六
「きぃぃぃぃやあああああああああああああ」
悲鳴が僕の思考を突き破った。
今いる二階の吹き抜けから聞こえた。エスカレーターのステップを踏み鳴らす小さな足音と、それを追う者の大きな足音が遠ざかっていく。
しまった、仮面の不審者が先にもっちーを見つけたのか。
中央エスカレーターで靴音のした三階まで上がると、仮面の殺人鬼が右往左往していた。僕は慌ててエスカレーターすぐ横の柱の陰に隠れる。奴はもっちーを見失ったのか。ゆっくりと南西の方に歩み去っていく。三階の南西にはフードコートがある。もっちーなら好きな場所なんじゃないだろうか。
僕の背後で靴底を擦る音が聞こえた。忍び足のつもりらしい。
振り向くと僕のすぐ後ろにある案内板の陰に、もっちーが隠れていた。僕に気づいてひっと短い声を上げる。
「もっちー」
小声で呼びかけて、手招きする。もっちーは何故か嫌がって動こうとしなかったが、無理やりでも近くの絵本専門店に引きずり込んだ。大人の背丈を超える本棚がたくさんあって隠れやすい。
もっちーは隠れるとすぐに僕の手から逃れようと、自身の腕を下に引き抜いた。
「触らんといて」
さすがの僕も穏やかでいられない。
「助けてやったんだぞ」
目を
「何が不満なのか知らないけれど、よく聞いてくれよ。移動しないと。あいつはかなり近くにいるんだ」
もう一度手を伸ばそうものなら、嫌と断られてしまう。
「何が嫌なのか理由は言わないんだろ」
僕はもっちーと目線を合わせるためにしゃがんだ。できるだけ怒りは押し殺したつもりだ。もっちーの肩に手を置こうとしてやめた。僕の右手が震えている。右手の血はまだ乾いていないが流れ落ちるほどではない。かといって痛みを忘れられるほど生易しい痛みじゃない。相変わらず薬指と小指の感覚がない。
もっちーは僕を睨むのをやめない。
「言いたいことがあるなら言えばいいだろ。それより、もっとあいつから遠く離れよう」
「ウダガワ。あんたマリー・ガガに何したん?」
「何って。あいつが殺したんだよ。あのチョコレート仮面のレインコートの男が。僕はあいつに応戦して……」
名誉の負傷である右手を見せびらかそうとしてやめた。余計に怖がられるかもしれない。僕だって小指が今にもちぎれるんじゃないかと思って、冷や冷やしているぐらいだから。
「触ってたやん。マリーの身体」
いや、触ったというか。死体の山に殺人鬼が身を潜めているかもしれないと思って。
僕は死体を触った手を見つめる。
「マリー・ガガの死体は、いくつに見えた?」
「やめて! 死体なんて言わんといて!」
「たくさんあったのは見てないのか?」
「知らん! あんたが何してたんか知らんけど、あんたはマリーの身体を平気で触ってた」
床に並べたんだ。見てないなんてことないだろう。
「別に平気で触ってたわけじゃないよ。僕だって怖かった。君はあのとき逃げて、どこから盗み見してたんだ?」
「うちはずっとしゃがんでたんや。あの食品売り場の辺りにおったわ。まさかマリー・ガガ一人置いていけるわけないやん」
確かにもっちーの低い身長なら、遠くに逃げたように見せかけて近くに隠れることができるだろう。現に、仮面の不審者はもっちーを見つけられずに南側に行った。
「なら全部見てたはずだろ。僕は仮面の不審者を探してただけ」
言い終わる前に何か円盤のようなものが飛んできた。
「え」
僕は反射的に手近にあった絵本を盾にする。
ガラスの割れる音。盾にした絵本からグラスの破片が零れ落ちる。
本棚から頭を少し出して覗くと、仮面の不審者が買い物かごを持ってやってきた。食器類を持参している。利き腕ではなさそうな左手で食器皿をつかんでいるが、今のはまぐれで当てたのだろうか。食器で人は殺せないだろうと、思って半身を本棚から出す。
僕の顔面めがけて、平皿がフリスビーのように飛んできた。
「もっちー走れ!」
絵本で弾いたが、続けざまにどんぶり皿を膝あたりに投げつけられた。
「いってぇ!」
膝に当たってどんぶり皿が割れたが、僕の膝の皿も割れそうなぐらい痛い。足をかばってしゃがみ込みそうになると、絶好の的になったのだろう今度は茶碗が振ってきた。危うく脳天に直撃するところだったが、すんでのところで横に躱した。無理な姿勢で避けたので、腰から床に落ちた。骨盤を強か打ちつけて呻く。じんと響く痛みに顔を
絵本で頭だけでもかばったが、次々に皿が腕を打つ。絵本でかばいきれなかった皿の破片が頭に刺さる。どんどん近づいてくる仮面の不審者。距離が縮むほど、投げつけてくる威力も命中率も増す。
あいつは正確に僕の曲がった本棚を追跡してきた。
「もっちー、先に行け!」
「言われなくても行くわ」
生意気すぎだろ。
仮面の不審者は包丁を固定した右手を使えないから、一枚ずつしか投げられないはずだ。
途中で振り返り、目をかばいながらしっかり飛んでくる皿を見極める。投げつけられた皿を絵本で弾き飛ばし、奴の懐に入る。絵本は投げ捨て、買い物かごにぶら下がるようにすがりつくと、相手はバランスを崩した。
仮面の不審者はすっ転ぶ寸前、買い物かごを放った。買い物かごの遠心力で僕はそのまま倒れ込む。
僕が倒れた後どうなったかなど一切顧みずに、仮面の不審者はもっちーの走る音を追った。しまった。はめられた。僕を集中的に攻撃すると見せて、やはり狙いはもっちーだった。
相変わらず仮面の不審者は速い。これじゃあ、もっちーは逃げきれないだろう。立ち上がろうとしたが、膝にびりっと響く痛みが走った。なんとか立ち上がる。
同じフロアで誰かが転んだような床の振動を感じた。
短い悲鳴が聞こえた。
声のした方、ケータイショップ店の並ぶ中央エリアより北のブロックに走る。最悪の予感がする。
一つ目のブロックを曲がったところにあるケータイショップだ。店内に血が点々と続いている。遅かったか。
「……もっちー」
立ち止まって声をかけるが返事はない。仮面の不審者は隠れているのだろうか。ショップの陳列棚の裏に続く血の量は増えている。小さな腕が投げ出されているのが見えた。
「あ……ああ」
もっちーは俯せでこと切れていた。背中を刺され、自身の血の海に浮かんでいる。それも、幾人ものもっちーが折り重なって。
守れなかった。ごめん。ごめん……。何もできなかった。
不思議と涙は出なかった。生意気な子供たちだったけど、死んでいい人間なんていないはずだ。
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