第31話

「ぎょわああああああああああ!?」

「ちょ、ちょ、山城ちゃん、ごめ、落ち着いて!?」

「はっ!」


 慌てた男性の声に、私は急いで振り返った。


「藤原さん!?」

「そうだよー。そこまで驚くことないじゃん……」


 薄暗い廊下で、藤原さん困ったように笑いながら、自分の顔の隣で、缶コーヒーを振って見せている。


 あれを私の頬に当てたわけか。


「び、び、びっくりしますよ、そりゃあ!」

「ごめんて。意外にビビりなんだね……一人で深夜残業ばっかりしてるから、肝が据わった人かと」

「いや、」


 案外肝が据わってるね、は割とよく言われるし、自分でもそうだと思っていたので、今は、自分で自分にびっくりしているところだ。


 なんだか急に、決まりが悪くなってきた。


「……安倍さんがいけないんすよ」


 ぼそっと小さく呟くと、藤原さんが不思議そうに首を傾げる。


「安倍さん? なんかされた?」

「ああ、いや、別に、なんていうか」


 頭をかきながら、息を吐き出して、気持ちを落ち着けた。


「てか、どうしたんですか、藤原さん」

「いや、なんかトラブってまた残業って聞いたから、お見舞いに来たつもりだったんだけど」

「あー」


 手渡された缶コーヒーを受け取る。手のひらに結露の水滴がついて、ひんやりして気持ちいい。


「ありがとうございます」

「なんか手伝おっか? ……分析はできないけど」

「いや、そんな、いいですよ」

「良いじゃん、手伝わせてよ。凄まじい悲鳴上げさせたお詫び」

「凄まじいって……ううん」


 自分の悲鳴を思い出したら急に恥ずかしくなってきた。が、確かに、こんな薄暗い廊下で何の予告もせずに背後から冷たい物体を接触させてくるの、あんまりじゃないか。ヒヤリハット事例だ。


「うーん、そしたら、今、資料を分析室にいくつか持って行こうかと思ってたとこなんで……運ぶの手伝ってもらえます?」

「オッケー」


 気前よく明るい返事をして資料室に一緒に入ってきてくれる藤原さんは、人好きのする性格だなあと思う。


 こういう人柄なら、ピンチになったときに助けてくれる人がいっぱいいることだろう。


「これと……あと、これか」


 ほこりっぽい書棚から目当てのファイルを取り出す。


「重そうだね」

「うん……製品立ち上げの時のバリデーション試験資料なんですけど……こんなに分厚いとは思いませんでした」


 特定の医薬品を工場で初めて作るとき、バリデーションという、適切に製造ができるということを証明する行程が必要になる。普段の試験よりも多くのデータ取得が必要となるため、残されたデータも膨大になる。


「うおっと」

「ああ、持つよ持つよ」


 棚からファイルを抜き取ろうとしてバランスを崩しかけたところに、藤原さんが割って入る。


「……すみません」

「良いんだって」


 慌てて接触した手を退けると、藤原さんがなんてことないように笑った。


「手伝いに来たって言ったんだから、手伝わせてよ」

「はい……」


 時々、藤原さんのこういう仕草にものすごく居心地悪く感じることがある。向こうは純粋にただ親切なだけなのに、居心地が悪いなんて思ってるなんて失礼だよなぁなんて思って、余計に心がざらつく。


 誰とでも仲良くなれる藤原さんと違って、私は会社の中ではまだ新参の中途社員で、そんなに交友範囲も広くない。そんな私が藤原さんの親切さに寄りかかっていると、周りからは「妙に仲が良いな」という目で見られてしまうんだろう。


 自分の人間づきあいのバランスの悪さのせいで、意図していない見られ方をして、変な噂を呼んでしまう。


 悶々としながら、藤原さんと手分けして重い紙の束を抱え、資料室を出た。


「……山城ちゃん、どうかした? お疲れ?」

「あ、いえ……えと」


 軽く咳払いすると、気分を切り替えるための別の話題を咄嗟に考える。


「……そういえば藤原さん、昔品管にいた須藤さんて方、知ってますか? 清原さんより前に天神メディックの製品の分析担当者だったみたいなんですけど」

「あー! さん! 懐かしいな」

さんて言うんですか。女性の方?」

「うん。須藤さわさん。うーん、6、7年ぐらい前に辞めて……そのとき30代半ばぐらいだったかな」

「へえ……」


 短い期間で色んな会社を転々としていた私は、何年も前に辞めてしまった社員さんのことをこんな風に懐かしがる経験をしたことがない。藤原さんとは同い年なのに、会社員としての人生経験の積み方が違うのだな、と改めて感じる。


 そして、自分のこの会社への接し方や見方が違うのは当たり前なのだ、ということも。


「どんな人でした?」

「うーん、あんま話したことなかったけど……理系女子! って感じで、クールで真面目っぽい雰囲気だったよ。ちょっと山城ちゃんに似てたかもね」

「てか私ってそんな風に見えてるんですか?」

「えっ、別に悪い意味はないんだけど……。ああ、あと、彼女も山城ちゃんと同じで、Uターンの中途入社だったみたいだよ」

「へえ……。退職の理由は、転職ですかね? それともご家庭の事情とか……?」

「あー、うん、どうなんだろう」


 急に藤原さんが少し口ごもった。歯切れの悪い相づちに、私は首を傾げる。


「ええと、まあ、山城ちゃんも聞いてると思うけどさ」

「はい?」

「いや、うちの品管さんて、中途入社の人が居着かないって専ら言われてるんだよね。人間関係なのか仕事の内容の問題なのか、俺らもよくわかんないけど。せっかく入社してもらっても、結局しばらくしたら退職しちゃうっていうか……」

「ああ、それは……聞いてます」


 噂としても聞いているし、実感もしている。


 今の部署内で、中途入社組は私と坂上課長だけだ。おまけに坂上課長は休職中である。その前にも、即戦力だった中途入社の社員さんが3年持たずに辞めてしまったのを複数回見ている。


 初めて監督職になってから、頼りになるはずの部下に退職の相談を受けたときは、結構ショックを受けた。


 どの人も理由はすべて、聞けばさもありなんという感じのもので、強引に引き留めなどできなかった。人間関係の問題か仕事の内容の問題か、と問われると、一言では説明しがたい。根深く複雑な問題が部署内、会社内に渦巻きまくっているのを実感した。


「……山城ちゃんはぶっちゃけ、続きそうなの?」


 ちょっと聞きづらそうな口調で、藤原さんがこちらをのぞき込む。


「いやあ……」


 直球で聞いてきたなあ。


 そして、答えづらい質問だ。


 時々、こんな仕事の仕方では、長くはやってられないなあ、とも思うし、年齢的に、次の転職が最後のチャンスだなあ、とも思う。一度、落ち着いて将来設計について考え直さなければいけないとは思っているが、忙しくなればなるほど、そんな余裕がなくなってくる。


「なんといか……なんとも言えないですね」

「えー。ちょっと、山城ちゃん、辞めないでよー?」

「なんでですか、私の勝手じゃないですか」


 会話しながら歩いているうちに、いつの間にか分析室の前まで来ていた。


 藤原さんの冗談めかした言葉に、どう返せばいいかわからずに、咄嗟に可愛げのない言葉が出てきてしまった。辞めないでほしい、と言われるのは、ありがたいはずなんだけどな。


 私の、少し棘があるようにも思われたかもしれない言い方に、藤原さんが少し視線を彷徨わせ、何か言葉を選ぶようにして、口を開いた。


「いや、だってさ――」

「お疲れさまです」


 何か言いかけた藤原さんの言葉が、突然開いた分析室の扉によって遮られた。


 中から安倍さんが顔を出す。


「うわっ、えっ、安倍さん、ナンデ?」


 分析室に安倍さんがいると思っていなかったらしい藤原さんが驚いている。


 それには全く動じずに、安倍さんは至極冷静な表情のまま、私が抱えているファイルを指さした。


「そちらの資料からも、HPLCと同じ、負の念を感じます」

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