第10話
藤原さんが別室から椅子を4脚かき集めて運び込み、私たちは腰を落ち着けた。
なんとか
「田辺さんは、長岡薬業さんに30年お勤めになり、10年ほど前に経営が厳しくなってからも、事業の建て直しのために奔走なさっていたとお聞きしました」
安倍さんが淡々とそう説明する。朝の会議の後、昼休みまでの間に、他社の社員さんのプロフィールについて調べていたのだろうか。
「俺は……あの会社に尽くしてきたんだよ……」
安倍さんの言葉に、田辺さんはすっかり萎れ、うなだれながら、弱々しい声でそう呟いた。殺気を振りまき怒鳴っていた面影はどこにもない。情緒不安定が過ぎる。
「工業高等専門学校を卒業後に長岡薬業へ入社、製造課に配属され生産ラインに従事。その後、若くして責任者に抜擢され、管理、設計、仕入、営業……社内の多岐にわたる業務に携わっていたそうですね」
「へえ……」
私は思わず感心して小さく声を漏らした。小規模な会社ではもしかしたら珍しくもないのかもしれないが、平安製薬に来るまでは大企業のラボを派遣で転々としていた私は、自分が所属する以外の部署に深く関わらない働き方をしてきた。オールマイティな仕事ができる会社員というのは、ちょっと憧れる。
「俺は会社のために何でもやったし、会社を再建するために全力を尽くしたんだ。経営が傾いてるって聞くなり、同期も若手もベテランもこぞって逃げ出したけど、俺はずっと会社に尽くしてきた。事業内容を整理し、設備や手順を見直して経費削減させ、販路の確保もやって……。なのに、なのに……」
「……何があったんすか?」
悲壮感のこもった田辺さんの語りにいつの間にか絆されたらしい藤原さんが、続きを促した。
「俺は会社の生き残りの道を探して、買収してくれる企業を探して交渉をしてきたんだ。社長も高齢だし、この方針に賛成してくれていた。それで、やっとのことで、比較的いい条件でM&Aに応じてくれる関西の企業を見つけた、それなのに……」
「ダメになっちゃったんですか?」
先に安倍さんは、長岡薬業はもうすぐ破産申請する、と言っていた。条件がまとまった後に急激に経営が悪化したとかで、取引がなくなってしまったのだろうか。
「……田辺さん? 大丈夫ですか?」
田辺さんは突然黙りこんで、うつむき、そして、椅子の上で震え始め――
「うおおおおおおお! ちくしょう、なんで、なんでなんだよおおおおお!」
「う、うわ、落ち着いてください!」
突然また、大声が部屋に響きわたり、私と藤原さんは思わず椅子から立ち上がって身構えた。安倍さん一人が落ち着き払っている。その微動だにしない姿勢の良い姿を見て、ふと思い出した。そうだ、田辺さんは生身の人間じゃないので、暴れてもこちらに害はないのだ、さっきも安倍さんに殴りかかろうとしても、結局は安倍さんに触れられなかったのだから――
と、思った次の瞬間、
「うおおおお!」
叫び声とともに、バキイィ! という乾いた破壊音が鳴り響いた。
「ええええ、嘘ぉ……」
藤原さんが呆然と呟く。
田辺さんが振り下ろした拳が、椅子の肘掛け部分を破壊していた。プラスチック製の破片が床に散らばり、スチールの骨組みがむき出しになっている。
物体に触れられないわけじゃなかったのだろうか。そういえばそもそも安倍さんは、田辺さんがペインレスA錠の崩壊の原因だと言っていたわけで、物によっては壊すことができるのだろうか?
「た、田辺さん、冷静になって――」
藤原さんがへっぴり腰で両手の掌を突き出しながら、田辺さんにおそるおそる声をかけた、それと同時に、キンコンカンコン、と、昼休みの終わりを告げるチャイムが流れた。
目の前の田辺さんに完全に気を取られていたところに、びりびり振動が足下に伝わるぐらいの大音量のチャイムが響いて、私は驚きからぶるぶるっと肩を震わせてしまった。
気付いたら、肘掛けが破壊された椅子の上には誰もいなくなっていた。
「えっ、あれ? 田辺さんは……?」
「長岡薬業の方でも昼休み終了のチャイムが鳴って、田辺さんの本体が眠りから覚めたのでしょう」
安倍さんがそう言いながら静かに椅子から立ち上がり、床に落ちた肘掛けの破片を拾い始めた。
「え、眠りって……」
「田辺さんはいつも昼食後にデスクで昼寝をなさっているそうです」
「いや、そうじゃなくて」
「あ、安倍さん、箒とチリトリ使ってください」
藤原さんに手渡された掃除用具で、安倍さんは細かい破片をかき集める。小さいゴミ袋にそれを移しながら、ようやく求めていた説明が始まった。
「さきほどは、田辺さんが長岡薬業のオフィスでうたた寝、すなわち半覚醒状態になったタイミングで、その意識をこちらに呼び出しました。これまでペインレスA錠が崩壊していたときも、先ほどのように霊体がこの部屋にやってきていたのでしょう」
「えっと……ペインレスA錠を製造していたときに、田辺さんが職場で寝てたってことですか?」
困惑しながら聞き返すと、安倍さんが静かに頷く。
「長岡薬業の田辺さんの同僚から聞いた話では、数ヶ月前にM&Aの話がなくなってから、田辺さんはすっかり仕事が手に着かず窓際のデスクでうとうとしているそうです」
「うわあ……」
呆れたような、憐れむような、複雑なため息をついたのは藤原さんだ。
「田辺さんは普段は、非常に物静かで感情を表に出さない性格だそうです」
「ええっ? さっきはあんなに激しく声を荒らげてたのに」
「普段は表に出さないようにしている感情や、深層意識下での思考が、半覚醒、半睡眠状態で形になったのでしょう。そしてそのエネルギーが、かつて繰り返し操作していたこの機械に乗り移った……」
「ええ……そんなことって」
俄に信じがたい気持ちはあるが、実際、突然田辺さんがここに現れ、そして消えた一連の出来事は、この目でしかと見てしまったのである。
「田辺さんの霊体は苛立つと手元の物を叩きつける癖があるようなので、包装したPTPシートに彼が拳で衝撃を与えて錠剤が崩壊したのではないでしょうか」
「じゃ、じゃあ、これまでの是正措置で錠剤の崩壊する確率が減っていたのは……?」
田辺さんが憎しみを込めてPTPシートを叩いていたのが原因なら、包装機のスピードを調整したところで不良率に変化が起こるとは思えない。全ての錠剤が崩壊しているはずだ。
「田辺さんはオフィスでぐっすり8時間寝ているわけではなく、うとうとしているだけです。包装機の回転率が落ちて包装時間が長くなれば、包装行程が完了する前にオフィスで目が覚めるでしょう」
「うーん」
まるで決まりきった数学の公式の解説をされているのかと思うほど淀みなく解説されて、雰囲気に呑まれそうになってから、いや、なるほどなどとは言いたくないなあと顔をしかめる。
「なるほどわからん!」
あっけらかんと言い放ったのは藤原さんだ。わからん、と言いながら、全く戸惑う様子も焦る様子もない。
「とりあえず、田辺さんも職場に帰ったみたいだし、俺たち一旦事務棟に戻りません? お腹空きましたわ」
「はあ……」
昼ご飯を後回しにしてここに来たので、確かにそろそろ何か食べた方が良い。
隣の作業室からも機械が作動する轟音が響いてきた。
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