第21話

「無理ですね」


 六条さんは、左手の人差し指で黒縁の眼鏡の端を軽く押し上げながらにべもなく言い放った。


 設備システム部は、社屋全体の設備や工場内の製造機器の保守管理をする設備管理課と、IT関係などを担当するシステム管理課に分かれている。設備管理課の男性社員たちは常に工場中のあちこちから呼び出され、汗だくで仕事をしているため、その事務所は社内一臭いと陰で言われている。


 六条さんはその部屋の紅一点であり、社内のIT関係の業務を実質一手に引き受ける、スーパー理系ウーマンである。


 頼もしい存在であると同時に、仕事の依頼をする時は手強さがある。


「えっと、無理というのは、技術的に無理ってことですかね?」


 私は設備システム部の事務室に持ってきた自分のノートPCの画面を、事務所の隅にあるミーティング用のデスクの上で開いて、六条さんと一緒に見ていた。


 先日、大野さんが画面を印刷して見せてきた、在庫管理システムだ。ここに「試験終了日」という項目があるのがトラブルのもとなのだ。


 そもそも品質試験の開始と締め切りは品質管理部内で指示されるべきなのに、管轄外の部署が操作するシステムに勝手に日付が表示されている。結果、試験担当者がアクセスするシステムに矛盾した複数の情報が表示されてしまい、混乱を来すのだ。


 従って、この項目をシステムから非表示にできないか、とシステム管理課へ相談に来たのだった。


 平安製薬のような規模の小さな会社のシステム担当者っていうのは、せいぜいエクセルのマクロが組めれば上等なレベルで、後は取り引きするアプリケーション開発会社などとのパイプ役をやってくれるだけ、というのが一般的だ。


 しかし六条さんはコンピュータに詳しく、自分でプログラムも組めるという、こんな中小企業の一社員にはもったいないぐらいの知識や技術を持っている。


 そばに置いていた分厚い紙のファイルをぱらぱらとめくりながら、六条さんは説明を始めた。


「いえ、技術的にはいくらでも可能だとは思いますが。この在庫管理ソフトは山背やませ産業に外注して開発して頂いたもので、納品後はこちらで一部軽微な変更をすることはできるのですが、大きな部分を直す場合は山背産業にバージョンアップという形で発注しなければならない、という契約になっているのです」


 淡々とした感情の見えづらいしゃべり方が、ちょっと安倍さんと被るな。などと思いながら聞いていると、六条さんは開発委託時の契約書の一部を指で示した。


 細かい文字が大量に連なっている。回りくどい文語調、特殊な言い回し。甲とか、乙とか。この手の文書も、かつては読むのが苦手だったが、いつの間にやら目を通す機会が多くなっていって、最近では自分でそれを作成する機会まで訪れるようになったのだから、人生とはわからないものである。


 六条さんの説明通りの記載が文書上にあることを確認すると、私はため息をついた。


「つまり、お金が発生する、ってことですね」

「稟議書レベルになると思います」

「それはさすがに無理っぽいなあ……」


 平安製薬の経営陣は、基本的にケチである。特に品質管理課への当たりはものすごくキツい。


 世間はコストカット、節約の概念が物作りにおける美徳みたいに言うが、品質を保とう、より良くしようとすれば当然、お金も時間もかかってしょうがない。品質に関係する部署というのは、お金が有り余っているわけでもない中小企業ではだいたい、金食い虫として敬遠される。


 加えて、試験管やフラスコを振って理化学分析を行う品質管理という仕事はどこの会社でも女性が多くなりがちで、そのせいで部署全体が見下されやすい。


 ……というのは、私が平安製薬に入社したのとほぼ入れ替わりに退社していったベテランの女性社員さんの言葉だった。捨てゼリフを吐くようにそう言われた当時はあまりピンと来ていなかったのだが、坂上課長の代理として他部署との交流機会が増える度に、実感させられる機会が増えた。「女がやるような仕事」という言い方を面と向かってされたこともある。


 そんな立場の品質管理課が、この件で稟議書を出して通るとは思えない。ダメもとで出すにしても、上層部の心証が悪くなることも予想できるし、今はやめておいた方がいいだろう。


「……項目削除は無理として……。じゃあたとえば、この項目をブランクにすることってできますか?」

「入力必須項目から外すということですか?」

「そうですね……それか、見えなくする、とか」


 間髪入れず、返答がくる。


「入力必須項目の変更は、さきほどの「重大な部分の改修」に当たるので不可能ですね。非表示も」

「必須にするかどうかも変更できないの、ちょっとキツくないですか……?」

「私が入社する前に契約されたものなので」


 そう言う六条さんの表情を伺う。何を考えているのかわからない。これが大野さんだったら「別にあなたを責めてるわけじゃないんだよ!」とフォローする必要がありそうで、考えるだけで胃が痛くなるが、さすがに六条さんがそんな被害妄想と不満を遠回しに主張してくるとは思えない。


 彼女は確か大卒出の、30歳前後だったはず。ちなみに独身で、私ほどじゃないが「いつ結婚するのかな?」などと噂されている側の女性だ。


 なんと言うべきか迷っていると、六条さんが続けた。


「私が入社する前は、このようなソフトの開発や保守に携われるような、知識や経験のある方がいなかったと聞いています。そのためにこのような契約になったのかと」

「うーん、なるほど」


 つまり、知識がない人々がそこにつけ込まれた契約を結ばされて、ボられたのではないかという気もする。しかし今更どうしようもない。


「まあ、六条さんみたいに色々いじれる人の方が稀ですよね。私も正直全然わかんないのに、品質試験関係のシステムの相談に色々乗ってもらってかなり助かってますし……」

「お役に立てているなら幸いです」


 六条さんはいつも素っ気ない口調なので、時々、会話をしている最中にもしかして不機嫌なのだろうか? とドキドキとしてしまうこともあった。社交辞令でもそんな風に言われるとちょっとほっとする。


「これからもご迷惑かけるかもしれませんが、なにとぞよろしくお願いします」


 ちょっと冗談めかして言ってみたが、六条さんの表情はあくまでぴくりとも動かない。


「迷惑はかけて欲しくないんですが」

「うっ。すみません」


 冗談で返しているのか、本気で言っているのかよくわからない。マジで迷惑をかけていることは多々あるので、あまり強く出られない立場である。


 そのとき、事務室の入り口から陽気な声が響いてきた。


「失礼しまーす。お疲れさまでーっす」


 作業靴の足音がする。私の目の前で、六条さんがぱっと顔を上げて、すぐに視線を下ろした。不思議な動きをするな、と思ってそっちに一瞬意識を取られてから、訪問者に目をやった。


 藤原さんだった。


「六条さんいますー?」


 藤原さんは六条さんの仕事用のデスクに目をやるが、彼女はミーティング用デスクで私と一緒にいるので、そこは無人だ。


 その瞬間、うつむいていた六条さんがものすごい勢いで顔をあげた。


「あ、あの! い、います! ここに!」


 さきほどまでの落ち着き払った、ちょっと渋めのアルトボイスとはガラっと印象が変わり、うわずった声で呼びかける。


 こちらを振り返った藤原さんが六条さんの姿を認めてニコニコと感じのいい笑顔を作った。


「あー、いたいた、良かった」

「な、何のご用でしょうか」

「実はさ、生産システムのログインパスワード3回連続で間違えてロックされちゃって……」


 気まずそうに頭を掻く藤原さん。絶対初犯じゃないな、と思いながら、私は静かに立ち上がった。


 さすがの、色恋沙汰には疎い私でも、昨日日向さんから聞いた話の主人公が誰かわかってしまった。


 仕事の話をしていた時の顔は落ち着き払って、自信に満ちていて頼もしかったのが、今は妙に強ばっていて、それが彼女の横顔を若く見せていた。


「じゃあ私、相談も済んだので、これで失礼しますね。ありがとうございました、六条さん」

「あ、はい、お疲れさまです」

「お、山城ちゃん、おつかれー」


 軽く頭を下げると、ノートPCを脇に抱え、そそくさと部屋を退出する。


 社内恋愛、か。


 30代も半ばになると、恋する若者を見て純粋に微笑ましい気持ちになるようになった。


 でも、日向さんみたいに当事者問題に首を突っ込む気には絶対にならない。できれば関わらないで済むポジションにいたいものだ。


 この件も、気づかずにいられたら良かったな……。

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