの幹線道路にでも落として来たのではないかという疑念が頭に過る。でも何を。何か重大な使命を背負っているような気分で、三階のスーツショップで冬物セールの対象商品を見に行く。
伯父さんがいなくても一人で買うこともできた。だけど、やっぱり一万五千円は高校生の僕には高い。たとえ元の値段が一万七千円で安くなっていたとしてもだ。ジャケット、シャツ、スラックス合わせてだとお得なのかもしれないが、手は出せない。伯父さんを大人しく待つしかない。
でも、僕がこのモールに来たのは彩のためでもあるんだ。そうだ、彩のためだ。伯父さんなんかどうだっていい。ハーフェンモール角間に来れば、彩に会えるという確信がある。
僕はきっと固い表情で立ち尽くしていたのだろう。女性店員は「ご試着もできますので、お気軽にお声がけ下さい」とありふれた言葉をかけてくる。僕はその店員には目もくれず、一階に降りるため中央のエスカレーターに向かう。
子供の大きな泣き声が聞こえた。百均の店舗の前で、五歳ぐらいの男の子が泣いている。周りにその子の親らしき人は見当たらない。
僕は歩みを止めた。何故か吐き気を覚える。
あの子は? 初対面だというのに僕はその子を知っているような気がする。そういえば、僕はどこからどうやってこのモールにやって来たのだろう。まるで、泣いている男の子が引き金となって僕の記憶を消し去ってしまったかのような。
僕は伯父さんと待ち合わせをしている。それは確かなはずだ。
しかし、おかしい。どこかで頭を打ったか。それとも、何か重大なことを無意識に忘れようとしているのか。人が常におしゃべりをしているかのようなモールの騒音が、人混み嫌いの僕を不安にさせているのかもしれない。
男の子の顔は粘土をこねて作ったかのように丸く、茶色の髪は頭にちょこんと乗っている。おだんごのような鼻と大きな目をしわくちゃにすぼめて泣いている。泣き腫らした顔は真っ赤になっていた。
服は黒のフードつきトレーナーにジーパン。小さい子なのに地味な服装をしているため、迷子にでもなったんだろう。
その男の子に女の子二人が声をかけている。
一人は艶やかな黒髪のツインテールの丸顔の小学生低学年。意志の強そうなくっきりとした目をしている。白のトレーナーにピンクのビスチェを着、下は黒のスキニーパンツを履いている。
もう一人も小学生低学年だろう。面長の顔で大人びている。茶色の髪は色素が薄いために和毛のようだ。鼻は遠目にはどこにあるのか分からないから小さいのだろう。レースのシャツが首から覗き、その上に薄い黄色のニットを着ている。スカートはベルベットでハイソックスはレースがついており、靴はローファーだ。まるでお嬢様だ。
やはり迷子なのか女子二人組は男の子と連れ立って歩きだした。ツインテールの子が関西弁で男の子に尋ねている。男の子は泣き続けている。
「親御さんは? どこ行ったんや? それともあんたが一人でこの辺に来たんか?」
それにお嬢様が意見する。
「最後にどのショップでお買い物をしたか尋ねたらどうかしら? もっちー」
もっちーと呼ばれたツインテールは、唇を歪めて困った顔をする。
「それが分かったら苦労せーへんやん。じゃあ、マリー・ガガやったらどうすんの?」
「わたしなら、大人を呼ぶかしら?」
マリー・ガガとはお嬢様の名前なのかと疑問に思っているとその本人がこちらにつかつかと歩み寄ってきた。ほかにもたくさんの大人がいるのに、どうして僕のところに一直線に。僕はお嬢様と目が合って冷や汗をかく。
マリー・ガガに続き、肩を怒らせて歩いてくるもっちーと呼ばれたツインテールの女の子と、引き立てるように連れられてきた泣き止まない男の子が僕の前で立ち止まった。
「お兄さん大人やんな?」
まっさきに口を開いたのはもっちーだ。
「まぁ」
あいまいに答える。十八歳は成人になるが、酒とたばこは解禁じゃない。きっと二十歳になってもどちらも苦手だろうなと僕は思っている。機会があれば試すかもしれないが。
「泣いてる子供放っておくなんて、サイテーやな。ずっと見てたくせに」
そんなことを言われても、見ているからといって問題解決能力があるわけじゃない。
眉間に皺を寄せて不満そうな顔のマリー・ガガが僕の手を取る。
「この子に聞いて差し上げて下さらない? 御両親は今どちらにいらっしゃるのか」
僕はため息交じりの返事をして男の子にどこで迷子になったのか聞いた。僕が話している間中ずっと男の子は泣き止まない。はっきり言って耳に触る大きな声だ。もっちーが男の子のほっぺを両手で押さえて、無理に変顔を作っている。それからマリー・ガガが純白のポーチから本物かどうか分からないジュエリーをあしらった手鏡を取り出して、男の子に見せる。本人の顔で笑わせるつもりか。男の子は吹きだして笑い出した。僕は感心する。
女子二人組は得意げに笑った。
「これで少しは質問しやすなったやろ?」ともっちーが片眉を吊り上げる。
「じゃあ聞いてみるよ。君はどこではぐれたの?」
男の子は首を振る。覚えていないらしい。
「親なんか、すぐ近くにおるんちゃうん? あんた動いてないよな?」
もっちーが聞いても男の子は首を振る。迷子は動くからなるんだと思う。質問を変えてみるか。
「迷子になる前、何を見てたの?」
男の子は少し歩いて辺りを見回す。違うと分かると西の楽器店の方へ走り出した。ここで、もっちーに小言を言われる。
「子供一人で走らせんといて。またはぐれたらどうすんの?」
大人びている嫌な子供だなと感心している間に、もっちーが男の子を後ろから捕まえて「わっ」と驚かせた。
男の子はさっきまで泣いていたとは思えない笑い声を上げてその場で転がり回った。もっちーが覆いかぶさるようにして、男の子の脇腹をくすぐっている。賑やかになった。マリー・ガガが二人に立つように言うと、二人は笑いながら立ち上がった。
「で、どこから来たのか思い出せた?」
マリー・ガガが聞くと男の子は今いる位置を確認するように見回して、フードコートの方を指差した。
「あそこから来たようね」
マリー・ガガは男の子の手を引く。もっちーもそれにならうが、僕を睨みつけてくる。顎をしゃくられる。
「お兄さんも」
男の子の両手は女子二人組の手で塞がっているのに、どこを持てばいいのか。仕方なく僕は後ろから男の子の背中を押す役にされた。男の子は喜んでフードコートまで走り出した。仕方なく僕ら三人も走る。
フードコートには昼を過ぎた現在でも大勢の客がいる。伯父さんが来ていたらどうしようと、僕はスマホの時計を見る。
午後二時十分。
あれ、おかしい。
僕のスマホの時計が止まっている。スマホの操作は何も問題がないのに。
伯父さんが到着したかもしれないと思って電話してみたが、時間にうるさいはずの伯父さんは出ない。約束した本人が約束をすっぽかすなんてあり得なかった。
「ちょっとお兄さん。真面目に迷子の子助けたってよ」
「迷子センターに預けたら早く終わると思う」
「迷子なったばっかや。きっと親もその辺におるわ。それにやな、迷子センターに預けられたら恥ずかしいし、余計に不安になるやろ? また泣かせたいんか? あんた、なんて名前なんや」
もっちーには威圧感があった。腕を組んだ立ち姿はほとんど尋問する警官と言ってよかった。その間男の子の面倒はマリー・ガガが見ている。
「僕は宇田川」
「名乗るときはフルネームやろ。うちは
「はぁ」
僕は気のない返事をする。すると、膝にパンチを食らわされた。初対面の大人にそれはないだろう。僕は君の親戚でもなんでもない。
「はよぉ、自分の用事やりたいんやったら、この子に名前と電話番号聞いたり。それか、両親が今どの辺におるか分からへんのやったら、行きそうな場所を聞いたりぃや」
なんだか今の小学生は怖いんだな。男の子にかがんで尋ねようとしたら、マリー・ガガが手を前に出して僕を制止した。
「この子はまさくんと言うらしいわ。電話番号は知らない。外に行くってご両親はおっしゃってたみたいよ」
「さすがマリー・ガガ!」
もっちーがマリー・ガガに抱きつく。
「気になってたんだけど、なんでガガ」と僕はハーフではなさそうなマリー・ガガを見つめる。答えたのはもっちー。
「ああ、二人でスケート場で転んだときにな、パンツ見せてガガッって転んだから」
「あら、もっちーせめて下着って言って欲しいわ。ちょっと恥ずかしいから」
ちょっとだけなんだと思いながらまさくんの手を取る。まさくんは一瞬僕を見上げて躊躇ったように見えた。
「僕の顔に何かついてる?」
まさくんは一呼吸置いて「カメレオン」と口にした。
ああ、僕の爬虫類顔のことを言ってるんだな。爬虫類顔とは逆三角形のシャープな顔のことで、僕の顔は割りとイケメンの部類には入るらしいが、少し冷たい印象も与えてしまう。目はつり目のため怒っている? と聞かれることもよくある。二重瞼と高い鼻、大きな口のおかげではっきりした顔立ちではあるんだが。
「そんなんええわ」
またもやもっちーが間に入る。
「まさくん。外って一階のことか?」
まさくんは首を振ったので、僕は屋上のことを言った。
「屋上かな。子供の遊び場があったはずだ」
僕はこのモールのことは庭のようによく知っている。
もっちーが手を出す。
「ん?」
「正解かもしれへん! ハイタッチや」
僕が軽く手をパーにして合わせようとすると、もっちーは後出しジャンケンの要領でパーからグーに途中で変えた。それで僕の手のひらを殴られた。めりこむ拳、凶暴な一撃。普通に痛い。
屋上へ館内南側に位置する南西エスカレーターで上がると、キッズプレイゾーンに出た。屋外に遊具と、屋内にはカフェがある。キッズプレイゾーンは屋根がないので風が冷たい。僕はダウンジャケットの襟を詰めた。
真冬にもかかわらず、空は今にも雨が降り出しそうな入道雲で覆われている。そういえば、雷注意報が出ていたな。
「ここで親御さんをしばらく待ちます?」とマリー・ガガ。
それならと僕は立ち去ろうと思った。
「僕も人と待ち合わせがあるから」
「あ、無責任ウダガワ!」
呼び捨てにされて少し腹が立ったが、僕はもういいだろとまさくんを適当にあやしてエスカレーターのところへ戻ろうとした。
そのとき、雷鳴が鉄板を床に叩きつけるような音を鳴らした。閃光が屋上で弾けた。遊んでいた子供たちやその親が悲鳴を上げて屋根のある屋内に逃げ込んでくる。かなり近い場所に雷が落ちたんだ。
このモールは三階建てだから避雷針がないのかもしれない。
もっちーとマリー・ガガも音と光に驚いて放心状態だった。
「あ、ママだ」
まさくんが遊び場の小高い山になっているところに、ママらしき女性を見つけて走って行く。僕は空を見上げて追いかける。雨が降ってきた。再び閃光が僕らに襲いかかった。いや、雷の規模は定かではない。光に包まれるのと車が衝突したときのような破裂音が同時だった。ハンマーで殴られたような衝撃と、髪が焦げるような臭気を感じ、意識が飛んだ。
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