第9話

「ちくしょう! ちくしょう!」


 聞いたことのない、少し歳のいってそうな男性の声が部屋に響き、私は目を開けた。


 作業室には私と藤原さん、そして安倍さんの3人しかいなかったはずなのに、いつの間にか、PTP包装機の傍らにもう一人、無塵衣を纏った人物が出現した。


 声を荒らげながら、PTPシートの排出口の前で、拳を何度も振り下ろしている。


「え、誰!?」


 藤原さんの声が驚きでひっくり返っている。製造現場によく出入りしている彼でも、シルエットだけでは誰かわからないようだ。


 突然、わけのわからないことが起きて、私は声も出せないでいた。


 作業室のドアはしっかりと閉められていた。あの扉を開けて、今、この謎の人物がいる場所まで、平均的な成人の大股で歩いても15歩ぐらいはある。私がまぶしさに思わず目を瞑っていたあの一瞬だけで、部屋の外から扉を開けて閉めて今の場所までたどり着いたなんてあり得ない。それに、もしも仮にこの人物が部屋の外からやってきたのなら、扉の開閉音がしたはずだが、それも聞こえなかった。


 私は呆然としながら、この新たな登場人物をまじまじと眺めた。そもそも私たちと同じようなオーバーオール型の無塵衣を着用してはいるが、よく見るとそれは私たちが着ているものと微妙に色が違う。別のメーカーのものだ。ゴーグルもマスクも長靴も。手袋は流石に見た目にほとんど違いがないけれど……。


「ああっ!? 誰だあんたら!?」


 謎の人物は、拳を振り上げたまま、突然こちらに目を向けた。ゴーグルごしに見える目が、明らかに血走っている。めちゃくちゃ怖い。誰だ? って、聞きたいのはこっちだよ。と心の中で思いつつ、恐ろしすぎてそんなこと口にできない。


 硬直しながら、横目で藤原さんを見る。彼も同じ心境なのか、ちらとこちらを見たのがわかった。


 そんな中、安倍さんだけが、落ち着き払って、謎の男の前に立ちはだかった。


「初めまして。平安製薬株式会社、総務部の安倍と申します」

「はあー? 平安製薬?」


 謎の男は安倍さんより少し背が低かった。下から見上げるようにして、メンチを切っている。


 安倍さんは全く怯むことなく、淡々と言い放った。


「あなたは、長岡薬業株式会社の田辺さんですね」

「長岡薬業って……」


 私は思わず呟いた。


 問題のペインレスA錠を、元々製造していた会社だ。創業の歴史は平安製薬よりも更に古く、かつての社長同士が同窓生だったとかで、先方の採算の合わないいくつかの製品の製造を承継した、と聞いている。


 今は特に大きな取引もないため、どういう会社なのか私はあまり把握していない。


「え、てか、なんでよその会社の人がここにいるんすか?」

「田辺さんはペインレスA錠を当社へ移管した際の責任者のお一人です」


 慌てる藤原さんに、安倍さんが説明する。


 そう言えば、今回の逸脱に当たって過去の製造資料等々に目を通したときに、田辺さん、という名前を見たような気がしないでもない。


「そうなんですか――って、いや、そうじゃなくて」

「なんなんだよ、お前らは!」


 安倍さんのとんちんかんな返答、それに突っ込む藤原さん、何故かずっとキレている田辺さんで、部屋はカオスになっている。


「今回、ペインレスA錠がPTPシートポケット内で崩壊していたのは、田辺さんが原因と思われます」

「ええっ? ……どういうことですか?」


 私が聞き返すと、安倍さんは再びくるりと振り返り、田辺さんに向き合う。


「長岡薬業さんは、間もなく破産申請をされると聞いております」

「うおおおおおおおおお」


 安倍さんの言葉を聞いて突如再び逆上した田辺さんが拳を振り上げた。


 しかし、安倍さんは全く動じず、田辺さんの攻撃を避けようともせず、ただのその場に堂々と立っている。


「安倍さん、危ないっ!」


 思わず身を竦めるが、田辺さんの拳は安倍さんの身体をすり抜けた――まるで、安倍さんがそこに存在していないかのように。何の抵抗も受けず綺麗に空振りした田辺さんの拳を、私と、藤原さんと、そして田辺さん自身が、呆然と見つめる。


「……ちくしょう! なんで、なんでなんだよ! ちくしょう!」

「い、今のは一体……!?」


 私が問いかけると、安倍さんがこちらに振り向いて、軽く頷いた。


「皆さんが今ご覧になっている田辺さんの姿は、霊体になります」

「れいたい……?」

「田辺さんの本体はおそらく今、長岡薬業さんの事務所にいらっしゃいます。魂が抜けだして、こちらにいらしたのでしょう」


 なんだかオカルトめいた言葉がぽんぽん飛び出してきて、面食らいつつも、実際に安倍さんの身体をすり抜ける田辺さんのパンチ、という常識からは考えられない光景を既に目にしていると、受け入れざるを得ない。


「うーんと、漫画とかで聞く、幽体離脱、とかいうやつですか?」

「だいたいそのような理解で問題ありません」

「で、なんでその、長岡薬業の人が、うちの工場に化けて出てるんすか?」


 藤原さんが、後退りながら安倍さんと田辺さんを交互に見やってそう尋ねる。


「化けて出ているわけではありませんが――何か強い負の感情が、このPTP包装機を介して現れ出たことには間違いないと思われます。真相は、ご本人から聞かないとわかりませんが――」


 そう言うと、安倍さんはまだ興奮気味に地団駄を踏んでいる田辺さんに視線をやった。

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