オペレーション8
オペレーション8 ―1話
■先輩と後輩、転落す
「オトイチ先輩! ようやく終わりが見えてきたッスね!」
「ああ。思ったより時間が掛かったな」
「にしても準備期間を入れたら丸1か月? いや、40日は掛かってるッスよ!」
「おおっ、ポンよ! お前、いつから数字が分かるようになったんだ?」
「先輩、もしかしてオレのこと、バカにしてます?」
「いや、バカにはしてはいない。ただ、トップクラスのバカだとは思ってる」
「あざっす!」
「褒めてないから」
「でも、面接だけならまだしも、“守秘義務”うんたらかんたらって契約書を書かされて。健康診断とか体力測定までやらされたんスから」
「むしろありがたいじゃないか。フィジカル面まで面倒見てくれて」
「またぁ。今まで、そんな妙ちくりんな雇い主、いなかったじゃないッスか!」
「でも、その分、報酬は相場の2倍! むしろリッチな雇い主に感謝しようぜ!」
ここはスクランブル交差点。
を見下ろすビルの上。
のさらに上。高層ビル屋上に鎮座する巨大なイヌのオブジェの鼻先。
地上120m。
オトイチとポンは、命綱一本で壁面にへばりついていた。
といっても、彼らはスタントマンでも、危険を省みない動画投稿者でもない。巨大犬の清拭作業を依頼されたプロのクリーナー。掃除職人である。
曲芸的危険業務をアシストしてくれているのは、高所作業に特化した特殊なグローブとシューズ。
それは、ヤモリの指先の構造をヒントに、最先端の生物模倣技術を駆使して作られた特殊なジェットだが、当の2人は“壁を登れる”という端的な事実にしか興味がなかった。
販売サイトには一応、『ヤモリの足に数十万本生えている超極細毛にはたらく“ファンデルワールス力(分子間引力)”によって壁に接着できる』という説明書きがあったが、2人はそれにすら目を通していなかった。
テレビを買うとき、テレビが映る仕組みまで知る必要はない。
というのが、彼らの持論だ。
ただ、原理は理解していないものの、愛用しているその仕事道具には、絶対的な信頼を置いていた。
腰から伸びた命綱は、あくまで不測の事態に備えた保険に過ぎなかった。
コンビを組んで3年。高所作業では、同業者からも一目置かれている。
元々は、大手清掃会社で正社員として働いていた2人だが、クリーナーとして独立することを決めたオトイチが、目を掛けていた後輩のポンを誘う形でコンビが成立した。
「でも、やっぱり意味わかんないッスね、このイヌ。何でわざわざ、こんな馬鹿でかいモンを、ビルの屋上に?」
「SHINJUꞰUのゴジラでも、12mって話だからな。コイツは、その倍くらいある」
「ってことは、……。………。とにかくデカいってことッスね!」
「25mくらいってことだな」
「キングハチ。いまや、SHIᗺUY∀のシンボルッスからね」
「謎多き存在でもある。ビルの正式なオーナーが誰なのかも、なぜ屋上にこんな巨大オブジェを設置したのかも明かされていないからな」
「そもそもキングハチって呼び名も、オレら部外者が、勝手にそう呼んでるだけッスもんね」
「ああ。でも、いくら街の象徴といっても、ただそれだけのために、わざわざこんなモン作るってのは、やっぱり理解しがたいよな。金持ちの道楽にしても」
会話を続けながらも2人の手は止まっていなかった。スルスルと壁面を移動しながら、キングハチのメタリックなボディを磨き上げている。
「都市伝説的なウワサ話は、いろいろあるみたいッスけどね。実は、巨大ロボットで、SHIᗺUY∀に危機が訪れたとき、おもむろに動き出すとか」
「SHIᗺUY∀の危機って、どういう状況だよ?」
「意志を持ってるっていう説もあるんスよね。夜中に寝言を言うとか」
「庶民的な生態だな」
「あと、実は凶暴って説もあるんスよね」
「急にバイオレンス!」
「高層ビルの上に乗せられてんのは、地上に降りて暴れることができないように。って話ッス!」
「大人しく主人の帰りを待っててほしいな」
「近づいて実際に触れば、少しは“正体”に迫れると思ったんスけどね」
「オレらのように表面を撫でているだけじゃ、中がどうなっているのかまでは分からないからな。都市伝説は都市伝説のままってことだ」
そうこうするうち、作業は終盤に差し掛かっていた。
「あとは、アゴ裏だけッスね!」
「おう! 逆さまで貼り付くことになるから、気を引き締めていくぞ」
「問題ないッスよ。一度もヘマしたことないし。じゃ、お先ッス!」
ポンは、おどけて敬礼のポーズを取ると、吸盤ガジェットを起動させた。
「おいっ! ちょっと、待て!」
制止するオトイチを無視し、ポンはアゴ裏の死角に消えた。
「ったく……」とボヤきながら、命綱の張りを再確認するオトイチ。
問題ないことが分かると、自身もガジェットを作動させ、慎重にアゴ裏に回り込む。
現着すると、片手片足を壁から離したポンが、ニヤつきながら待っていた。
「先輩、ビビッてるんじゃないッスか? これくらい全然楽勝ッスよ」
あきれ果てたオトイチは、さっきの当てつけもあってガン無視したが、ポンに悪びれる様子はなかった。
しかし、それから1時間半後。
ポンの調子づいた発言が、死亡フラグであったことが判明する。
作業を終え、鼻頭に戻ろうとした瞬間、2人の間を突風が吹き抜けた。
セオリーに従って、とっさに命綱を掴んだオトイチは、何とかその場に踏み留まることができたが、基本をないがしろにしたポンはそうはいかなかった。
全身でまともに風圧を受け、上方に吹き上げられる。
風が収まると、今度は命綱により、振り子のように揺り戻された。
その先には、ギリギリ風に耐えていたオトイチがいた。
2人の口から、声にならない悲鳴が漏れる。
それでも、オトイチが瞬間的に身をかわしたおかげで、正面衝突は回避された。
が、そのせいでオトイチまでもが壁から引き剥がされ、空中に投げ出されてしまった。
反動で2人の命綱が絡まる。
結果、絡まった命綱に巻き込まれたポンが上方に固定され、その下にオトイチがぶら下がるという危機的状況に陥ってしまった。
「ぐ、ぐううぅぅ」
苦しげなうめき声を漏らしたのは、ポンだった。
頭上を振り仰いだオトイチの顔に、粘度のある液体がポタリと滴り落ちてきた。出所を目で追うと、その液体はポンの腕から流れ出ていた。
血だ。
ポンの利き腕である右腕が、ロープで絞り上げられている。
重りになっているのは、ぶら下がったオトイチの体重だった。
「お、おいっ! ポン! だい……」
オトイチは、「大丈夫か?」と言いかけたが、その問いが無意味であることを悟って、言葉を飲み込んだ。
大丈夫なはずがなかった。
高硬度のロープによって、腕がねじ切られるのは、時間の問題と思われた。
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