第12話

 手元には問題の「逸脱報告書」がある。


 信じられないことを目の当たりにした興奮でしばらく冷静さを失っていたが、書類を目の前にして意識が現実に戻った。いくらなんでも「原因は他社から幽霊が来て包装機に憑依してたことです」、なんて書けるわけがない。


 さんざん迷った末、私は今、GMP推進課の事務室にいる。


「失礼します」


 ノックとともに入室する。分析機器や実験用の空調設備の駆動音で常にうるさい品質管理課の部屋に慣れていると、この部署の静けさにはいつも妙な緊張感を覚えてしまう。


 5つのデスクが向かい合わせにくっついた島では、作業服を着た、疲れ切った社員たちが黙々と事務作業をしている。


 そこから離れた席で、小野部長が顔を上げた。品質保証部、GMP推進部そして品質管理部と、社内のすべての品質に関する部門の部長を兼務している、私の直属の上司である。


「ああ、山城くん、ご苦労さん」


 白髪交じりの初老の男性は、低い声でそう言うと、手元の書類に視線を落とした。私は早足でそのデスクの元へ向かった。


「お忙しいところすみません、急ぎで承認いただきたい是正措置計画書がありまして」

「ああ、今朝の会議で言ってたやつか」

「はい」


 あの会議のとき、小野部長は黙って腕を組んだまま特に口を挟まなかった。というか、目を瞑っていた気がする……もしかしたら居眠りしてたのかもしれない。


 おもむろに右手を差し出された。頭を小さく下げ、持ってきた「是正措置計画書」を渡す。小野部長が老眼鏡をかけ直す。


「どれどれ……」

「一つコメントを書いて、計画そのものは承認しました」

「ふむ。『次回生産前に機器の運転条件の再検討をしてください』。なるほど?」


 本当に安倍さんの処置でこの問題が解決されたのなら、今回の包装行程では今までのような錠剤の崩壊は起こらなくなるはずだ。


 問題が起こらなくなることは良いのだけど、これまでずっと立て続けに起きていた問題が理由もなしに急に起こらなくなるというのも、それはそれで問題である。


 そういうわけで、次回の生産前に「機械の運転条件の再検討」を行って、あたかも「新しい機械の運転条件を設定したことによって問題が解決した」と装う作戦にしたのだ。


「うん、良いでしょ」


 抑揚のない声でそう言うと、小野部長はデスクの上のシヤチハタを手にとり、「承認」の覧に捺印した。


「春日くん、これ、急ぎらしいから処理してあげて」


 眼鏡の痩せ形の顔色の悪い青年が黙ってデスクから立ち上がり、書類を受け取って、静かにまたデスクへ戻っていく。


「ありがとうございます、それでは失礼します」

「あー、山城くん」


 小野部長は老眼鏡を外して自分の眉間を軽く揉みながら、まだ行くな、と言わんばかりに右手を軽く振った。


「どうだね、最近、業務の方は」

「えーと……どう、と、言うと……」


 小野部長は業務中に雑談を多くする方ではない。この場で急に英会話のレッスンよろしくHow are you? 的な質問が来ると思わず、咄嗟の返答ができなかった。


「坂上くんが本格的に休みになって、2週間ぐらい経ったでしょう。困っていることはないの」

「あ、はい。坂上課長にはお休みの前から色々と細かく引き継いでいただいていて……その後もわからないことは周りの方に助けていただいています」

「ふむ。ならまあ、良いけどね。今朝の会議でもなんだか熱くなってたみたいだけど、最初から張り切りすぎるとバテちゃうからね。ほどほどにね」


 モヤモヤがぶり返しそうになって、思わず口もとにきゅっと力が入りそうだった。てか小野部長、絶対寝てたくせに、という気持ちがわき上がる。それを表に出さないように、2、3秒沈黙し、呼吸を整える。


「すみません、今朝は、出過ぎたことをしてしまって……」

「いや、別に悪いと言ってるんじゃないんだけどね」


 小野部長が声を荒らげているところは見たことがないが、わかりやすく笑っているところも見たことがない。ちょっと、表情が読みにくい人だ。


「社長はゆくゆくは管理職や経営職に女性を入れたいとか言ってたこともあって、山城くんに期待してるみたいだけどね。まあ、ずっと男ばっかりだったから、実際はああいう雰囲気でしょ。上手く立ち回らないと、結局あなただけが損することになっちゃうからね。理不尽に思うかもしれないけど」

「はあ……」


 静かに、しかし滔々と語られて、毒気を抜かれてしまった。これは、一応、気遣ってくれてるのだろうか? と思ったが、気のきいた返答ができない。


「今のとこ、そこまで困ってないなら良かったよ。引き留めて悪かったね、まあ、頑張って」

「あ、ありがとうございます」


 慌てて頭を下げると、部屋を退出した。


 廊下を歩きながら、小野部長の言葉を反芻する。


 上手く、立ち回る……か。居心地が悪くなったり、立場が悪くなったらそれまで、というスタンスで非正規雇用の職場を転々としていた私が、あまり意識していなかったことではある。


 昼ご飯のときの藤原さんの話も含めて、色々と考えさせられてしまう。



 静かなフロアから、品質管理課のエリアに戻ってくると、扉の向こうから漏れる唸るような機械音たちによって足音もかき消される。


 部署の中でも管理監督職の作業室になっている事務室へ入ると、PCに向かって黙々と作業をしていた橘さんが顔を上げた。


「山城さん、急ぎで合格判定欲しい原料あるそうです」

「あ、はい、了解です」


 デスクの上に、至急! のメモ用紙とともに受け入れ試験結果の書類が置かれている。


「判定次第、生産計画課に連絡欲しいそうです」

「了解です」


 私は壁掛け時計に目をやった。昼休憩を遅れてとり、いくつかの書類を処理してからGMP推進部に行ってきたので、時刻は15時を回っていた。定時まであと2時間。今日中に処理しなくちゃならない仕事って何があっただろうか。


 机の上の紙類を探る。席を離れる前に机の上をまっさらにしておいても、しばらくすると色んな人が書類を置いていくので、1時間いないだけですぐに机の上が紙だらけになってしまう。


 再び橘さんが顔を上げた。


「あ、そこにあった教育訓練の書類、処理して品質保証課に回しておきました」

「あ、ありがとうございます」

「あと、宮村機械さんから実験用具のセールのお知らせのDM着てたので、回覧してます」

「あ、ありがとうございます、助かります!」


 橘さんは仕事ができる女だが、今までそうやって私の机から何かを持って行ってできることを処理してくれていることはなかった。休職中の坂上課長にもそんなことしていなかったと思う。どういう風の吹き回しだろう。


 表情は相変わらず乏しく、何を考えているのかわからない。再びPCに目線を戻しながら、橘さんは言った。


「今日中に合格判定が必要な製品はないはずです。試験記録の処理はその原料の2ロットだけで良いはずですよ」

「あ……はい」

「……定時に帰りたいんですよね」

「あっ」


 その言葉に、思わず私は目を丸くした。


 今朝の何気ない会話、覚えていてくれて、気を使ってくれたんだ。


 いつもどこかちょっと緊張しながら接していた橘さんが示してくれた心遣いに、嬉しさがこみ上げる。


 あ、でも、星占いのせいだって思われてるのかな……それはちょっと微妙だな、などと、思いつつ。

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