第17話

「かかってないですね」

「お、山城ちゃんも気になってた系?」


 今日は珍しく早めに仕事のキリがついた私は、帰宅前に一度、朝に安倍さんが設置した猫の捕獲器を見に来たのだった。


 先に来ていた藤原さんに声をかけると、設置したときのまま空っぽな箱罠を示し、肩をすくめている。


「お昼頃に一度、見たんですよ。白黒の模様の猫。難波製紙さんの駐車場の辺りを歩いてました」

「あ、俺も見たことある猫かも」

「自由に生きてるなら、捕まえちゃうのもなんか可哀想な気もしちゃいますね。でもゴミを荒らしたとか敷地内で糞したとかなら仕方ないか」

「まー、それもあるけど……実際、野良猫って幸せだとも限らないんじゃないかな」


 藤原さんの言葉が意外で、私は首を傾げた。猫といえば、気ままで自由で、人間に縛られない生き物、というイメージが、なんとなく自分の考えの中で固定されていた。


 ペットを飼ったことがないこともあって、私は動物愛護の精神というのか、動物自身の気持ちだの幸せだのについて思いを馳せたことがない。確かに、外で生活できないのは可哀想、と私が口にしたことに、深い考えや根拠はなかった。


「外で生活してたら病気にかかることもあるし、こういう企業団地にいたら車もバンバン通るから事故に遭うリスクもあるよね。冬は雪が降って路面も凍結して寒いし、落ち着いて眠れない。外の生活は過酷だよ。人間に飼ってもらえるなら、その方が良いんじゃないかな」

「なるほど……藤原さん、犬派って言ってた割には、猫にも詳しいんですね」

「いやまあ、インターネットで見た意見の受け売りだけど」


 急に照れたように藤原さんが頬を人差し指で軽く掻いた。いつもおちゃらけたような態度ばかり取っているので、真面目に長々と意見を語ったことが気恥ずかしくなったのかもしれない。


 藤原さんは、初対面の頃こそコミュ力だけで生きてるタイプの人かと思って敬遠していたが、今は仕事に対しても真面目だし知識や経験も沢山持っている、頼れる人だ、と私もわかっている。


「思いこみとか、決めつけって、よくないですよね」


 野良猫の善し悪しについても、同僚の人柄についても。


 視点を変えてみたり、長く時間をかけてみたりして、初めて見えてくるものがあるのかもしれない。


「はあ……」


 思わずまた、目下の悩みの種に意識が飛んで、ため息が出てしまった。


「何なに、なんか悩んでる?」

「ああ、いや」


 少し考えてから、もう一度小さくため息をつく。


「……藤原さんは、後輩の指導に悩んだことってあります?」

「えっ?」

「特に歳が離れた女の子って、どうやって距離を縮めたらいいのか、難しいっていうのか……こっちはそんなつもりなくても、萎縮されちゃったりとか」


 言いながら、ふと顔を上げると、藤原さんが何故か気まずそうな顔をして固まっている。


「どうかしたんですか?」

「……もしかして、安倍さんから何か聞いた? 第三製造課の……」

「ん? 第三製造課? 安倍さん?」

「あ……」


 藤原さんが両手で顔を覆った。


「口、滑らした……」

「どうしたんですか?」

「あのさ、オフレコでお願いできる?」

「え、あ、はい」


 渋い顔で、声を潜めて、藤原さんは続けた。


「今朝言ってた、錠剤外観検査チームの欠員問題、パワハラが原因なんじゃないかって噂があるんだよね」

「パワハラ!?」

「噂だよ、噂。俺の耳に入ったってことは、逆に、正規のルートで告発されたとかじゃないと思うんだけど」


 パワハラ、セクハラの相談は総務部が受け付けることになっていて、当然、訴えた人の情報は保護されることになっている。……規則上は。実のところ、3度の飯より人の噂が好きな女たちが跋扈ばっこしている田舎の小さな工場で、守秘義務もクソもあったものじゃない……というのが、私自身の体感である。


「あんまり交流ないけど、第三製造課って結構上手くいってる部署かと思ってました。リーダーしてるお二人が姉御肌でよく若い人たちまとめてるっていうか……」

「いや、それなのよ。あくまで、噂なんだけど」

「それ……とは?」


 藤原さんが困ったように後頭部を掻いた。


「今まで、日向さんと越智さん、二人でそれぞれのチーム束ねてたでしょ。それが、越智さんがしばらく産休で抜けるから……先週辺りから検査チームの方のリーダーの仕事を徐々に日向さんに引き継いでるらしいんだけど、ちょうどそのタイミングから、体調不良者が出始めたんで、関係あるんじゃないかって……」

「えええ」


 さすがにそれは飛躍しすぎじゃないだろうか。


「タイミングがたまたま被っただけで、当事者が訴え出た訳ではないってことですか?」

「いや、あの、俺も、詳しいことは知らないんだけど。上の人たちが元々ちょっと、心配してたんだよね。日向さんてちょっとこう、男勝りの体育会系ノリで、女の子相手にもキツいとこあって、監督範囲が広がったら何かやらかすんじゃないかって」

「はっ!」


 思わず鼻で笑いそうになってしまった。


 確かに女同士の人間関係の難しさというのは世の中に数多あまた存在するが、それは昭和生まれのおじさん連中が妄想するような単純で救いようのないものではない。


 そもそもハラスメントなら先日、私がおじさん連中から会議で食らいましたけれど?


「日向さんは時々乱暴な言葉遣いもしますけど、理不尽な暴言吐いたりする人じゃないですよ」

「いや、それは俺もわかってるのよ。良い人なんだよね。でも、こう、人には相性ってのがあるじゃん。山城ちゃん入社前のことで知らないかもだけど、あの二人のリーダー体制になった直後、結構人の入れ替わりが激しくて、最終的に日向さんと相性の良い人、越智さんと相性の良い人、で今の配属に落ち着いたところあるんだよね」

「うーん」


 確かに、日向さんと越智さん、仲が良いのが意外に思えるぐらい、性格のタイプが違う女性で、それぞれと相性の良いタイプの部下、というのもまた、極端に分かれそうな感じでは、ある。


 そういえば……と、昼に日向さんと交わした会話を思い出す。お腹が痛くて早退した、とか言ってた……が、日向さん自身はそこに何も疑問を持っていないような口振りだった。


 お腹が痛い、とか言うと、確かに、精神的なものでなるというイメージはある。不登校になる小中学生も最初は登校時間になると腹痛を訴えることが多いらしいし――いやいや、まさか。


「うーん。なんとも言えないですけど、それならそれで、安倍さんが総務部の立場から何か対策してくれると良いですね……」

「だね! この前みたいにパワハラの悪霊が作業室にいて、お祓いしてくれるとか」

「お祓いで一発解決できるのはありがたいですけど、そんな悪霊いるとしたらめちゃくちゃ嫌ですね……」

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