堕環

影津

第一章

 集中治療室の壁の時計は、午後二時十分を指している。


 彩は大阪に住む僕のために京都から会いに来る途中、事故に遭った。今は大阪の角間市にある角間かどま総合医療センターの集中治療室にいる。


 若林わかばやしあやは僕より四歳年上の二十二歳の美大生だ。南大阪芸術総合大学の「デザイン学科・空間デザインコース」に在学している。


 あそこは関西で美大と言えば多くの人が名を挙げる有名校だ。


 僕が美大に行きたかった理由の一つに彩の存在がある。四回生の彩はもうすぐ社会人で高校三年生の僕とは釣り合わないぐらい艶めかしい人だ。


 こうしてベッドで息を引き取った今でもそれは変わらない。


 彩の広い額にブラウンの前髪が左に流れており、肩まである髪は枕に深く埋もれている。綺麗に剃られたブラウンの眉には同色のアイブロウペンシルでしっかりと眉が描かれているが、今は表情筋がぴくりとも動かないせいで、力なく垂れているように見えた。


 こんなお別れのときでも、まつげエクステが閉じた瞼の上でばっちり決まっているのが彩らしい。


 夏に日焼けした色素がやっと抜け落ちて白くなった肌には、ピンク系のファンデーションが塗られている。事故の衝撃で頬の辺りは擦れていた。


 柔らかく膨らんだ唇にはオレンジ系の口紅が塗られているはずだが、今は人工呼吸器が口元を覆っていて本来の色が失われている。いや、もしかしたら今日はグロスかな。グロスと口紅の違いは彩に教えてもらった。彩は元々露出の高い服を好むから日焼けするらしく、口紅は使わず透明感のある薄いグロスに変えると、夏によく言っていた。


「ウダガワくん」


と最後に唇が僕に呼びかけたように見えた。そんな馬鹿なことがあるわけがない。彩のために生きる宇田川うだがわみなとも、もうすぐ死んでしまうだろう。僕は彩に置いていかれた。彩のいない世界で僕はどうすればいい。


 床の緑のリノリウム、黄ばんだ白壁が院内の雰囲気を昼とは思えないほど暗くしている。


 できることなら来世でも彩に会いたい――。まだだ、彩一人では逝かせない。

 僕は早足に集中治療室を立ち去った。

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